利休は、天正十九年二月二十八日に、自庵の釜の湯のたぎる音を聞きながら自刃《じじん》して果てた。
この報告をきいたとき、織部の胸の中には、師の最期を悼むより先に、またしても一種の安堵感が来た。それは、十三日の夜、淀川に利休の舟を見送ったときにも感じた解放感だった。が、その時よりも、もっと実感があった。解放感は、しかし、利休の芸術の呪縛《じゆばく》から脱れたというようなものではない。それとは別な何かであった。何か——織部自身には分らなかったものを、やがて秀吉が解いてくれた。
利休が死んで十日ばかり経ってのことだった。織部は聚楽第の秀吉の茶席に呼ばれた。羽柴筑前守利家と小早川侍従隆景《たかかげ》とが同席していた。座敷は二畳敷で床が無く、躙り口には志賀の大壺が置いてあった。
秀吉は、飯を食おう、とまず料理を出させた。そのあと彼自身のお点前《てまえ》で茶がすすめられた。
「利休めの茶は」
と秀吉は、湯を柄杓で汲み出して天目茶碗をすすぎながら云った。
「侘び佗びとうるさく申し居った。佗びは至極と思うが、あいつは陰気臭くていかぬ。所詮《しよせん》は町人の茶道じゃ。われらにはわれらの茶があろう。織部、どうだな?」
織部は低頭した。否とも応ともその場では答えられなかった。が、眼を上げてみると、萌葱《もえぎ》の小袖に肩衣《かたぎぬ》をつけた秀吉の顔は、いかにものびやかに見えた。その瞬間、織部は、秀吉もまた利休の桎梏《しつこく》に似たものから脱れた安心を味わっているのではないか、と思った。
秀吉は、信長の茶頭であった利休を、そのまま己れの茶頭として用いた。そのことは逆に秀吉が上の場所に成りあがったことになるのだ。利休は内心では秀吉を軽蔑《けいべつ》していなかったか。それは芸という場では可能な仕打ちなのである。秀吉もまた同じ意味で、利休から圧迫を感じていたのではなかろうか。
そう思うと、織部には、利休と秀吉との間は永い闘争だったように感じられた。利休が秀吉の下で権勢を振ったことは、秀吉の寵愛があったのでは無く、秀吉のひそかな劣弱感が利休の傍若無人な踏み込みを宥したのである。秀吉はさぞ苛々《いらいら》していたに違いないと思えた。
利休は泰然として秀吉に対《むか》っていた。貧乏揺ぎもしなかった。秀吉の苛立ちは分る。いろいろなことが思い当った。利休は黒を好んだ。黒も鼠色も、そこから発する無限な色彩を愉しんだ。秀吉は黒色を嫌った。利休好みの色だから反撥したと見ては悪いだろうか。すると利休は、己れの茶会では必ずといってよいほど台子の上に黒茶碗を置いて茶を点《た》てた。瀬戸茶碗と取りかえるのは、その後である。何も最初に秀吉の嫌う黒茶碗を出すことは無い!
