秀吉は、やはり茶会をしきりと続けた。それも彼らしい大規模な茶会を度々した。
天正十五年の正月には、大坂城内で大茶会を行った。博多の数寄者神谷宗湛《かみやそうたん》を呼んだときである。利休をはじめ、宗無、宗及が茶頭をつとめ、諸大名が呼び入れられた。座敷の飾りは書院式の華やかなもので、宗無の茶頭となった分は、黄金台子の上に黄金の棗、台天目、風炉と釜、縁桶《ふちおけ》、柄杓立、合子《ごうし》、炭斗、火箸、すべて黄金造りという自慢の黄金茶器の飾りつけであった。座中の大名共がどよめいて、声は鬨《とき》をあげたと紛うほどだった。
同じ年の十月朔日《ついたち》には北野に有名な大茶会を催した。はじめは十日間にわたるつもりであった。秀吉の茶席は四席に囲い、その一席は彼が自ら点前《てまえ》をした。公卿《くげ》から町人に至るまで参じ、北野の松原に建てられた茶屋の数は、八百余軒もあった。前代未聞のことであると洛中はもとより近畿にひびいた。
このような大げさなものでなくとも、大坂の城内や京都の聚楽第《じゆらくだい》では、度々秀吉主催の茶会があったが、その派手好みの精神は同じことであった。ある時は客将を招じ、ある時は富商の数寄者を迎えては茶席を設けたが、秀吉の背徳な態度は、少しも変るところがなかった。
無論、利休は秀吉の茶頭として、いずれの茶会にも参席した。それは、単に役目柄という責任のためばかりではない。責任はむしろ己れの芸術を侵されまいとすることから、参会した。必ず秀吉を己れの芸の下に敷いて見せる、と心に叫びつづけていた。
利休は、いつの間にか沢山な大名弟子に囲繞《いによう》されていた。蒲生飛騨《ひだ》、細川忠興、高山右近《うこん》、古田織部《おりべ》、織田有楽《うらく》、小早川隆景、そのほか黒田孝高《よしたか》、伊達《だ て》政宗、浅野長政などの殆どの大小の大名が彼に近づいていた。そのうちの大ていの者が政治的な意味からの接近であることが分っていた。それだけの権力のようなものが、秀吉の茶頭をつとめることで、秀吉から反射されていた。のみならず、秀吉は内々の交渉ごとを利休が茶湯者であるという便利さから、柔軟な駆引に使ったこともあった。そのことが世間に権威めいて拡大された。利休は、それも知っている。
が、彼はこの重宝な地位に居ながら、秀吉の恩恵を考えなかった。彼には茶以外の何もない。背徳者秀吉への刃《やいば》は研ぎすまされるばかりだった。
秀吉には、利休のこの倨傲《きよごう》さが眼に映っていたに違いない。利休の完成した芸術に、彼は以前から或る息苦しさを感じていた。寸分の隙も崩れもない芸術——じだらくな秀吉は少々やりきれなくなっていた。利休が、膠《にかわ》のように固まった自負で強引にその芸を押しつけてくると、彼もまた利休に対して反撥せずには居られなかった。
保護者は、最初に偏愛した芸術家が巨《おお》きく成長し、その個性を強烈に強要してくると、遂には窒息を感じ、時には、嫌悪を覚えるものである。
秀吉もまた、利休に苛立《いらだ》ちを感じ、敵意を生じた。
こうして両人の闘争が、いつの頃にか始まった。——
さまざまなことがあった。
秀吉は、利休に水をいっぱいに張った黄金の鉢と、蕾《つぼみ》のついた一枝の紅梅を示した。これに活けてみよ、と云う。利休はいきなりその枝の蕾を手でしごき取って、そのまま黄金の鉢の中に投げ込んだ。水を湛《たた》えた黄金の鉢に、紅梅の蕾が無数に散り咲いたように漂った。利休は秀吉の云うことが笑止である。秀吉はその利休の顔を面憎《つらにく》そうに見た。
またのとき、秀吉は大仏殿の内陣を茶室に見立てて、茶をする人間がいるか、ときいた。秀吉にすれば、利休が二畳、一畳半などと座敷を狭く狭くするのを皮肉ったのである。大仏殿の内陣は広大である。あんな広いところでは、お前は茶をよう立てまい、と言葉の外で云っていた。
「左様、伜ならやれると存じます」
利休は答えた。伜の紹安ならやれる、まして、おれに出来ぬことがあるか、利休も口に出した返辞の外で、そう云っていた。秀吉は、ふんと嗤《わら》っているような利休の顔を見て、不機嫌そうに黙った。
聚楽第の秀吉の朝会では、秀吉は前もって床柱前の肩衝《かたつき》と天目茶碗の間に野菊を一本はさんでいた。どうだ、風趣があろう、と彼は誇りたそうだった。入ってきた利休は、亭主の秀吉の作意を無視し、知らぬ顔をして野菊を抜き取って横に捨てるように置いた。客の黒田孝高の方が息を呑んだ。秀吉は怒った眼を利休に向けた。利休はその眼にも取り合わなかった。秀吉のやることなど傍痛《かたはらいた》いという横顔であった。
利休は黒色が好きである。よく黒茶碗を用いた。秀吉は黒が嫌いであった。不吉な色だと思って嫌うのか、利休の好みであるから嫌うのか分らなかった。利休は己れの茶会では、わざと黒茶碗を取り出して皆の前に見せた。このときの利休の眼は、いかにもうれしくてならぬ風であった。
天正十六年の秋には、大徳寺の古渓が秀吉の勘気に会って九州に流謫《るたく》されることになった。その送別の茶会を聚楽第の利休の庵で開いた。相客には三人の和尚をよんだ。座敷は四畳半で四尺の床がついている。風炉に霰釜、地紋のついた水指、金《かね》の柄杓立、五徳の蓋置、台天目と尻膨《しりぶくら》の茶入という取合せである。それはよい。床には虚堂の墨蹟がかかっている。これは秀吉から表装を仕直すために預かっている一軸であった。己れのものでない、役目の上から預かった品であるからもとより掛けるべきではない。ましてや秀吉のものである。その上に、この席は秀吉の怒りに触れた古渓のための席なのである。利休は、さも爽快《そうかい》そうな顔をしていた——
利休と秀吉の間は、次第に険悪になってきた。
利休は、早晩何か来るかも知れぬな、と思った。秀吉の眼が以前と違う。野放図に屈託の無い眼が、利休に向うときだけ神経質な焦躁《しようそう》と、籠《こも》ったような憎しみが見えていた。
しかし利休は、今さら引く気は毛頭無かった。危険に飛び下りてゆくような感じであった。秀吉を敗北させるか、自分が死ぬか、どちらかという心であった。彼は、傲岸に、秀吉を圧迫しつづけた。
生命の破滅を予感しながら、この巨大な権力者を芸術の上から虐《いじ》めてゆくことに、利休の心は快げに躍った。
それから、長い時をかけて、格闘は終った。——