利休は、数寄者《すきしや》は、胸の覚悟と作分と手柄の三つが入用であるとかねがね云った。作分とは工夫のことである。利休はその宣言通りに存分の工夫をした。茶に対する彼の創意は殆ど天才的だった。在来の貴人好みの華美な茶風を破って、庶民的な、質素な茶道を創《はじ》めた。珠光、紹鴎以来の侘びを彼の次々の工夫が完成させた。
が、その完成の容《すがた》は激しいものだった。他人には踏み込めなかった。そんな隙が無かった。利休が己れの城の中に構えている恰好であった。高弟として自他ともに許している織部が踏み込めないのである。利休は、山を谷と云い、東を西と云うくらい強引に在来の茶道の法則を破壊し、そのあとに仕上げた完成であるから、氷のように厳しかった。破壊のあとの完成は一層に凜烈《りんれつ》なのである。いつぞや秀吉が利休の一畳半の茶室に招かれて、床に活けた糸桜の枝の張りに上座に坐りかねたことがある。秀吉はためらったが、坐ってみると張り出した桜の枝の先は、彼が坐るだけの空間をきちんと空けて活けてあった。この一分の無駄もない、空間の引き絞ったような緊密が利休の芸の完成だった。織部は有無を云わさぬ見えぬ力に押えられて、利休の前に慴伏《しようふく》してきたのであった。
が、去年から少しずつ織部の気持に変化が起ってきた。いや、それとても変化というほど目立ったものではないかも知れない。
天正十八年六月、秀吉は小田原城を囲んだ。織部は命をうけて武蔵国に攻め入り、北条氏の属城江戸城を陥れ、次いで岩槻《いわつき》城を攻めていた。暑い日がつづき、名に聞く武蔵野の草の涯《はて》に入る陽は炎《も》えるようだった。
織部は、利休が秀吉に従って下向していることを知り、一書を送り、「むさしあぶみさすがに道の遠ければ問はぬもゆかし問ふもうれしゝ」という和歌を封じた。その返しとして、「御音信とだえとだえずむさしあぶみさすがに遠き道ぞとおもへば」という自詠と一緒に、利休の手紙が届いた。「貴殿が隅田川、筑波山、武蔵野、日暮里《ひぐらしのさと》などの音に聞えた関東の景色に堪能して居られるとは、さても羨《うらや》ましいことです。われらは富士山一つで我慢するほかは無い。花筒が近日に届くというが本望である。筒は不思議と趣のあるのを此方《こちら》で切り出したから、これではや望みはない——」という書き出しで、織部の転戦を犒《ねぎら》ってあった。それからまた一、二度、消息が届いた。それに竹筒で利休が作らせた花入も実際に送られてきた。
単純に考えて、これは師の愛情であろう。が、織部は素直にそれに溺《おぼ》れることが出来なかった。熱いものの中に、絶えず一条《すじ》の冷たい水が融け合わずに流れていた。利休の人間よりも芸が織部の感情の陶酔を妨げていた。
竹筒の花入は尚いけなかった。これは彼の完成された実物であった。何でもない竹の一片からこれだけの容《かたち》に仕上げるものは、やはり天下に利休を措《お》いてほかに無かった。ここにも彼の芸術が凝結していた。この竹筒を見ても、囲炉裏の雲龍《うんりゆう》釜、松笠の鐶付《かんつき》、新焼の黒茶碗、土の水指、瀬戸の水下《みずこぼし》、引切《ひきぎり》の蓋置といった織部が利休の茶会で遇った記憶につながり、同じ悦びとやり切れなさを感じた。——
岩槻城を降《くだ》すと、織部は北条氏邦《うじくに》の籠《こも》る鉢形《はちがた》城に掛った。荒川を北に控えて険岨《けんそ》な要害である。小田原の本城が粘っているためか、ここも容易に落ちない。炎天の下の攻撃はかなりな苦労だった。
そんな日、浅野長吉が織部の陣にぶらりとやってきた。彼は日焦《ひや》けして真黒な顔に汗を噴き出させていた。織部と何か打合せをすると、せかせかと立ち上った。その序《つい》でに彼の眼はふと其処《そ こ》に飾られてある竹筒の花入に止った。
織部はそれに気づいて、
「利休どのの花筒です」
と説明した。
「利休の?」
と長吉はもう一度改めるような眼つきになって視た。が、それは竹筒を鑑賞する眼では無く、利休という高名な宗匠の名前に牽《ひ》かれて見直したという風だった。だから彼がそれを見ていたのは、ほんの僅かな間で、忽《たちま》ち興味を失った顔付になって眼を外した。ふん、と鼻を鳴らしそうな表情であった。この合戦の最中に、さも縁の無いものが置いてあると云いたそうな表情だった。
「暑いな」
長吉は、そう云い捨てると出て行った。ぎらぎらした陽射しが彼の鎧《よろい》の背中に白く当った。
長吉のそうした態度は、無論、茶事に関心の薄い武人のもので、気に止めることも無かった。が、織部は妙な心になった。この場合、利休作の竹筒など眼もくれず、暑いな、と云って大股《おおまた》で出て行った長吉に同感した。それは武人として戦闘以外に何ものも考えていない彼に共感したのだった。もっと云えば、多少の羨ましさも混っていた。
その気持で、再び竹筒を見ると、妙にそれが弱々しく見えてきた。炎天の燃ゆるような暑熱の下で、激しい戦闘に投げ込まれている現実からすると、花筒をいかにも無縁のものと眺めた長吉の瞳《ひとみ》に同感したくなった。なるほど花筒は、利休の冷たい眼と秋霜を思わせる強さを持っていた。しかしその強さは、——戦闘という環境の条件のなかでは、どこか空々《そらぞら》しさがあった。密着しない空間があった。すると、二畳半の座敷、金《かね》の風炉、五徳にのせた霰釜、金《かね》の水指、金の柄杓立、竹の蓋置、黒茶碗、壁にかかった春甫《しゆんぽ》の墨蹟《ぼくせき》など記憶にある利休の茶席の模様まで、紗《しや》を間に一枚置いて隔てたように淡いものになった。遠く関東の涯に戦塵《せんじん》にまみれて働いていることが、そのような錯覚を起させたのであろうか。何か説明は出来ないが、妙に充実感が無く、不満だった。利休に対して今まで持ちつづけた気持のなかに、はじめて気づいた異質なものだった。