世阿弥は六十二歳となった。この年、彼のあとをついだ十郎元雅が、醍醐清滝宮《きよたきのみや》の楽頭職となった。
このことを、世阿弥と観世一座にいかにも春の陽が当ったと受け取る印象は本当ではない。その証拠に、増阿弥はやはり将軍の愛寵のもとに、主座を占めて、貴族たちの賞讃に舞っていた。清滝の楽頭は従来、榎並《えなみ》猿楽の担当するところだったが、その一族が相ついで死んだので、お鉢が世阿弥の所へ廻ってきたに過ぎない。ただ、一時、小さな運が当ったと云えばいえないことはなかった。
しかるに応永三十五年の正月、前将軍義持が死に、その翌年、弟の義教《よしのり》が六代の将軍職についた。義教はそれまで義円《ぎえん》といって青蓮院門跡《しようれんいんもんぜき》であったが、還俗《げんぞく》したのである。
世阿弥の心には暗い翳《かげ》がよぎった。いやな予感が湧いてひろがった。彼は新将軍が、自分に眼をかけてくれた生前の義嗣とひどく仲の悪かったことを知っていた。その上、義教が露骨な感情家であることも分っていた。悪い予感は、この新しい権力者が、何か粗暴な腹癒《はらい》せを自分に加えてくるのではないか、という惧《おそ》れだった。
この予感は、案外に早く現実のものとなった。義教が将軍になった早々の年の五月、将軍勧進のもとに申楽を催すから、世阿弥と元雅とその甥《おい》の元重《もとしげ》とに出場するよう達しがあった。尚、これには宝生太夫の一座が出るとも云い添えてあった。
若い元雅は、頬を上気させて無邪気に興奮している。彼は逸っていた。自分の技に若者らしい自負をもって必ず宝生一派に打ち克って見せる、と元気そうに云っていた。
世阿弥は気負っている息子の様子を見詰めて、気の乗らぬ顔をして黙った。元雅は、己れの芸を将軍に見せて認めさせ、ここ十数年、凋落《ちようらく》した観世一座をもと通りに浮び上らせるつもりらしい。世阿弥は、今度の競演が、その逆の結果になると直感していた。義教の性格からみて、どこにも彼の好意を計算することは出来なかった。追い落されたまま、六十いくつの年齢を冷たく重ねた世阿弥には、他人の気持が、歩き慣れた大和の地理よりも分っていた。
五月三日、室町殿御所の笠懸松《かさかけのまつ》の馬場で、賑やかな申楽が興行された。元雅も元重も懸命に舞った。宝生太夫の熱演も無論のことである。舞台は野天のことで、初夏の陽が眩しい光を一めんに地に敷いていた。生きた馬と実際の甲冑《かつちゆう》を用いた珍しい演能で、馬の量感と鎧《よろい》の金具の輝きとが、一層に能舞の律動を豪華にした。
離れた場所で後見している世阿弥は、ひそかに正面の桟敷にある義教の顔を窺《うかが》った。後年、暗殺の運命に遭遇する精悍《せいかん》なこの将軍は、時々、傍《そば》に居る山名や細川や畠山や一色などという大名たちと批判らしい語を交わしているだけで、遠くからはその顔色を読める筈は無かった。陽が、かっと明るいだけに、世阿弥にはあたりがそらぞらしく見えた。
その夜、元雅は、今日の出来の批評を父に求めた。彼はかなりの自恃《じじ》を持っているらしかった。世阿弥も元雅の出来が一番であることを知っていた。少なくとも甥の元重とは格段の開きがあった。世阿弥はそのことを告げようと思ったが、言葉が素直に出なかった。元雅を喜ばす言葉を閊《つか》えさせる何かが気持に働いていたのである。彼は鬱陶しげな眼つきになって口を濁した。
それから十日目のことである。元雅と世阿弥は、今後、仙洞《せんとう》御所への出入りを禁止するという通達を義教から受けた。
「早かったな」
と世阿弥は思った。彼は爪を噛《か》んだ。予想通りに崩壊が始まったという満足が身体のどこかで動いていた。抵抗出来ぬ破壊は、時に壮快なものである。
元雅の方は呆然としていた。何が始まったか、彼にはよく分らないらしかった。
仙洞御所の主は、曾て世阿弥の絶頂のとき、義満の北山の第に臨まれた後小松院であった。主上は、その時から世阿弥をいたく贔屓の模様であった。それ以来、正月には世阿弥と元雅とは御所に参内して演能するのが度々であった。主上は、それを何よりの愉しみに賞玩された様子であった。あとで聞く噂には、院のそのお愉しみを抑えて、世阿弥父子を追放したのは、義教の直言だというのであった。
それを裏書きするように、次の正月からは、十郎元重が院に出入りするようになった。
「元重が」
と世阿弥は敵の出方の不意に声が出なかった。元重は彼の甥であり、元雅の従弟であった。他人ではない、身内の者を義教は意地悪く引き抜いて世阿弥の正面に立てた。のみならず、その元重を音阿弥《おんあみ》と名乗らせて、己れの同朋衆にして鍾愛《しようあい》した。
他座の者ならまだ我慢出来る。身近な者が己れを抜いて栄光の位置に坐ることは、同じ道を歩く者にとっては耐えられなかった。ことに芸術の世界ではそうなのである。他人よりも、近親者に勝たれることが、余計に敗辱と嫉妬なのである。敵意の感情は、他人よりも一層に悽愴《せいそう》であった。義教の仕打ちは、その効果を心地よげに覚えての根性からだった。
そのことが、更に形に現われたのは、明る年の春、元雅が醍醐清滝宮の楽頭職を罷免《ひめん》され、そのあとに音阿弥が据えられたことであった。将軍義教の蒼白《あおじろ》い嗜虐《しぎやく》の皮膚は、陰湿に粘って震えていた。
元雅の落胆と憤懣《ふんまん》は、見るも哀れである。彼は三日も四日も何も食べず、病みついてしまった。その果てに、気力の失せた鈍い眼で世阿弥に向い、自分はとてもこの地に居ることは辛抱出来ぬから、田舎に引込みたいと云い出した。頬はこけて、唇の色は紙のように白かった。霖雨《りんう》の降る蒸し暑い夜、元雅は遁《に》げるように京から脱けた。
二男の元能は出家した。彼には能楽の才は無かったが、父と兄の芸談の問答を書きとめた「申楽談義」を遺したのがその方のただ一つの業績である。
元雅が落ちた先は、大和の高市《たかいち》郡の越智《おち》であった。彼はその地を住いとして、そのあたりの田舎の神社の祭礼を巡って興行し、乏しい生活を支えていたらしい。山と山の間にとり附くように散在している部落々々を放浪して歩く観世十郎元雅の一座を、世阿弥は京の侘《わ》びしい住居で、例の背の丸まった恰好で凝《じ》っと想像していた。
元雅が伊勢国安濃津《あのつ》の流浪先で病死したという報《しら》せを世阿弥がうけ取ったのは、それから二年後の、坐っていても汗の噴き出る夏の暑い日であった。