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小説日本芸譚2-3

时间: 2019-05-22    进入日语论坛
核心提示:   3 義持の行動は、まず弟の義嗣を捕えて、相国寺《しようこくじ》に幽閉したことから始まった。義嗣は遁世《とんせい》し
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 義持の行動は、まず弟の義嗣を捕えて、相国寺《しようこくじ》に幽閉したことから始まった。義嗣は遁世《とんせい》して入道となったが、間もなく自刃して果てた。
 世阿弥は、この義嗣が好きであった。父の義満の芸術的な天分の血を、最も多くついでいるのは義嗣であった。人柄もいいし、世阿弥を愛してくれていた。この人が将軍になることを世阿弥は心の奥で秘《ひそ》かに望んでいた。それは彼の芸と家の繁栄と安泰な継承である。芸道の時の王座にある者が、いつでも貪欲《どんよく》に手離し得ない我欲であった。
 然し、義持が、義嗣を死に走らせた行動に出たときから、世阿弥の空頼みは崩壊した。乾いた絶望だけが、黒い砂のようにざらざらと残された。
 その義嗣の自殺の噂がまだ鎮まらない或る日のことである。義持はどういう了簡《りようけん》からか、世阿弥を呼んで訊《き》いた。
「増阿弥《ぞうあみ》の田楽は、おれには面白いと思うが、お前はどう見るか?」
 と云うのである。義持のさり気ない訊き方には、試すような意地悪い薄ら笑いが含まれていた。
「増阿弥の田楽は、いつぞや南都東北院で見たことがございます。そのとき、立合の東の方より西に立ち廻って、扇の先ばかりでそとあしろいをしてとどめたところなど、詩人の賞玩《しようがん》は知らず、私には、なかなかの妙技だと感じ入りました。能が持った音曲、音曲持った能と心得ます」
 それは別に世辞ではなく、思った通りであった。田楽新座の太夫、増阿弥を彼はそのように認めていた。義持は、その返答に満足そうに何度もうなずいた。柔和に同感した。だが、眼の奥は相変らず冷たいものだった。世阿弥は思わずはっとなった。予感は当った。その質問の意味が残虐であったことは、すぐに知らされた。
 その日から世阿弥は、将軍には用の無い人間になってしまった。能楽は変りなく旺《さか》んに催された。が、それは世阿弥の申楽ではなく、増阿弥の田楽だけだった。義持の質問の下心は悪《にく》しみに満ちた念の入ったものであった。
 世阿弥は、義持から蹴落《けおと》された。それから長い十年間、ただの一度も勧進申楽は無かった。世阿弥は抛《ほう》り出されて捨てられてしまった。義持の嗤《わら》う声が耳に聞えた。
 増阿弥の演能による噂ばかり世間に高い。桟敷は管領《かんれい》が奉行し、将軍はその度に出向いて見物した。法勝寺《ほつしようじ》五大堂、六角堂、祇園などで行われた勧進田楽は、殊更に評判が高かった。増阿弥は権力の座に舞って、当世の流行児になってしまった。
 すべての装飾が、世阿弥から剥《は》ぎ取られた。芸術家の煩悶《はんもん》は、一度その特権の装飾を着たことによって、二重に深い。望みを得ない者よりも、落された者の方に地獄がある。焦躁《しようそう》が身体を震わして、燃え立った。
 世阿弥の著述が、この苦悩の時代に始まったという述べ方は正確だが、印象が常識に横辷《よこすべ》りする危険がある。彼は望みを喪ったから著作に没頭したのではない。挑むような野望に憑《つ》かれて著作に没入したのだ。或る芸術家には諦観《ていかん》も隠遁も無い。抱いているのは隠微に燃える勝利への執念だけである。
 彼は謡曲の創作に打ち込んだ。これだけは余人に出来ないという自負は以前からあってのことだ。特技を意識したこの自信は充分に根をひろげて爽快《そうかい》であった。それが彼を駆り立てた。彼の生涯での多作だった謡曲の大部分が、この経歴の上では沈澱《ちんでん》の時代に書かれた。
 それから彼は自分の芸道での継承を、子に完成させようとした。彼には元雅と元能《もとよし》という二人の子がいる。末の元能はものになるまい。見込みのあるのは元雅ひとりであった。この子は七つの年から稽古させた。もう二十七だが、その芸の成長は彼の心に叶《かな》っている。行末が、両手を揉《も》み合せたいくらいに愉しい。素質はある。自分の血を奪い取っているとみてよい。
 世阿弥は、父の観阿弥から芸道で、どのように沢山な教訓をうけてきたか覚えていた。彼の芸術の土台は観阿弥である。
 観阿弥の出た大和猿楽の芸風は、物真似が主であった。あるものをその形の通りにあるがままに写して演出する。写実という後世の言葉におき代えてもよい。ところが近江猿楽の方は幽玄の風趣を主とした。これも情緒主義という後代の言葉に置きかえられる。観阿弥の工夫は、この物真似に幽玄を取り入れた。写実の基礎の上に情緒を載せて融合させたのである。写実だけでは奥行も感情も無い。さりとて情緒だけではいかにも素描が頼りなく、繊弱で、量感が無い。観阿弥の着想は、物真似の線に、幽玄の色彩を塗って己れの芸を仕上げたのである。
 それだけでは済まなかった。曲舞の部分も採取した。曲舞は拍子を調子の基本とする。大和猿楽の謡は小歌節の上に立てられた音曲である。これに曲舞の音律を入れて、目新しい作曲をした。調子は高くなり、優雅なものとなった。彼の申楽が義満の鑑賞に上ったのは、そのような工夫にある。田楽のよさを取り入れるためには、田楽の名人一忠《いつちゆう》を見習った。曲舞をとるためには、曲舞師乙鶴《おとづる》について稽古した。彼は己れの芸のためには、意地穢《きたな》く他人を偸《ぬす》んだ。
 そのようなことは、世阿弥が四十代の初めにこまごまと「花伝書」と名づけて書きとめて置いたものだった。これは、父からの継承を書いたものだ。
 今度は己れの番である。自分のものを子に遷《うつ》さねばならぬ。それだけのものを、自分が持っていたことに彼は満足した。渡してよい子のあることも、まず仕合せである。
「手がけよう」
 と世阿弥は、口に出して云った。言葉は低いが周囲が一瞬に強く見えたほど自分には充実したものであった。
 彼の据った眼には、煩瑣《はんさ》な芸道の仄暗《ほのぐら》い奥道がありありと映ったに違いない。その眼のふちには、もう六十近い齢の皺《しわ》が刻んで寄り集まっていた。
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