織部は、利休の茶道に挑んだ。
茶室では、貴人口を復活した。利休の創意した庶民風の躙り口だけのものを、まともにかえした。彼はこれを武家風と考えた。その躙り口も利休のときまでは茶席の隅にあったものを、彼は中央に移した。そのことによって、秀吉のいう、利休の「陰気さ」を明るくした。
点茶のときでも、利休は台子を用いた。彼はその上に己れの好きな黒茶碗をならべて客に見せるのを得意がった。従って炉の茶を点てるということがなかった。
織部は、台子をやめて、ただ炉で茶を点てることにした。台子をやめたのは、彼の見識である。床もつづめた。茶の湯の法式は、畳の目を以《もつ》て度とする。台子を飾った部分の畳目を断ちすてて、その余を用いるから、台目《だいめ》と称した。三畳台目、四畳台目は織部の好んだところである。利休は二畳、一畳半といった風に、出来るだけ茶席を縮めることを心懸けたのに、織部は一顧もしなかった。
手水鉢《ちようずばち》もそうである。利休は低く低く据えた。だから客は、つくばうようにして手水を使わなければならない。織部はこれを高く据えた。こうすると、あまり屈まなくともよい。町人風をこのように武家風にした。
利休は露地を深山の山径になぞらえた。「樫《かし》の葉のもみぢぬからに散りつもる奥山寺の道のさびしさ」が利休の心である。織部は、木の間がくれに山の見えるのをよしとした。利休の露地つくりはあまりに暗い、その陰気さを明るく払った。
こうして一つ一つ、師の利休の完成された茶道に挑んでゆくことは、彼には一つ一つの城を落してゆくような歓びがあった。攻めるまでの苦労は大そうなものである。が、敵城を開城させたときの満足は有頂天なくらいであった。氷の壁面のようなきびしい利休の芸術に、織部は次の攻撃にかからねばならない。
織部が心の殆どを傾けたのは、茶碗であった。——
茶碗は、はじめ唐物《からもの》や高麗物《こうらいもの》が珍重された。唐物の道具を持っていることは、茶湯者の大事な資格の一つであった。この唐物、高麗物の偏重を改めて、和物の今焼茶碗(楽焼)や瀬戸茶碗を大切にしたのは利休だった。利休の芸術の創意がここにもあった。彼の独自の審美観である。今焼、瀬戸焼のかたちや色に彼は己れの美を見つけた。いや、創《はじ》めたといってよい。
利休は黒の色を愛した。彼の侘びの心が黒色から発する美に感動した。秀吉がそれを嫌おうが、無論、構うことではなかった。黒色の内在的な美から、彼は虹《にじ》のように涯てぬ豊かな色彩をうけとった。彼が楽焼、瀬戸焼に黒茶碗を作らせたのは自然のことだった。天下一の名人利休の好みであるというので、茶人はいずれも黒茶碗を愛好した。それだけではない。持っている唐物や高麗物を、わざわざ和物と交換したものだった。
織部は、利休好みの茶碗に矢を放った。まず容《かたち》である。利休の茶碗は、小さく、かたちも単調であった。すべて素朴にするのが利休の佗び心であろう。単調こそ、あらゆる変化を内包していると利休は云いたげであった。しかし織部は、それを砕いた。かたちは、ひょうげたるものを用いた。単調でなく、変化のある面白いものである。瀬戸焼のいびつな歪《ゆが》みに彼は美を見つけた。その歪んだ美は、禅に通わないか。禅こそ、もともと武家のものである。利休の好んだ小さな茶碗を、大振りなものに変えた。形は沓形《くつがた》の豪快なものとなる。こうして利休の茶碗からはなれて、己れの茶碗の重みを掌の上に受けとめたときに、織部の眼には、はじめて勝利が見えてきたに違いない。
