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小説日本芸譚4-3

时间: 2019-05-22    进入日语论坛
核心提示:   3 十年の後、等楊はその画技において、宗湛と争うまでになっていた。 絵の仕上げは相変らず器用でない。しかし等楊は、
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 十年の後、等楊はその画技において、宗湛と争うまでになっていた。
 絵の仕上げは相変らず器用でない。しかし等楊は、その欠点を補う途《みち》を見つけていた。それは構図の妙であった。一体、舶載されてきた宋元の画には大幅《たいふく》が無く、殆どが小品であった。それで日本の画家は布置の変改を試みようにも、狭小な絵手本の内容に縛られて工夫の見当がつかなかった。ここを彼処《あそこ》に、彼処を此処《こ こ》に置き変えるという創意の余地がなかったのである。殆ど真蹟通りの模倣であった。なるほど周文は大幅を描いた。彼の偉さはそこで讃《ほ》められていいが、それも小品の原図の引き伸しであった。それで、その欠点は、茫乎《ぼうこ》として纏《まとま》りのない、ふやけた結果となって顕《あら》われている。周文ほどの者すら、画面に改変の創意を加えることまで及ばなかった。
 等楊は、舶載宋元画の中でも、夏珪、李唐《りとう》、馬遠を好んで学んだが、最も心を惹《ひ》かれたのは、銭塘《せんとう》の人、孫君沢の作品であった。君沢のかいた山水画は構図に整正の美があった。整っていることは、形式的になることから免れない。実際、孫君沢の構図の様式は通俗的でさえあった。
 日本の風土とは全く異質の、シナの風物を画題とする限り、一度も実地を見たこともない画家たちは、専ら「画本」による概念しか得ていなかった。その、あやふやな観念に固定されているから、原図の呪縛《じゆばく》から一寸も離れることが出来ない。だから部分的な作意の挿入《そうにゆう》も大そうな冒険で、怕《こわ》くてやれなかった。その限りでは、悉く模倣から出ることはなかった。
 等楊は孫君沢の形式的な構図を学んでいるうちに、敢えてその冒険を試みた。この場合、原図の通俗性がその関門をくぐらせたと云えそうである。呉道玄《ごどうげん》や易元吉《えきげんきつ》の峻厳《しゆんげん》難解では、それは出来なかったに違いない。
 小さい部分を置きかえることでも、等楊は、構図の理解に一歩ずつ踏み入ることが出来た。無論、画本としている宋元画の構成には一分の隙も無かった。右の物を左に移すということは容易ではない。それをやってみると、構図は土台の桁《けた》が外れたように崩れた。が、その経験を何度も繰り返しているうちに、等楊は、画面における力点の設定や、空間の効果や、曲線の交差における安定感など一切の構図の上の理念がぼんやりと分りかけてきた。
 天章周文や天翁《てんのう》宗湛は異《ちが》う。彼らは如何《い か》にして図面の上で宋元画を追究するかということに懸命になっていた。が、それは表われた技巧の上だけだった。いかに上手に肖《に》るかということであった。
 等楊の手さきの無器用さが、かえって近視的な画面の表から離れて、原図の内容に眼を開いたのは仕合せだった。彼はあらゆる舶載画の図柄を頭の皺《しわ》の中にたたき込んだ。彼にとって多く観ることは、多く憶《おぼ》えて仏典のように暗誦《そらん》じることであった。彼は少しずつそれをとり出して布置した。夏珪の風景に、李唐の村落を点じて配するというが如きである。
 周文の眼が等楊を羨ましげに見たのは当然だった。彼は、この弟子が自分とは異質なものを次第に成長させていることに気づいていた。相変らず、絵はきれいでないが、力強い何かが逼っていた。美しいが、弱い絵を描く自分や宗湛に無いものだった。
 どこか原図を掴んでいるね、と十年前に評した周文は、もう一度それを云うなら、もっと別な言葉で強調せねばならなかった。
 宗湛は、——これはただ嫉《ねた》ましげに等楊を敵視しているだけであった。いまや自分の地位に逼ろうとしている彼に全身で抵抗していた。宗湛の安心といえば、等楊がやはり無器用な絵しか描けない一点だけであった。
 宗湛は、人から等楊の絵の批評を求められると、必ずこう云った。
「拙《まず》い絵だね。もう十年も上になるのに、線が少しも整わない。どういうのだろうね」
 首を傾《かし》げて、蔑《さげす》むような口吻であった。
 ——爾来《じらい》、宗湛と等楊とは、周文の下について長い間、互いに意識し合いながら絵を描きつづけて行った。禅僧としての修行も無論怠りなかった。それどころか、春林周藤のような厳しい師僧のもとでは、たとえ画僧を志しているといっても、修行では一歩の仮借も無かった。周藤が相国寺鹿苑院《ろくおんいん》の僧録司《そうろくし》になると、等楊もその下について随《したが》った。彼がようやく知客《しか》の役についたのは、三十七歳の時であった。
 その間の変化といえば、周文が幕府絵所の御用絵師となって相国寺を去ったことである。彼のような如才ない男はいつの間にか幕府に取り入ったに違いなかった。その露骨な運動の噂《うわさ》が耳に入ると、等楊は、いつぞや周文が寂しげに洩らした「わしはこれほどの画を描くが、まだ都寺の役だからな」といった一語を想い出した。
 すると、等楊は忽《たちま》ち、近ごろ周藤が、惟肖得巌《いしようとくがん》の文章家としての名声を評して、彼は禅僧でなく、儒者の業だと罵《ののし》っていたことを思い出した。詩文家として聞えている周藤がそう云うのである。
 等楊が、絵を志したい、と申し出たときに、絵か、と軽蔑したように吐いた周藤の意《こころ》が、今にして等楊に理解出来た。周藤は禅林に入った僧が、詩や絵に凝るのを邪道と考えていたのだ。住持としての周藤が、天章周文に与えた役は「都寺」以上のものではなかった。俗人の周文が、老齢近く寺を出て、幕府に出世の道を働きかけた気持は分るのである。幕府絵所といえば中央の官府である。周文は絵師としての権威を得て満足そうに笑って相国寺を去った。
 それから更に数年が経った。等楊は——いや、この時は、もう雪舟の号があった。元の禅僧楚石《そせき》の名筆からとってこの二字を附けたのだった。雪舟は、天翁宗湛が周文の跡目をついで幕府絵所の御用絵師になったと聞くと、数十年住みなれた相国寺を辞した。
「宗湛づれが!」
 雪舟の眦《まなじり》は瞋恚《しんい》に燃えていた。宗湛が得意顔に、天下の絵師として幕府絵所に納っているのを、同じ京に居て見たり聞いたりしたくなかったのである。宗湛への嫌悪は、そのことで憎しみを交えて募っていた。彼もまた、宗湛の嵌《はま》り込んだ位置に己れを据える空想をしないこともなかったのである。
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