世阿弥は、五十六歳の時に「花伝書、別紙口伝《くでん》」を書いた。五十七歳の時に「音曲声出口伝」を書いた。五十八歳には「至花道書」を書き、五十九歳には「二曲三体絵図」を仕上げ、その翌年には、「能作書」を脱稿した。
老いに近づいてくると、眼が遠くなってきて、書く文字が霞《かす》んで仕方がない。彼の筆の速度は、もとから決して遅い方ではなかった。が、それでも若い時のようにははかどらなかった。冬は手足が冷えて、炬燵《こたつ》なしには一刻も辛抱が出来ない。ただ、仕合せなことには、夜中に眼が冴《さ》えていつまでも寝つかれなかった。彼は狭い家の中で、若い者に遠慮しながら、低い咳《せき》払いをつづけて朝まで起きているのであった。
どうかすると、昼間は坐ったまま、何度も居睡りをした。この頃は前歯が無くなり、下唇が垂れてきた。涎《よだれ》がその唇の端から洩れて書きかけの紙を濡らすことも一再ではなかった。ただ、その睡りは浅いもので、自分では眼を開けているつもりのことがよくあった。大ていは表現の文章に行き詰ったり、考えに凝ったりしているときである。睡っても、考えは前からのつづきを追ってゆらゆらと彷徨《ほうこう》していた。
「としをとったな」
と自分でも思った。もう若い時のように美しい姿態で舞うことは出来まい。彼は、火桶《ひおけ》にかざした関節のあらわな、乾《ひ》からびた自分の指を見つめた。苛立《いらだ》つくらい不満だが、身体の老いがそうなのである。が、老いの敗北は感じぬ。彼は、背を丸めて、眩しそうに眼を細めながら、紙の上に筆を動かした。
「老人の花はありて、年寄と見ゆる口伝というのは、まず、老人らしい振舞いというものを、心にかけないのである。舞や働きというものは、楽の拍子に合せて足踏したり、手を指し引きするものだが、老人になると聊《いささ》かずつ遅目におくれがちになるのが普通である。この故実が、何よりも老人めかす型であるのだ。これをよく心得て、その他のことは、いかにも花やかに演ずるがよい。例えば老人の心持というものは、万事につけて若々しく振舞いたがるものである。しかし老人のことだから体力もなく、身動きも鈍重であり、耳も遠くなっているから、気ばかり逸《はや》っても、振舞いがそれに伴わない。この道理を知ることが真の老人の物真似なのである。つまり、技《わざ》をば年寄の望みのように、若々しく振舞うがよい。これ、年寄が若さを羨《うらや》む気持なり振舞いを真似ることにならないか。年寄の若振舞いは珍しさを生む理となる。こうすれば老人の花が生れるのである。——」
ここまで一気に書いて、世阿弥はふと瞳《ひとみ》をおこした。彼には前に書いたことのある「花伝書」のなかの「能はさがらねども、力なく、ようよう年闌《た》け行けば、身の花もよそ目の花も失《う》する・もしこの頃まで失せざらん花こそまことの花にてはあるべけれ・まことの花の残りたるしてには、いかなる若きしてなりとも勝つことはあるまじき也」の一句が思い浮んで来たからである。
「年寄の心には、何事も若くしたがるものなり」と今、技の説明に彼は書いてしまったが、自分の秘密な深部を無神経に引掻《ひつか》いたような不快を覚えた。若いものに敗北してなるかと力んでいる彼自身が、この嫌な表現の字句の中に押し嵌《こ》められていないか。彼は不機嫌な顔になった。年寄りの羨望《せんぼう》と嫉《そね》みという一般の演技論のこの主題が、思いがけない毒液の飛沫《ひまつ》を彼に浴びせた仕儀となった。巧緻《こうち》な演出は、心理の描写である。
しかし、と彼は渋面をつくって首を振った。芸に老いは無い。芸の花こそ、どのような若い仕手《して》でも及ばぬところだ。圧迫されるような若さを敗北させるのは、ただ老いても完成される花だけである。おれは若さを妬《ねた》んでいるのではない。おれの芸道が彼らを倒そうとしているのだ。——
六十歳の世阿弥は、そんなことを考えながら若い年代と格闘している己れの姿を凄惨《せいさん》に意識していた。
花という修辞を世阿弥は好きである。これは観衆を舞台から倦怠《けんたい》させぬ新奇な演技の企みの言葉である。芸術は先《ま》ず何よりも面白くなくてはならぬ。花とは、面白さの工夫である。歌、舞の二曲と老、女、軍の三体に制約された幽幻と物真似の世界での面白さのまことの作意とは、やはり習練の積み上げの果てに獲《え》られるものだ。それも天分のある者だけがである。
こう考えてきて、世阿弥は、はじめて鷹揚《おうよう》な安堵《あんど》を覚えた。習練と天分の神域のなかに身を置いた安らぎである。老いの劣弱感は遠ざかり、依怙地《いこじ》な拒否の特権が意識に上ってくる。
それで彼は勢づいて、「別紙口伝」の結末にこう書くことが出来た。
「わが能芸に於ては、家の大事であり、一代一人の相伝のものである。たといわが子であっても不器量の者には伝えてならない。家々にあらず、嗣ぐを以《もつ》て家とす、人々にあらず、知るを以て人とす、ということがある。この口伝こそ、万徳了達の妙花を究《きわ》める所のものであろう」
この一句の中に、彼の頑《かたくな》な拒否の授与がある。どの芸術家も持っているすさまじい老いの自我である。
この自負なら、同時代の道阿弥、増阿弥などの芸能者を罵倒《ばとう》することは何でもないことであった。
「喜阿弥は、横の声で謡い出して、同じく横の声で謡いとめる不思議なことをやった。彼は無学文盲で謡の文句の意味をとり違えていた。時々、妙な訛《なま》りもあった。増阿弥は開口で、『長生不老の政事《まつりごと》は此の御代に治り』という所の『治り』をば、落して謡っている。しかし、あれでは全く祝言の音曲ではない。増阿弥の音曲で、開口の謡が面白いと世間で云っているのは、望憶(哀愁の追憶)の声がかりがあるためである。祝言と申す音曲には、面白く感じるような曲はあるべきものではないのだ——」
曾《かつ》ての己れの地位にとって代った増阿弥の芸風には、唾を吐きかけたいくらいな憎悪があった。
世阿弥は、相変らず背を丸めて、眼を光らせ、夜中に咳払いをつづけながら、次の「至花道書」「能作書」の仕事にとりかかって行った。