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小説日本芸譚3-3

时间: 2019-05-22    进入日语论坛
核心提示:   3 秀吉は、石山の本願寺を紀州に退かせて、そのあとに大坂城を造営した。天正十三年には関白となった。勿論《もちろん》
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 秀吉は、石山の本願寺を紀州に退かせて、そのあとに大坂城を造営した。天正十三年には関白となった。勿論《もちろん》、そこに来るまで、彼は忙しい合戦を重ねた。柴田勝家を亡ぼし、小牧《こまき》の陣で家康と信雄《のぶかつ》と戦い、四国の長曾我部《ちようそかべ》を伐《う》ち、佐々成政《さつさなりまさ》を降《くだ》した。その一方、彼は頻りと利休を用いた。
 秀吉の勝利がすすむと、新しい降人《こうにん》や新附《しんぷ》の者が彼のもとへ頻りと来た。秀吉はそれらを城内の山里の数寄屋に誘うことを忘れなかった。其処《そ こ》に利休が侍《はべ》る。すでに利休の名は、当代随一の茶湯者として世間に知れ渡っていた。秀吉は、自慢の大坂城を見せると同じに、彼らに利休を見せた。
 山里の庵は二畳敷であった。床は四尺五寸、壁は暦張《こよみばり》、左の隅に炉が切ってある。玉澗《ぎよくかん》の一軸、信楽《しがらき》の水指、面白《めんはく》の肩衝《かたつき》、井戸茶碗——こうした取合せはその都度変るにしても、家康も、信雄も、小早川隆景《たかかげ》も、島津の使者も、博多の豪商も、新附の地方領主も、降人の武将も、一度は坐らせられて、利休の点茶をうけたのであった。
 そのときの秀吉の顔は、まことに得意さを幼稚に出していた。どうだ、おれは信長の茶頭であった利休をそのまま己れの茶頭としているぞ、と云いたい表情であった。
 それが露骨に出たのは、家康がはじめて上洛《じようらく》して来たときであった。小牧の役が済んで秀吉と和睦《わぼく》したすぐ後であった。家康を上方《かみがた》に呼ぶには大へん手古摺《てこず》って、秀吉は己れの実母を交換に人質に浜松へ預けたくらいに厄介な手数を踏まねばならなかった。それだけに家康が上洛したことは秀吉をよろこばせたのである。
 秀吉が家康と京の旅舎で対面したときは、利休もついて行って茶を点じた。そのとき、秀吉が利休の方を顎《あご》でしゃくって、家康に云った。
「徳川殿。この坊主をお見知りですか?」
 家康は、うなずいた。
「いかにも見覚えがあります」
 すると秀吉は語を重ねた。
「なるほど徳川殿は安土の城で以前に御覧なされた筈ですな。これは千宗易と申して、茶湯では天下の名人です」
 家康はこれにも、
「故右府殿に茶を頂いた折、よく見知って居ります」
 と答えて、実直そうに利休に言葉をかけ、
「あの時、右府殿の茶頭であったそなたが、今日、関白殿の茶頭を勤めているとは目出度い」
 と云った。秀吉はそれを満足そうに横で聞いていた。さも、家康がそういうのを待っていたという風であった。
 利休は、秀吉が、諸将の接待の道具に自分を利用しているとは思わない。利用されているとしたら、秀吉が己れ自身にである。そのほかの考え方は無かった。
 秀吉は信長になろうとしているのだ。これまでの秀吉のやり方を見ていると、戦争でも、部下の操縦でも、みんな信長の真似であった。信長の模倣において、利休を据えているとしか思えなかった。利休を茶頭としたことで、秀吉は信長になったつもりでいる。
 すると、利休は勢い信長と秀吉とを比べないわけにはいかなかった。
 信長は茶を解していた。たしかに茶の真に直感を働かしていた。芸術に対する憧《あこが》れがあった。それだからこそ、自分はあれほど信長に執着することが出来た。構えは、要らなかった。彼に対しただけで、いつも充足があった。
 しかし、秀吉は異なっていた。なるほど彼は数寄者として異常に熱心である。が、それは何か的が外れていた。美への直感というものが無かった。芸道の理解も上辷《うわすべ》りした、底の浅いものである。利休が秀吉に間隔を置いて、どこかで傍観している理由はそこにあった。実際、利休は秀吉に対して、いつまでもなじんで行けそうになかった。
 秀吉が信長になれるとは、少なくとも茶のことでは、飛んでもないことだと思った。
 しかし秀吉は当分は茶に就いては多少は謙虚であった。彼がまだ自分の行く手にかなりな敵をもっている間はである。が、日本中どこにも彼の頭の上を遮《さえぎ》る障害が一物も無くなり、諸大名が彼の前に慴伏《しようふく》すると、秀吉は巨大な頂上に立ち、どんなわが儘《まま》をしてもよい頂上になり上った。
 この辺りから利休は、己れと秀吉との間のずれが、少しずつ拡大されてゆくことを意識した。それが拡大するにつれて、漠然と考えていた秀吉の正体もはっきりしてきた。
 秀吉は黄金の茶室を造った。三畳敷だが、天井、壁、その他みな金であった。あかり障子の骨まで黄金で、紙の代りに赤紗《せきしや》を張った。座敷の飾り棚は梨地で、金物は黄金である。のみならず道具まで金であった。切り合せの風炉、柄杓《ひしやく》立、茶入、棗《なつめ》、四方盆《よほうぼん》、茶杓、蓋置《ふたおき》、火箸《ひばし》、茶碗、炭斗《すみとり》、火吹き、すべて黄金で出来ていた。秀吉はこれを豊後《ぶんご》より上った大友宗麟《そうりん》に観せて彼を仰天させた。
 普通の茶室に現われる秀吉の服装もそれに負けなかった。上に唐織の小袖を着、五つむねに下までみな上のえりで、その上につけた胴服はぼけ裏の白い紙子《かみこ》、真赤な長い帯を一方長く結んで膝《ひざ》の下まで垂らし、頭には萌黄《もえぎ》のしじらのくくり頭巾《ずきん》を被《かぶ》り、小袖は足が見えぬ位に長めであった。こんな姿で悠々と二畳敷の茶席に坐った。
「成り上り者」
 利休は顔をそむけて、この言葉を己れの胸に吐いた。彼の秀吉への評価は、要するにこれであった。
 利休が完成した己れの芸術には、秀吉はおよそ裏側に居た。
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