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小説日本芸譚2-1

时间: 2019-05-22    进入日语论坛
核心提示:   1 世阿弥《ぜあみ》が、後小松《ごこまつ》天皇と前将軍足利義満《よしみつ》の前で申楽《さるがく》を演じたのは、応永
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 世阿弥《ぜあみ》が、後小松《ごこまつ》天皇と前将軍足利義満《よしみつ》の前で申楽《さるがく》を演じたのは、応永《おうえい》十五年三月十五日の夜であった。
 主上が義満の別邸、北山殿《きたやまどの》に行幸になったのは八日からであったが、十五日には、北山殿の南隣にあった崇賢門院《すうけんもんいん》にお渡りがあった。崇賢門院は主上の祖母に当る。ここで申楽をご覧に入れたいと義満が申し出たのであった。
 この日は朝から雨が降っていたが、夕近くなると晴れ上った。なま暖かい風が動き、遅咲きの桜の花弁が雨の名残りの雫《しずく》を重く吸って艶冶《えんや》な風情となっていた。
 この時は、世阿弥が主演して七番をつとめた。世阿弥は四十七歳で、己れの技芸には自負もあり、脂の乗ったさかりであった。まして主上の前では初めての演舞であるから全力を尽した。彼は若年のころから義満の寵童《ちようどう》であっただけに顔も立派である。演技は見物の人々を今更のように感嘆させた。
 主上はいたくお気に入って、いま一度の興行を所望された。それで二十二日の夜も重ねて崇賢門院にお渡りになった。義満も愛子の義嗣《よしつぐ》を伴って供をした。義満は、どういうものか長男の義持《よしもち》よりも、次男の義嗣を愛していた。そのことは外にも聞えて、世間では義嗣を新御所と云っていたくらいである。
 二十二日の夜の主演は、近江《おうみ》猿楽の犬王《いぬおう》といった道阿弥《どうあみ》であった。道阿弥も、世阿弥の父の観阿弥《かんあみ》が推挙しただけに、その技《わざ》は確かなものであった。主上は、これも悦ばれた様子であった。
 この十五日と二十二日の天覧申楽は、世間に大へん評判となった。能役者など所詮《しよせん》は賤業《せんぎよう》の所行と考えていた者がまだ多かったからである。それは観阿弥が今熊野《いまぐまの》で初めて義満の前で演能したときに人々に与えた衝動よりも、もっと大幅な揺すりかただった。神楽《かぐら》の余興から成長した猿楽への世間の感動であった。
 
 申楽は、もと猿楽とかいて、神社などの神楽のあとの余興であった。九世紀の半ばごろには、これを職業とする者が現われたとみえて、神社の祭礼や寺院の会《え》に集まった見物人を目当てに芸を演じて報謝をもらって生活していた。近畿には由緒ある神社や寺が多かったから、自然と彼らも近畿を中心に発達して、遂に職業団体である「座」をつくった。彼らは大てい豊かな寺院の保護をうけて暮していた。
 別に申楽に似たものに田楽《でんがく》があった。田楽は、猿楽が中央の神社や寺院で興行されるのを真似て、田舎の神社の祭りに催された。田舎猿楽であるから、略して田楽といった。
 田楽も職業化して座をつくった。猿楽の座と田楽の座は互いに激しい競争をした。鎌倉期には田楽が武家の間に流行して、猿楽を抑えたことがあった。北条高時は田楽を大そう好んだ。洛中で、四条河原の勧進田楽をしたときなど、あまりの人混みのために桟敷が崩れて騒動したこともある。
 それほど繁昌《はんじよう》した田楽も、室町期に入ると、猿楽の興隆に追い越されてしまった。猿楽は近江と大和《やまと》とが名を知られていた。大和猿楽は四座に分れ、円満井《えんまい》座(のちの金春《こんぱる》座)、坂戸《さかど》座(のちの金剛座)、外山《と ひ》座(のちの宝生《ほうしよう》座)、結崎《ゆうさき》座(のちの観世《かんぜ》座)とあった。これらはみな奈良の興福寺のお抱えの座であって、春日《かすが》神社の神事猿楽をつとめていた。近江猿楽は延暦寺を頼み、日吉《ひ え》社の神事に仕えた。尤《もつと》も、どちらも奈良や比叡《ひえい》山に定住していたわけではない。神社の祭礼を目当てに、諸国をめぐり歩き、猿楽を興行した。そのことは旅芸人と変るところがない。
 ところが大和の結崎座からひとりの才人が現われた。かれは結崎三郎清次《きよつぐ》といった。四十前までは、しがない旅興行人であったに違いないが、文中三年の春、洛外の醍醐《だいご》寺で七日間の猿楽能をした。これがひどく評判になって京辺に囃《はや》された。
 結崎清次の猿楽は少し変っていた。彼は己れの芸に曲舞《くせまい》の調子をとり入れていた。在来の猿楽も田楽も、小歌の階調で謡われていたが、曲舞の部分を混入させることで、能の音曲が複雑になり変化を起した。それが見物人に何か新鮮さを与えたのであろう。
 この京童《きようわらべ》の評判が将軍足利義満の耳に入った。耳に入ったといっても誰かが告げなければならない。云った者は南阿弥という将軍家の同朋《どうぼう》衆の一人であった。同朋衆というのは一芸をもって将軍家に近侍している者の謂《いい》である。南阿弥は作曲の上手であった。彼も醍醐の興行を見て感心し、義満に観ることをすすめた。義満の気持が動いて、今熊野で興行することになり、将軍はこれに出向いた。
 清次はこのとき「翁《おきな》」を演能した。義満は少しばかり小馬鹿にして観に来たかも知れないが、その能を見物して魅せられてしまった。清次ばかりではない。そのとき一緒に舞った十二歳の清次の子の藤若《ふじわか》の可愛らしさが眼を惹《ひ》いた。
 義満は、結崎清次の至芸とその子の愛らしさに惹かれて、この父子《おやこ》を庇護《ひご》した。清次は観阿弥を名乗り、その座を観世座と称するようになった。観阿弥は五十二歳で駿河《するが》の旅路で果てた。あとを藤若が二十二歳で嗣《つ》いだ。三郎元清《もときよ》といったが、ほどなく義満の同朋衆になって世阿弥といった。阿弥の号は将軍の同朋衆にはみな附くものらしい。
 観阿弥と世阿弥までの申楽の歴史を云うなら、ざっとこんなものである。
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