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小説日本芸譚4-1

时间: 2019-05-22    进入日语论坛
核心提示:   1 雪舟《せつしゆう》が、京都相国寺《しようこくじ》の春林周藤《しゆんりんしゆうとう》のもとに弟子入りしたのは、永
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 雪舟《せつしゆう》が、京都相国寺《しようこくじ》の春林周藤《しゆんりんしゆうとう》のもとに弟子入りしたのは、永享《えいきよう》三年の秋、十二歳の時であった。この年、唐画《からえ》をよくしたといわれる東福寺の殿司明兆《でんすみんちよう》が歿《ぼつ》した。
 雪舟は、無論、のちの号である。彼は備中《びつちゆう》の山奥、中国山脈の脊梁《せきりよう》に近い狭隘《きようあい》な土地に藤原氏を名乗る家柄に生れた。家柄だけで、さして富裕ではなかった。兄が数人もある。出家せねばならなかったのは、分けて貰う何ものも無かったからである。
 土地は相国寺の荘園であった。彼が幼い身体を運んで京に上り、相国寺に入ったのはその理由からだった。禅僧として智識の名が高かった春林周藤は、この小さい弟子に己れの諱《いみな》に因《ちな》んで等楊《とうよう》という名を与えた。藤は楊に通じるのである。
 等楊は喝食《かつしき》として春林に仕えた。春林は気難かしい男であった。滅多に笑った顔を見たことがない。夜は深更まで塔頭《たつちゆう》の奥にひそんで、「文殊師《もんじゆし》利問経」や大部の「禅林宝訓」や「天童山景徳寺如浄《によじよう》禅師語録」などの難解な典籍を読むことに没頭していたし、昼間、食事の間でも眼を閉じて睡ったように瞑想《めいそう》していた。少し曲った太い鼻と、いつも真一文字に結んでいる唇とは、いかにも意地の強そうな人のようであり、他人を気安く近づけなかった。その貫禄は五山の随一である相国寺の住持にふさわしかった。
 等楊がこの怕《こわ》い師の身辺の世話に仕えて三年目に、ようやく一人前の雑僧の端に上った。彼がかねてから好きな絵を本気にやってみたいと考えたのはこの頃からだった。
 その決心をつけさせたのは、一つは同僚の良心《りようしん》の誘いであった。等楊が、作務《さむ》の間にも、行斎のあとの僅かな隙《ひま》にも、土や板の上に指で落書するのを見て、絵を学ぶことをしきりとすすめた。人のいい良心は、そういう特技のある友だちを何となく尊敬していた。自分が平凡な人間であると覚《さと》り切っている彼は、この多少取りつきにくいところのある無口な隣席の友人に全く譲っていた。
 相国寺には絵を描く僧が少くはなかった。なかでも都寺《つうす》の天章周文《てんしようしゆうぶん》という役僧は、殊に名手として洛中に知られていた。彼は本務の傍《かたわ》ら、己れの塔頭に籠《こも》って絹や紙を展《の》べて背を丸めていた。その傍《そば》には絵の弟子たちが必ず二、三人は屈《かが》んで、周文の筆捌《ふでさば》きを見詰めたり、庫《くら》から粉本《ふんぽん》の舶載絵を出し入れしたりしていた。等楊は通りがかりにそれをのぞき見る毎に羨《うらや》ましいとも、自分もあの仲間に入れて貰えたら、とも思うようになった。
 等楊が、良心にも焚《た》きつけられ、自分も決心して周藤にそのことを申し出たとき、
「絵か」
 と周藤は一言吐き出すように云っただけで暫《しばら》く黙っていた。気難かしい顔なので、容易に表情を弁じ難い人であったが、この時は、はっきり冷たい光が眼に出ていた。それから、好きならやってみるがよい、と無関心な調子で云ったのは、やや間を置いてからの答えであった。
 何故《な ぜ》、周藤が瞬間でも軽蔑《けいべつ》の色を顔に露骨に見せたか等楊に分らなかった。周藤は後年、将軍足利義政第邸の「八景障子」「御泉殿障子」の作詩をしたほどの詩文家であり、当代の教養人であった。画僧といえば世間では珍重されているのに、周藤ほどの者が等楊の希望に冷淡だったのは、どのような理由か彼には解せないのであった。
 が、それは等楊にとって大した懸念ではない。周藤の不機嫌な顔は常のことであるから、さして深くも考えなかった。冷淡であったにせよ、師の紹介を得て、欣《よろこ》んで憧憬《どうけい》していた周文の絵の弟子入りをした。
 周文はくだけた男であった。性格は周藤とまるで反対である。多弁で、云うことに機知があった。何か云っては弟子たちをよく笑わせた。人と会っても如才がなく、ことに上位の役僧には慇懃《いんぎん》であった。はたから見ても、いかにも世故長《た》けた感じであった。もともと都寺という役が一山の会計を掌《つかさど》る務めであるから、そのように人間が仕立てられたのかもしれない。無論、計数には明るかった。よく他人の噂《うわさ》をしたが、彼なりの算勘で評していた。要するに能吏であった。が、周藤に較べて、周文は格段に俗人であった。
 然し、絵は当代の神手といわれるだけあって、愕《おどろ》くほど巧《うま》かった。牧谿《もつけい》や夏珪《かけい》、さらに馬遠《ばえん》や孫君沢《そんくんたく》、玉澗《ぎよくかん》などの宋《そう》元の名筆を摸《も》して、描き上げたものは殆ど真蹟《しんせき》に異なるところがなかった。等楊は、どうして周文のような俗人にこのような画が描けるかと不思議でならなかった。
 等楊は周文について、絵筆の運びの手ほどきを受けた。勿論《もちろん》、弟子は彼一人ではなく、沢山居た。その中でも、画技がよほど進んでいる先輩が四、五人居て、師の周文の側近を形成していた。彼らは後輩に対して優越感をもち、師の周文とは殊更親しそうな口吻《こうふん》を用いていた。だんだん見ていると、その著しいのが、宗湛《そうたん》という男であった。
 宗湛は等楊より五つか六つ年上に見えた。背の小さい男だが、はしっこい眼もとをしていて、門下生の代表のような顔つきをしていた。あとから入ってきた等楊のような後輩とはあまり口をきかず、自分が皆から逸材として視られていることを意識したような様子で、同輩の二、三人とだけしか話を交わさなかった。
 なるほど、彼が態度で自負を見せるだけあって、絵はうまかった。描き上げた絵を見ると殆ど周文に逼《せま》っていた。それほど師匠の筆様にそっくりであった。
「どうだね、先生の絵とわしの絵とでは、もう何の逕庭《けいてい》はあるまい」
 と周文の前で皆に冗談めかして云うこともあった。が、満更、底には冗談でもない本心がのぞいて厭味《いやみ》だった。が、肝心の周文は笑ってきいていた。この高足《こうそく》の弟子が可愛くて堪《たま》らぬ風に見えた。
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