雪舟が周防《すおう》の大内教弘《のりひろ》に寄ったのは、京を去れば次に繁昌の地は西方の山口しかなかった理由による。幸い此処は生れ在所の備中の近くでもある。大内氏は勘合の印を得て対明貿易を壟断《ろうだん》していた。山口の殷賑《いんしん》は京に勝るものがある。京都は折から応仁《おうにん》の乱が起り、物情騒然たるものがあった。
大内教弘は雪舟を認めて、近郊に居住させた。もとから禅宗の好きな男で、学僧をあつめることが道楽だった。
ところが、その年の暮、雪舟にとって耳よりな話が持ち込まれた。大内の臣に桂庵玄樹《けいあんげんじゆ》という者がある。かねて雪舟と心やすかったが、或る日、来てこんなことを云った。近いうちに幕府の遣明船が出る。これは以前から計画されて延び延びとなったものだが、この船団に大内家からも参加し、自分が副使として行くことになっている。ついては雪舟も一個の商人の資格で同行してはどうか、というのであった。
雪舟は願ってもないことだと感謝した。四十九歳の今日まで描きつづけて来た山水図は悉く舶載絵の臨摸である。千本の画幅を学び得たといっても、要するに図上の概念に過ぎない。それが、実際にこの眼で実地を確かめられるとはまるで夢のようだと礼を何度も云った。
桂庵玄樹には話さないが、雪舟は初めて運が向いたと思った。明の地を踏んで師を求め画技を伸ばそうという功名心は無論あった。が、それ以上に唐土に渡ったという履歴がどのように身体に箔《はく》をつけて名声を上げるか、それを考えると動悸《どうき》が昂《たかぶ》るくらいであった。
彼の光っている眼には、ありありと、仔細げな顔をして幕府絵所に坐っている天翁宗湛が泛《うか》んでいた。
将軍家、大内家、細川家と三艘《そう》の船からなる遣明船が博多に集結したのは応仁二年の早春二月であった。雪舟が来てみると、思いがけなく相国寺の僧たちが、正使天与清啓《てんよせいけい》の載《の》る一号船和泉《いずみ》丸に乗り合せていた。その中から、
「等楊ではないか」
と声をかける者がいる。喝食として相国寺で雪舟と同期だった良心だった。相変らず人のいい笑いを五十の皺《しわ》の波の中で泳がせていた。雪舟は彼と同船した。
遣明船は、蘇木《そぼく》、硫黄、紅銅、扇、漆器、絹などの雑貨を船底に積んで博多を出発した。寒風が吹きすさび、海は荒れていた。浪の高い日は、僧たちは死んだように蒼《あお》い顔をして横たわるか、一心に経を誦すかしていた。ただ、雪舟だけは、どんなに荒れた日でも、船の進む方にある真暗い雲を睨《にら》んでいた。彼は一刻ずつに近づいて来る見えぬ唐土の方を喰い入るように眺めていた。
しかし、多少の荒天には遇《あ》ったが、とも角もこの遣明船は、三月の初めに寧波《ニンポー》に無事に届いた。雪舟は、ここに上陸して初めて画中の人物や動物や民家を眼に実体として見ることが出来た。彼は地に坐って拝みたくなった。泪《なみだ》が出た。
寧波には上陸したが、北京《ペキン》からの公《こうじゆん》がまだ到着していなかった。聞けば、二、三カ月はかかるということである。
「ここから天童山は近い。滞在している間に上ってみてはどうか」
とすすめたのは、桂庵玄樹であった。彼は前にもここに来ている。親切な男で、雪舟を贔屓《ひいき》にしているのであった。雪舟は心から喜んで、良心も連れて行って欲しいと頼んだ。栄西《えいさい》、道元が学んだというこの五山の一である名刹《めいさつ》に行く機会があろうとは、出発の日も夢にも思わなかったのである。
天童山に入ると、雪舟は数カ月を学んだ。言葉はよく通じないから、主に筆談であった。僧が入れ代り立ち代りして雪舟に問答を試みた。問答がすむと、一様に、珍しそうに笑っていた。彼らが本気でないことは、雪舟にも読み取れた。異国の珍奇な客として扱っているのである。
しばらくして、寺は雪舟を禅班の第一座に上してくれた。これも実力でなく、客としての礼遇であることは、雪舟にもよく分った。が、ともすると砂をかむような味気ない気持は、帰朝したのち「天童山第一座」の肩書を署名する満足で充分に埋められた。
この寺での彼の修禅のための滞在期間は僅かであった。公が北京から来るまで彼は炎暑の中を西湖《せいこ》附近に遊ぶのに忙しかった。
正使清啓の一行について雪舟が寧波を出発したのは、秋風が渡り初めた八月の末であった。杭州《こうしゆう》から舟便で、蘇州《そしゆう》をすぎ鎮江《ちんこう》に出て、北大江を渉《わた》り、揚州《ようしゆう》から運河を北上するときは秋は闌《た》けるばかりである。昼は川を上り、夜はいわゆる斉魯《せいろ》の郊である淋しい宿駅に泊りを重ねた。江南と違い風景は蕭殺《しようさつ》の気を加え、舟を泊する数が多くなるに従って霜が重なった。七十余日の旅を了《お》えて北京に入ったときは十一月の半ばで、すでに雪が降っていた。
雪舟が北京に滞在したのは翌年の正月の末までの二カ月余りにすぎなかった。正使清啓の用事が済めば、一緒に帰らざるを得ない。
清啓が告げたか、玄樹が云ったか、その辺の消息は分らないが、一行の中に日本の画僧が居ることが宋廷に聞えたらしい。雪舟は迎えられて朝廷に上った。面会をしたのは、兆尚書《ちようしようしよ》という風采《ふうさい》の上らぬ男である。
彼は雪舟の顔を見ると、画を所望した。緊張した雪舟がその場で描いて見せたのは小幅の山水図である。彼の脳裏にたたみ込んだ宋元画の暗記と、瀟湘洞庭《しようしようどうてい》に遊んだ実感とは密着して、容易に構図を成立させた。が、ここで彼が困ったのは、己れの無器用さだった。宗湛から嘲《あざけ》られるまでもなく、そのことは何十年となく彼を苦しめた自覚だった。彼は思い余った揚句、筆の穂先の尖《とが》りを切り、枯枝のような、ぽきぽきした太い線を描いた。これは意外に新しい効果をあげ、画面に一種の躍動を生じたと思い、自分でも眺めて満足であった。
兆尚書は眼を剥《む》いた。異国人がこのような宋元画まがいの画を描くことは思いがけなかったのであろう。彼は不思議な顔をして雪舟を眺めた。
が、ただ、それだけだった。兆尚書の疎《まば》らな髯《ひげ》の生えた顔に、それ以上に感動した表情は動かなかった。雪舟がひそかに期待したように、もっと大幅を描いてくれとは、註文《ちゆうもん》しなかった。兆尚書にとっては、一種の座興に過ぎなかったようである。
勿論、彼は雪舟に向ってその画技を讃めた。が、それは単なる儀礼であることは、天童山僧のと同じように空疎が見え透いていた。雪舟は、とぼとぼと宿舎に還った。
帰ってくると、良心が待ちうけていた。彼は雪舟の失望を知ると、慰めるように云った。
「なあに、日本に帰ったら、礼部院中堂の壁画を頼まれて描いたぐらいは云うさ。分りはしないよ」