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小説日本芸譚4-2

时间: 2019-05-22    进入日语论坛
核心提示:   2 等楊は絵を習いながらも、無論、禅僧としての修行は積んで行った。ある日、大衆と「普勧《ふかん》坐禅儀」を誦《ず》
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 等楊は絵を習いながらも、無論、禅僧としての修行は積んで行った。ある日、大衆と「普勧《ふかん》坐禅儀」を誦《ず》したあと、隣で結跏《けつか》を崩した良心がそっと等楊に低い声で訊《き》いた。
「どうだ、絵の稽古は上達しているか?」
「いや、思うようにゆかぬ」
 と等楊も細い声で返した。どうしてだね、と良心はまた訊いた。
「いやな奴が一人居る。それが目障りで本気になれない」
 と等楊は答えた。良心は彼の顔を凝視して、
「お前は偏窟《へんくつ》だからな。それを捨てなければ絵の修業も出来ないよ」
 と云った。それが仔細《しさい》らしく聞えたので、二人とも眼を見合せて声を出さずに笑った。
 いやな奴、と等楊が云ったのは、もちろん宗湛であった。彼はこの男が同座しているだけで気をとられて、周文から与えられた絵手本の奇巌《きがん》も、点在する村落も、靉靆《あいたい》たる雲霞《うんか》も、渓谷の水も、杖《つえ》を曳《ひ》く人物も、眼の前から遠のくほど心が散った。
 等楊からみると、宗湛の態度は傍若無人であった。小さな顔に慢心が溢《あふ》れていた。彼は梁楷《りようかい》の道釈《どうしやく》人物や、高彦敬《こうげんけい》の山水、銭舜挙《せんしゆんきよ》の花鳥などの筆様を比較して、したり気に論じたりした。元宋の真蹟は、遣明《けんみん》船によって年々舶載されて日本に渡り、この相国寺の庫にも夥《おびただ》しく蔵してある。尤《もつと》もそれが悉《ことごと》く真蹟であったのではなく、八割くらいは日本輸出用の摸本であった。記録(撮壌《さつじよう》集)によると当時、日本に渡った宋元の筆者は百八十二家を数えているくらいであった。しかし、これは落款《らつかん》の読み違いや、同一画家を別人と誤ったりして実数はそれほどでもなかった。が、ともかく宗湛が物知り顔に舶載画の知識を披露する材料にはこと欠かなかった。
 のみならず、彼は師の絵を批評することすらあった。先生、この出来は劣っているとか、これはよく出来ているが粉本に比して筆勢にやや弱点があるように見受けられるが如何《いかが》ですか、といった具合である。故意にそれを皆に、ことに初級の後輩に聞えよがしに誇らしそうに云うのであった。等楊はそれをきくとへどを嘔《は》きそうに胸が悪くなった。小才の利いた宗湛という人物がいよいよ嫌いになった。等楊から見ると、宗湛の絵は周文の上面《うわつら》を小器用に摸してきれいに仕上げているだけで、実技は周文に及びもつかなかった。が、周文は宗湛から何を云われても、笑っていた。相変らずこの弟子が気に入っていた。
 尤も、宗湛は時には周文に及ばないことに気がつくとみえて、
「先生。これは神品ですな。とても我々には描けない。もし明に渡られたら、先生は必ず大家に賞讃されるに間違いありません」
 とほめ上げるのであった。周文は、やはり破顔していたが、この愛弟子《まなでし》の毒舌をきくよりも、さすがにうれしそうであった。
 ある日のことであった。周文が馬遠の山水を臨画して描き上げると、宗湛が覗《のぞ》き込んで、先生、これは傑作ですな、と感嘆した。それは周文にとっても満足な出来であったのであろう、何度もうなずき、自作に惚《ほ》れ込むような眼つきをしていたが、やがて顔色が改まると、
「宗湛よ。わしはこれほどの絵を描くが、役としてはただの一山の都寺だからな」
 と不平げに呟《つぶや》いた。
 ふと洩らしたこの言葉を等楊は耳に聞いた。それは、「絵か」と冷淡な一語を叶いた周藤の表情に通うのである。が、幸いにも等楊はまだその実際の意味を解しなかった。
 等楊の絵の上達は決して著しいものではなかった。のみならず、彼の無器用さは、小綺麗《こぎれい》な仕上げがどうしても出来なかった。一例が紙の上に水墨を落して捌《は》く烟霞《えんか》のような暈《ぼか》しがどうしてもうまくいかない。模糊《もこ》たる雲烟は、墨が溜《たま》り、見苦しい斑点《し み》を残すのである。
「駄目だなあ、もっと手ぎわよく描かなければ絵にならないよ」
 宗湛が何かの拍子にのぞいて、先輩ぶった苦情を云うことがあった。彼の眼には歴々とあざ笑いが出ていた。
 周文は、従って宗湛も、牧谿を絵手本として頻《しき》りと摸していた。牧谿の柔らかい気分描写はこの時代の人に好かれたし、舶載の絵の中でも最も多かった。それで彼ら二人は牧谿様の柔らかい美しい仕上げに得意であった。同様に馬遠や夏珪の緻密《ちみつ》で繊細な筆様も摸していた。要するに彼らは、明の文人画に未《いま》だなじまず、専ら宋元の端正な院画風な絵を手本としていた。
 等楊はどのように努力しても、絵がきれいにかけなかった。それは生来の彼の無器用さによるのだ。この頃は、刷毛《は け》筆も無ければ、連筆も無く、面相のような細筆も無かった。せいぜい二、三種の大小の筆があるだけである。それによって肥痩《ひそう》の使い分けをし、地の暈しをする。その技巧が等楊にはどうしても練達出来なかった。
 等楊は己れの才能を疑って、何度か絶望した。宗湛に何かと云われるのが癪《しやく》である。あの意地悪な眼つきで、描いた絵を凝《じ》っと視られると苛々《いらいら》して、作品を目の前で破り棄てたいくらいである。未熟の羞恥《しゆうち》からではなく、生理的な焦躁が抑え切れないのだ。この男に敗北したくない敵愾心《てきがいしん》のみで、絶望から匍《は》い上ったことも一再ではなかった。
 ところで周文は——周文も等楊の無器用さに顔を顰《しか》めていたが、二年もした或る時、等楊の描いた絵を見て、暫く瞳《ひとみ》を凝らした末、こう云った。
「相変らず仕上げは劣っているが、どこか原図を掴《つか》んでいるところがあるね」
 画稿は孫君沢の烟雨山水図である。それから彼は傍に居合せた宗湛に見せて賛成を求めた。
「ね、君。そう思わないか?」
 宗湛は、はしこい眼をそれに投げて、
「そうですね」
 といったきり、そうだとも否とも云わなかった。甚だ無愛想な顔で自分が臨摸《りんも》しようとする銭舜挙の群鶏図に瞳を落したままだった。
 
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