世阿弥は元雅の才能を愛していた。彼が己れの芸道を伝えようと図ったのは、たしかにこの元雅一人であった。彼が綴ってきたさまざまな書きものは、元雅のためにのこしてやる目的であった。それにはいささかの間違いもない。
然し、と世阿弥は、ここで疑わしげな眼を上げた。おれは全部を元雅に伝えるつもりだったろうか。どうもそうではない気がする。どこかに一点だけ匿《かく》して置きたい気持が始終うごいていたようだった。すべてを与えることに自分は臆病だったようである。何もかも放出することは、結局は自分が空《から》になることであった。己れ自身が消失することが恐ろしかった。何か一つだけ隠匿して死ぬまで持ちつづけて置きたかった。それが無ければ、とても生きてゆく気力は無いように思われた。子の愛とか情とかとは離れたものである。芸は、本能的にもっと吝嗇《りんしよく》なものではないか。——
元雅の死は、随分と世阿弥を悲嘆させた。そのため彼は「夢跡一帋《いつし》」の一文を草したほどであった。だが、その中で「善春(元雅)、又祖父にもこえたる堪能《かんのう》と見えしほどに、ともに云うべくして、いわざるは、人をうしのう、という本文にまかせて、道の秘伝奥儀、ことごとく伝えつる数々、一炊の夢となりて」と書いた一句に、世阿弥は自身で懐疑をもった。悉《ことごと》く伝えたと考えていたのは、実は表面の観念であった。その底に張っている氷のような拒否の自我は、消しようも無かった。
それだから、まして音阿弥が将軍義教にせがんで、世阿弥の「口伝」を借覧したいと云わせて来たときには、世阿弥は昂然《こうぜん》と断わった。「口伝」とは何か。この神秘めいた秘伝は、芸術の荘重な惜しみではないか。
元雅の死によって、観世座四代の座頭《ざがしら》は義教の指図で待ち構えていたように音阿弥が嗣いだ。
永享《えいきよう》六年五月、世阿弥は将軍から佐渡遠島の命をうけた。理由はさだかでない。世阿弥が義教の命をきかず、音阿弥に口伝書を見せなかったことが挙げられているが、すでに義教の憎悪をうけていることだけで、理由は足りた。
「七十以後口伝」を去年に書いた世阿弥は、七十二歳の瘠《や》せた身体を提げて、五月四日都から佐渡に旅立った。
琵琶《びわ》湖を舟でよぎり北近江に着き、陸路を小浜《おばま》についた。この土地は、いつぞや彼が来たことのある所だが、今は老耄《ろうもう》の身なので記憶も定かでなかった。入江は見事な屈折をつくってその涯《はて》に雲が湧いている。彼はここで風待ちのため二、三日とどまった。夜の海上では美しい月を見ることが出来た。
風がしずまったので、舟は沖に出た。行くては茫乎《ぼうこ》として涯が知れない。世阿弥は、小さく縮んだ身体を伸ばして、船頭に、佐渡まではどの位あるか、ときいた。船頭が答えるには、遥々《ようよう》の船路だと云う。北海はひろがり、雲を洗って一島も無い。東の方は時雨《し ぐ》れているらしく、濁った雲の端に加賀の白山《はくさん》が見えた。
世阿弥をのせた舟は能登の珠洲《すず》の岬《みさき》を廻った。海上で昼と夜がいくつも過ぎた。その月の下旬、朝の海に霞んだ島を見ることが出来た。舟が漕《こ》いでゆくに従って、島の山がひろがって来る。彼が上陸したところはまことに淋しいところである。ここは何処《ど こ》かと問うて見れば、佐渡の海の大田の浦という答えであった。
その夜は大田に泊り、明くれば山路を馬で登って峠を越え、雑太《さわた》の郡新保《こおりしんぼ》という所に到着した。ここで国守の代官が待っていて、横柄な態度で世阿弥の身体を護送の役人よりうけ取り、満福寺という小さい寺に泊らせた。この寺の有様を見ると、後には寒松がむら立ち、山風がそよぎ、木蔭には遣《や》り水が苔《こけ》を伝って流れ、岩垣は露や雫《しずく》になめらかにうるおって、まことに長い星霜を経た様子であった。世阿弥は、わが墓所もやがて此処《こ こ》となるであろうと観念した。
しかし、そのうち泉という国府のあるところへ移された。宿所は正法寺という小さい寺であった。彼はここに、永享九年、将軍義教が殺されたため赦免になるまで、四年の歳月を送った。この時のことを書いた本が「金島集」一巻であった。
「金島集」には、世阿弥は一言の愚痴も書かなかった。露骨な感情はどこにも出さなかった。ただ、罪無くして配所の月を眺めるということは、古人の望みであるから、このような境涯になることは、自分にもそうした心があるのであろう、という一章を書いただけである。そのほかは、普通の紀行文と間違うくらい淡い文章の飾りであった。
世阿弥の心は、すでに枯れた世界に沈んでいたのであろうか。いや、枯れたのは彼の齢七十数歳の身体だけである。彼の落ち窪《くぼ》んだ眼窩《がんか》の中には、やはり異様に底光りのする眼があった。彼は相変らず、執念と忿恨《ふんこん》と焦躁とを、その露《あら》わな肋《あばら》の胸の底に真黒に持っていた。若いときと変っていなかった。芸道の人間は死ぬまでそのような業《ごう》をもちつづけるものである。
島から帰された世阿弥は、むすめ婿の金春禅竹のところに身を寄せて、八十一歳で果てた。この高齢なひとりの老人が死んだことなど、その頃、人はもう話題にもしなくなっていた。