主上の前で七番を演じた世阿弥は、精一杯の技《わざ》で舞った。自信に彼は陶酔した。六年前には彼は「花伝書《かでんしよ》」を書いている。父の観阿弥の芸術を筆に書き止めたものだが、二十二歳で父に死別した彼は、その後の十六年間の己れの芸の体験を理論として織り込んでいる。それから謡曲も随分書いてきた。文章をつくることが愉しく、興奮が抑え切れなかった。古今の物語から取材して、己れの世界をつくり上げた。幻影が涯《はて》しなく心に湧《わ》いてきた。どの幻像もみな彼自身が主役であった。彼の作劇は他人のためではなく、その中で絶えず己れが動いていなければならなかった。
理論と作品の活動が、彼の演技を強い支えにした。もはや、揺ぎの無いものに思えた。逆にいえば、彼の芸術は演技が主人であって、作品も理論もそれに従属したものであったろう。しかし、演技の背骨は、それで一層強靱《きようじん》なものとなった。充足した自信は、もっと彼を上へ駆り立てていた。
子の元雅《もとまさ》も、彼の眼からみて期待がもてた。観世一座も将軍の庇護の下に、今では他の座を圧して絶対である。環境の幸福が彼を包んでいた。芸はそれを踏まえて、磨きに精出したが、芸術家の幸福は、その頂上と谷底にあることを間もなく彼は知らねばならなかった。
十五日の夜もそうであったが、二十二日の道阿弥の演能を見物していた義満の様子は、ひどく疲れた顔色であった。身体の動かしようが、いかにも大儀そうに見えた。まだ五十一歳だが、急に老けて眺められた。
よほど疲労しているな、と世阿弥は思った。主上が十五、六日も滞在なされているので、その気苦労の故《せい》かとも思えたが、それから一カ月も経つと義満が患いついたことを彼は聞いた。
義満の病勢は、五月に入るとひどく悪くなったが、不思議に五日の朝になって持ち直した。が、その小康は一日だけのことで、その夜半からまた重態となり、危篤をつづけて、あくる日の六日の夜、息を引き取った。
世阿弥は、義満が三月二十二日の晩に気色がひどく勝《すぐ》れないのを見たときから、かなりな不安を感じていた。絶頂の芸術家には絶えずつき纏《まと》う水のような危惧《きぐ》とは別な、ひどく現実的な不安である。そのことは、四十日も経たぬうちに起った義満の死で、案外に早く来た。
義満は芸の鑑賞家としては、一流であった。温かい理解者でもあるが、きびしい批評家でもあった。芸の上では依怙贔屓《えこひいき》が無かった。世間の人は、義満が世阿弥を愛したのは、若い時の男色の関係の名残りであろうと云っている。事実はあったが、その評価には歪《ゆが》みがあった。世阿弥が十六のときの夏の日、四条東洞院《ひがしのとういん》の桟敷で、義満に連れられて祇園《ぎおん》祭を見物したことがある。そのとき、同席していた内大臣押小路公忠《おしこうじきんただ》の自分に向けた憎さげな眼つきを忘れることが出来ない。嫉妬《しつと》とも憎悪とも云いようのない眼つきである。内大臣は後日、諸人に、将軍家が、乞食《ほがい》者《もの》を寵愛なされるのは、如何《いかが》なものであろう、と顔を顰《しか》めて吹聴《ふいちよう》して廻った。
そのような評判は、三十数年の間、世阿弥の芸に好奇に色づけされてきたものであった。しかし世阿弥の眼から見れば、義満は、芸のことには贅沢《ぜいたく》に眼の肥えた、おそろしい人であった。他人が考えているような甘い人ではない。この人の前で舞っていると、その視線が怕《こわ》くなって、かすかな怯《おび》えを覚えることさえあった。
後年、金春禅竹《こんぱるぜんちく》の書いた「花をかざし玉をみがく風流《ふりゆう》に至りては、鹿苑院《ろくおんいん》殿(義満)の御代より殊に盛りにして、和州江州《ごうしゆう》の芸人、あまねく御覧じ別ち、強俗を斥《しりぞ》け、幽玄をば請じ、諸家の名匠善悪の御批判、分明仰せ出されしより、道の筋目品々位々を弁《わきま》え、芸道に於《おい》ては更に私なきものなり」という文句を持ち出すまでもない。義満は、申楽興隆の開発者であり、厳しい審判者でもあった。
芸術家にとっては、己れの芸術の一番の理解者や、保護者を失うことは、時には一種の自己喪失でさえある。失望というような生やさしいものではない。宙に置かれたような虚脱感に陥るのだ。まして義満は当代の権力者ではなかったか。
考えてみれば、世阿弥は、はじめから仕合せな身分のなかで成長した。彼は少年時代から義満の傍《かたわら》にあった。父の観阿弥がしたような世間の苦労が無い。さまざまな堂上人《とうしようびと》や武家が彼の芸の鑑賞者であった。彼らの喝采《かつさい》をきき、匂うような貴族の空気を吸って舞って来た。
——義満の死は、俄《にわ》かに世阿弥を眩《まぶ》しいばかりのその舞台から追い落した。
将軍はすでに義持であった。将軍といっても、父の義満が生きている間は、己れの思うような振舞は出来なかった。とかくの遠慮があったが、父子の間は、傍《はた》の眼から見ても、面白くなく見えた。
人々は、それを蔭《かげ》で、このように噂《うわさ》した。義満は、長子の義持よりも次子の義嗣を可愛がっている。義嗣は、父に愛せられるだけの豊かな天分をその性格に持っていた。そのため兄弟の間の不仲なことはもとよりであるが、自分に冷たい父を義持が恨んでいる、というのである。
そのせいか、世阿弥は、日ごろからこの義持が気鬱な存在であった。何となく彼から敵意を感じ取っていた。義満の寵愛をうけているから、彼の憎しみをうけているに違いないという意識は、単に気を廻した思い過しだけではなさそうだった。
その証拠に、義持は一度も彼に笑顔を見せたことが無い。こちらから丁寧に挨拶しても、眼をあらぬところに遣《や》って、傲慢《ごうまん》に口を閉じて知らぬ顔をしている。そのくせ、どこかで世阿弥の横顔をじっと睨《にら》んでいるのだ。取りつきにくい男ではない。他の者には愛想がよく、平気で談笑するのである。
その義持が、義満の臨終の瞬間から将軍としての権力を握った。気の重い話だけで済むことではなかった。世阿弥は保護者を喪《うしな》ったばかりではない。この新しい敵を迎えねばならなかった。
気づくと、応永十五年春の北山での主上の前に演じた申楽能は、世阿弥の生涯で一番の頂点であった。その時は、当人は一向に分らなくとも、あとで下り坂を駆け下りたときに、はじめて、そう知るのである。