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小説日本芸譚3-2

时间: 2019-05-22    进入日语论坛
核心提示:   2 利休が秀吉を知ったのは、かなり古いことであった。無論、彼がまだ羽柴藤吉郎秀吉といった時代である。初見はどこであ
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 利休が秀吉を知ったのは、かなり古いことであった。無論、彼がまだ羽柴藤吉郎秀吉といった時代である。初見はどこであったか定かでない。利休が念頭に無いのは、それがまだ茶によって秀吉と関係づけられていない証拠であった。利休は、茶につながらぬ以上は、どのような武将でも印象が稀薄《きはく》であった。
 しかし秀吉の声名は聞かぬでもなかった。合戦の度毎に抜群の手柄を立てて、信長の気に入り、異常な累進をしている位は承知していた。信長の前で茶を点《た》てているときでも、正客《しようきやく》と相客の間に秀吉の噂《うわさ》が交わされていることも度々耳にした。のみならず、ときどき遠国の戦場から帰っては主君に報告に来る秀吉の面貌も見知っていた。なるほど小柄だが精悍《せいかん》な顔附きと動作は、数多い織田の部将のなかでも目立っていた。
 だが、利休にあっては、それがいかなる人物であろうと、茶に縁の無い以上、所詮《しよせん》は途上の人間であった。武名も人気も、せいぜい空をよぎる遠い雲ほどの注意しかなかった。
 それが初めて利休に秀吉というものを濃く印象づけたのは、秀吉が江州《ごうしゆう》長浜に城をもらって、大原観音寺に茶屋を営んだという通知をもらってからであった。通知は、向後自分にも茶の指導をして貰いたい、という頼み状を兼ねていた。宛名は「宗易《そうえき》公」とあった。
 利休は、それをよんだ時、一人の数寄者《すきしや》を得たという喜びは、何故《な ぜ》か純粋に湧いて来なかった。秀吉が信長に気に入られようために茶をはじめた、そんな政略的な匂いがどこかしていた。宗易公というのも、信長の茶頭《さどう》としての尊称であろうが、それにも秀吉らしい追従《ついしよう》めいたものが感じられた。
 然し、その後の秀吉の茶に対する執心は、利休の当初の印象を忘れさせた。秀吉は、その戦場での戦いと同様、茶に対しても才能的であった。利休はその後、安土《あづち》でしばしば秀吉の茶の嗜《たしな》みを直接に見る機会があった。その作法といい、道具の目利きといい、利休を愕《おどろ》かせるに充分だった。彼もまた、他の人間と同様に秀吉に魅了されてしまった。
 それで秀吉が播州《ばんしゆう》姫路城の主になったときは、わざわざ茶会に出席して、持参の霰釜を進上したほどであった。その時は朝会で、後々までもその模様を記憶した。客には津田宗及《そうきゆう》がいた。押入床に牧谿《もつけい》の大軸を掛け、小板に風炉《ふろ》を据えて利休持参の霰釜をかけ、大瓶の蓋の水指《みずさし》、尼子勝久《あまこかつひさ》旧蔵の台無しの灰かずきの天目《てんもく》茶碗という道具の取合せであった。
 秀吉はそのとき、もう四十を疾《と》うに越している年齢であった。彼は人なつこい眼許《めもと》に微笑の皺《しわ》を寄せて、茶については向後も昵懇《じつこん》に願いたい、と幾度も利休に云った。彼にはまだ毛利という大敵を討つ任務が残されていた。彼は毛利に対する闘志と同じぐらいに、茶に対しても並々ならぬ執心を示していた。
 利休は秀吉のその情熱に動かされた。しかし秀吉の茶への執心は、何か利休の心に密着しないものがあった。どこかでずれていた。本来なら、秀吉のそうした意欲に、利休の方からのめってゆく筈であった。それが出来なかった。秀吉の茶への傾斜は、あらぬ方角へ滑っているように感じられた。当初に感じた不純なものとも異《ちが》う。何か分らない。このときは、ぼんやりそう感じたのであった。
 天正十年に信長が横死した。博多《はかた》の富商島井宗叱《そうしつ》(宗室)との約を果すため、蒐集《しゆうしゆう》の自慢の名物道具を披露した夜であった。彼はその夥《おびただ》しい名物と共に、火焔《かえん》の中に果てた。
 利休が今井宗久《そうきゆう》と共に信長の茶席にはじめて出たのは、四十八、九歳のころであった。五十二歳のときには、信長の茶頭となっていた。信長の行動には、いろいろ非難があるけれど、茶に関する限り、利休は信長が好きであった。それは信長の茶の美に対する直感が、利休の審美と息を合わせたということが出来る。或いは室町以来の制度を微塵《みじん》に破壊したこの実力者の性根が、利休の心に一脈の共感を通じさせたのかも知れぬ。とに角、利休と信長とは寸分のずれもなく合致し、利休の心の方が信長に吸引されているに近かった。
 信長が死ぬと、秀吉は迅速に中国陣から引返し、山崎表で明智光秀を仆《たお》した。秀吉の目覚しい躍進がはじまった。彼は近江《おうみ》と濃尾を平定し、大徳寺で亡君の葬礼を営んだ。山崎には新城を築いた。利休の眼にも、今や秀吉が信長のあとつぎになりつつある有様が知れた。
 利休は秀吉に呼ばれて山崎で茶室を造るよう頼まれた。依頼されたというよりも、命ぜられたという云い方が適切であろう。それほど秀吉はもう天下人《てんかびと》への道を奔《はし》っていた。
 利休は、はじめてこの武将のために茶室を造った。妙喜庵《みようきあん》のこの茶席は利休好みに二畳の小座敷であった。秀吉はそれを見て、まことに侘《わ》びある茶室である、と賞めた。しかし秀吉がどこまで分っていたか、利休には疑問であった。秀吉は新築のその茶室であくる年の正月に朝会を開いた。利休と、宗久、宗甫《そうほ》、宗二、宗及、宗安の六人が参席した。床に虚堂《きどう》の墨蹟《ぼくせき》をかけ、松花《しようか》の大壺を前に置き、炉には乙御前《おとごぜ》の釜を自在で釣った。水指は南蛮の芋頭、茶碗は高麗《こうらい》の井戸である。利休の取合せであった。このときも、秀吉は大そうの機嫌であった。名だたる堺衆《さかいしゆう》の茶湯者《ちやのゆしや》を一席に集めた彼は、茶においても信長の跡目をついだ満足が見られた。茶に随喜しているのではなく、機嫌はそのことに陶酔しているように思われた。利休は、果してこの武人と向後うまく行くかどうか、将来の危惧《きぐ》が心に萌《きざ》した。
 だが、利休と秀吉の関係は、そのことに関係なく、外見は平穏にすすんだ。堺衆は相変らず秀吉の茶席に喚《よ》ばれたが、その中には、必ず利休が加わっていた。
 彼は六十二歳で秀吉の茶頭となった。
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