それからこんなこともあった。聚楽第で秀吉の朝会があった。茶入飾りの方式として、床柱の前には鴫肩衝《しぎかたつき》を紹鴎の天目茶碗の中に入れて置いた。それはよい。ところが亭主の秀吉の工夫として、肩衝と天目の間に野菊が一本はさんであって、ひどく客の目をひいた。おそらく秀吉は己れの思い付きが内心自慢であったろう。しかるに茶頭の利休が入ってくると、黙ってその野菊の花を抜き取ってしまった。見ていた織部は息を呑んだ。その時の、秀吉と利休との目に見えぬ火花を忘れることが出来ない。利休には秀吉の工夫が児戯にみえて笑止に堪えなかったに違いない。彼の眼には、ありありと冷笑が泛《うか》んでいた。一方、秀吉の素知らぬ顔色は、恚《いか》りを必死に匿《かく》していた。
織部が聞いた話だが、小田原陣のときもそうである。利休が伊豆の韮山《にらやま》竹から花筒をつくり、秀吉に差し出した。その所作がいかにも横着げである。そのときばかりは秀吉も癇癪《かんしやく》を起して庭に投げすてたそうである。花筒は庭石に当って、ひびが入った。利休はそれを拾って、息子少庵《しようあん》の土産とした。のちに「園城寺《おんじようじ》の花筒」と名附けたものである。大ていの者は秀吉が怒って捨てたものなら遠慮する。それを持ち帰って皮肉に誇るのは、その気持がおよそ分った。
織部は、夜、己れの茶室でひとりで釜の鳴る音を聞きながら、こんなことを際限もなく思い出していた。利休の最期は、遂には、そこにゆく運命であったと思うのである。衝突は必ず爆発までもってゆかねばならなかった。風聞にある大徳寺の木像のことも、道具の斡旋《あつせん》に曲事があったことも、女《むすめ》のことも、本当かどうか知らない。織部には、そんなことは、どっちでもよいと思われた。真実の原因は、秀吉の自我と利休の自我との対決だった! 積りに積った秀吉の苛立ちが、利休の首を戻橋《もどりばし》で獄門にしなければおかなかったのだ。
すると、秀吉の苛立ちとは何だろう。単に利休の人も無げな振舞いとか、横着な態度とかに向って腹を立てていたとだけでは済まされないものがある。織部には秀吉の苛々している心が、自分の胸のどこかに住んでいたものに似ているのではないかと思った。確かに近い。きっとそれに違いない。自分も利休に対していると、時に、かっとしそうな惑乱を覚えた。
そうだ。秀吉も利休の茶のあまりに見事な完成に反撥しているのだ。一つの芸術が鵜《う》の毛の隙も無く完全な姿で完成すると、それを叩き壊したい衝動が起る。その発作に苛立つのである。秀吉の自我とはその形であろう。自分が、利休を淀川に見送った時にも、その死を聞いたときにも覚えた安堵は、利休の縄から放たれたのではなく、その発作をいつでも自由に手に働かすことが出来る、という安らぎであった。あの時、感じた解放感の正体はこれではなかったか。
すると、利休の芸術に斧《おの》を揮《ふる》うところは何処《ど こ》であろう。
織部は、天目を両の掌で囲いながら、ここまで考えてきて、瞑《つぶ》っていた眼を俄かに開けた。
「利休めの茶は、所詮は町人の茶道じゃ」
といった秀吉の言葉が、耳朶《じだ》に蘇《よみがえ》って聞えてきたからである。
町人の茶道。——考えてみればそうだった。茶道のもとは室町将軍家に栄えたものである。点茶の際は、身分ある者は狩衣《かりぎぬ》、烏帽子《えぼし》をつけ、または素袍《すおう》を着るが定めであった。もとより武家のものだった。それが相つぐ世の乱れで、新興富裕階級である堺の町人の手に移った。あとで信長が名物狩りをしたのは、堺衆の蒐集品《しゆうしゆうひん》からだった。名人といわれた引拙《いんせつ》も、紹鴎も、利休もみな堺の町人ではないか。茶道が武家風から離れ、町人向になったのは当然といえた。
利休はさらにそれを庶人向に仕上げた。その発明した茶の道具は、悉《ことごと》く庶民の生活用具を取り入れた。そのことに侘びを密着させた。侘びの見事な接着だった。そのあまりに立派な完成に、武人が眩惑《げんわく》された。利休の卓絶さが、町人茶道の上に踏まえているとは気づかずに、随喜した。
しかしどのような見事さでも、武家と町人との体臭の相違は、どこかにそれを嗅《か》いだ。意識にではなく、嗅覚《きゆうかく》にである。織部は、それを去年の関東の陣でかいだと思った。あの時、利休の花筒を見て、いかにも縁の無いという眼付をして、炎天の下を大股に己れの陣所に去った浅野長吉に妙に共感したのは、彼自身の武人の血ではなかったか。記憶にある利休の茶席の取合せが、一瞬、遠いものに感ぜられたのは、その故《せい》ではなかったか。
堺町人の茶道を武家風に歪《ゆが》みを直す。——ここにこそ、完成された利休の芸術への切り込み口があると思った。
「おれが、それをやる」
——織部は、膝に抱えた天目の冷えたのも忘れて坐りつづけた。動悸《どうき》が聞えてくるくらい、気持は昂《たかぶ》っていた。