利休は堺の町人武野紹鴎《じようおう》の弟子であるが、彼自身もこの地の魚問屋の伜《せがれ》であるから、この結びつきは、土地が媒介の役をしたといえそうである。人間同士の触れ合いは大体そのようなものである。事実、利休を紹鴎に紹介したのは、同じく堺にいた道陳《どうちん》という者であった。
利休は紹鴎から茶を習ったが、実際に遠い追慕を寄せていたのは、茶の湯の開祖の珠光《しゆこう》であった。利休の茶は珠光を継承して、己れの工夫を加えたことで完成した。
珠光の言葉としては、茶道具の取合せについて、藁屋《わらや》に名馬繋《つな》ぎたるがよし、麁相《そそう》なる座敷に名物置きたるがよし、風体《ふうてい》尚以《もつ》て面白きなり、が高名に知られている。茶はそれまで東山風のきらびやかな書院の中で、高貴な粉飾をもった礼式として発達した。それを庶人風に直したのが珠光であった。四畳半の座敷は彼の創意である。鳥子《とりのこ》紙の白張り、杉板のふしなし、天井の小板ぶき、一間床。そこには禅僧の墨蹟をかけ、台子《だいす》を置く。炉を切って、及台子《きゆうだいす》を置合せる。卓には香炉、一色の立華《りつか》、料紙、硯箱《すずりばこ》。そんな飾り附けであった。四畳半が藁屋、道具が名馬なのである。茅屋《ぼうおく》の内の高貴な名器——その対照の破調の中に寂《さ》びた美を創った。無論、粗衣をまとって贅沢《ぜいたく》な精神をもつという、あの禅宗の翳《かげ》りをうけた。必然に、心がそこに起った。
珠光は東山流の貴族茶道を革命して、近畿《きんき》の町人茶道を始めた。それが世間に迎えられて、ひろがった。町人だけではない。実力をもって世に出つつあった武士の間にも浸透した。彼らは貴族の出ではなく、多くは辺陬《へんすう》の下層豪族であった。中央の高貴な支配者は追い落されつつあり、下からのし上った彼らがそれにとって代ろうとしていた。東山流を破壊した珠光の茶風が、新しい実力者たちに受け入れられる魅力は充分にもっていた。
珠光の茶は、孫弟子の紹鴎がうけて、利休に伝えた。利休は珠光のものを、もっと濾過《ろか》した。或いは圧縮した。彼はそのことで、己れの芸術が完成したと自負している。
利休は、四畳半では、まだ茅屋に至らぬと考えた。そこで、三畳、二畳半、二畳、一畳半の座敷を作り出した。三畳でも広すぎると後悔したこともある。茶を、いよいよ簡素なものにした。簡略にすることによって、精神は内側から膨れ上ってくる。形式の圧縮は、観念の饒舌《じようぜつ》なのである。利休は次々に煩瑣《はんさ》なものを伐《き》って行った。彼は単純を限界に追い詰めた。それらのことに彼は満足した。これが侘びたる心であると思った。
茶をする多くのものは、道具の名物を珍重する。名馬を繋ぐ珠光の理想からいえば当然であった。だから道具の目利きは、茶湯者の資格の一つでさえあった。唐物《からもの》とよばれる異国渡来の茶碗が珍重される。利休はこれにも離反した。彼は唐物の代りに軽蔑《けいべつ》されていた和物を使った。長次郎に焼かせた楽焼などがそうである。赤と黒の茶碗であった。
色彩といえば、利休は黒い色を好んだ。ただにそれが抹茶《まつちや》の緑色を引立たせるという効果からだけではない。黒色からうける美を賞玩《しようがん》した。ここにも色彩の極限と煮詰めがある。だから同色系の鼠色にも移行するのであった。
利休は華美を嫌悪した。大げさな身振りを嫌った。自然な単純が彼の理念であった。室町書院を百姓家の草葺《くさぶ》きに引き直してしまった。露地の植木は山間の風情である。簀戸《すど》はどこにもある百姓家の木戸をそのまま外してくる。駒下駄、雪踏《せつた》など庶人の生活のものを平気で持ち込む。花生《はないけ》など胡銅《こどう》の勿体《もつたい》ぶった重々しさの代りに、竹を切って軽妙な花筒にした。
利休の茶の芸術というものは、要するに、そういう薄墨の美であった。町人の茶であった。
信長は、その美が分っていた。この保護者は、利休を理解してくれていた。だから利休は安心して、己れの茶の完成に努めることが出来た。
そこに、保護者として秀吉が交替した。彼は黄金の茶室をつくり、唐織の錦の小袖を着て、紅色の長い帯を垂らしながら二畳半の座敷に現われる。彼は黒茶碗を嫌う。墨染めの襟《えり》、布子色《ぬのこいろ》の綿帯をつける利休の観念からすれば、我慢のならないものであった。
秀吉を数寄者というが、信長と違って、茶の心など分りはしない。少なくとも己れが完成して自負している茶の美をだ。茶は、俗物である彼の気どった装飾に過ぎない。
そう思うと利休は、秀吉という人物をだんだん軽蔑したくなってきた。秀吉は、むやみと官位を欲しがる。関白の次は太政大臣の位階を貰った。侍妾《じしよう》も由緒ある身分の出からばかりとる。淀殿《よどどの》の浅井氏、加賀局《かがのつぼね》の前田氏、松の丸殿の京極氏、三条局の蒲生《がもう》氏、三の丸殿の織田氏、みなそうである。それは出世した彼が、己れを飾り立てんとする根性から出ていることなのだ。そのことは、彼の茶にも通っていないとどうして云えよう。
利休は、もう一度、秀吉という人物が我慢出来なくなった。
さりとて、利休は秀吉の前から後退する意志は少しも無かった。それでは茶の道が秀吉からいよいよ涜《けが》されることになりそうだった。諸大名は我も我もと争って茶事をしている。利休は、権勢に結び付いた茶が、その精神を秀吉に侵略されそうな気がした。
利休は秀吉と格闘しようと決心した。己れの膝の下に敷いて組み伏せることを覚悟した。
彼の不屈な、傲岸《ごうがん》な眼が、老いた眼窩《がんか》の底に光った。