次は黒色である。黒一色では、いかにも利休好みである。彼は瀬戸黒には、その器面の一部分を間取りして草模様を描いた。これは茶器の革命であった。野放図に、利休の侘び茶碗芸術に土足をかけたといってよい。
が、もっと彼をそこに押しすすめたのは、志野焼の出現であった。この肉の厚い、白釉《はくゆう》を濃く施した長石から出来た焼物は、利休だったら滋光のような白一色を珍重したかも知れない。しかし織部は、その白だけの世界に、色彩と紋様を描き入れたい誘惑に駆られた。思う存分な意匠を施してみたい衝動であった。
そのころ、織部は切支丹にひどく牽《ひ》かれていた。彼の妹は、高山右近の妻だった。右近は人も知る切支丹大名である。その因縁からくる影響もあって、彼はひそかにこの西教を信奉していた。少なくとも信奉に近い興味をもっていた。従って彼のところにくる耶蘇《やそ》教徒は少なくなかった。南蛮渡来の器物を見る機会は多かった。
織部は南蛮器物に施された意匠に驚嘆した。色彩は強烈で明るかった。茶碗の燻《くす》んだ鈍い色を見馴れた彼の眼に、舶来の南蛮物は圧倒されるくらいに新鮮であった。これを茶碗に生かせぬものか。そうだ、茶碗に色と線を描いて悪い法は無い、と彼は叫んだ。
志野焼の白い肌が彼を待っていた。彼はそれに、工匠を呼んで存分に己れの指図通りに描かせた。太い線が珍奇な紋様をつくった。それを明るい原色が埋めて鏤《ちりば》めた。今まで日本に無かった茶碗が出来上った。利休が夢にも思わなかった茶碗芸術の創造であった。その華やかさは、桃山文化の時代背景に一段と光彩を描いた。
「町人茶道!」
織部は秀吉の云い捨てた一言を、もう一度己れの言葉として吐いた。師の利休に向ってである。
古田織部は、天正十三年に秀吉から貰った山城国西岡三万五千石を、子に譲って隠居した。そのうち、関ヶ原役が起った。この時は東軍についたので、その功によって一万石をうけた。顔には、もう五十七歳の皺《しわ》が深くなっていた。
茶の湯の名人として、位置は遥《はる》かに高いところに在った。家康、秀忠、伊達政宗、毛利秀元、その他の目ぼしい大名は、みな織部と交渉をもった。秀吉の茶頭が利休であったように、織部は秀忠の茶の師匠となった。そのため彼は駿府《すんぷ》や江戸に下って、将軍に茶の湯の指南をした。もはや、天下一の称号は無かったが、実力と風格は天下一であった。
しかるに大坂陣が起ると、織部は家康から大坂方内通の咎《とが》めをうけた。家康と秀忠とが二条城から出るところを襲撃しようとする企みを、織部の家中の者がたてたというのである。それは根も葉も無いことではなかった。大坂城内には織部の子が秀頼の小姓としている。織部自身も、秀吉の恩顧を想い、無慈悲に大坂を踏み潰《つぶ》そうとする家康のやり方に動揺していた。そのような企みごとを家臣の者がしていたのを知らぬとは云えなかった。それは武人としての倫理だった。
織部の伏見の邸に検使として来たのは、鳥居土佐守《とさのかみ》と内藤右衛門介《うえもんのすけ》とであった。鳥居は織部に訊いた。
「何か申し遣わすることはありませぬか。あれば上意に達します」
鳥居は織部が、今度の咎めをうけて以来、一言の弁解も無かったことを奇異に思っていたのである。
「いや、こうなった上は、申し開きも見苦しいでな」
それだけを答えて、彼は前の小刀を握った。そのとき、彼はふと利休にもこの瞬間があったのだと思った。利休は、町人の茶に我執して自滅した。おれは茶人と同時に武人だった。すると、おれは武人であったが故に、その側のために自滅したのだな、と彼はぼんやり思った。
己れが利休の茶道を乗り超えたかどうか、分らなくなった。