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小説日本芸譚6-1

时间: 2019-05-22    进入日语论坛
核心提示:   1 天正六年の秋、摂津伊丹《いたみ》の荒木村重《むらしげ》が織田信長に謀反した。 荒木村重は微族であったが、信長が
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 天正六年の秋、摂津伊丹《いたみ》の荒木村重《むらしげ》が織田信長に謀反した。
 荒木村重は微族であったが、信長が村重の用ゆるに足るのを見込んで摂津に置いたのである。信長が石山本願寺攻めに手を焼き、その兵糧を入れて支援している中国の毛利との間を遮断《しやだん》するためだった。
 しかるに毛利の誘いが村重にかかり、途中で彼は信長に反逆した。信長は怒って伊丹城を攻めた。腰の重い毛利輝元は容易に後詰《ごづめ》に来らず、孤立した村重は数人の供と共に城を捨てて遁《に》げ、海から毛利領尾道《おのみち》に奔《はし》った。
 この時、村重に二歳になる妾腹《しようふく》の子があった。母は越前北ノ庄の在の者であったというがさだかでない。村重の遁走《とんそう》の際に、乳母はこの子を抱いてひそかに逃れ、石山本願寺を頼った。教主の顕如《けんによ》にしてみれば、味方の子であるから預かって匿《かくま》った。これがあとの岩佐又兵衛《いわさまたべえ》である。荒木の姓を隠して、母方の岩佐を称した。
 信長が横死し、秀吉が実権者となった。秀吉と荒木村重とははじめから好かった。毛利の使として安国寺瓊恵《えけい》が堺《さかい》に来たとき、秀吉は、村重はどうしているかと訊《き》いた。安国寺は、されば只今は入道し、道薫と名乗り茶などいたしている、と応えた。秀吉は、村重が茶道では宗易《そうえき》の弟子であることを思い出し、綿二十把《ぱ》を音物《いんもつ》して託《ことづ》けた。
 それから程なく、秀吉は道薫の村重を呼び返した。曾《かつ》ての荒大名も今はただの入道である。秀吉は彼を堺に住まわせ、食邑《しよくゆう》として摂津菟原《うばら》を与えた。村重は落城の際にも、秘蔵の茶壺を持って遁げたくらいであるから、茶道の嗜《たしな》みが深かった。秀吉は道薫を己れの茶坊主として召し使った。
 爾来《じらい》、道薫は秀吉の茶席には、宗易、宗久、宗二などの茶道と一緒に出るようになった。彼がこの道で、当代一流を以《もつ》て遇せられたことは確かであった。
 本願寺の顕如は、道薫が堺に還ったのをみて、二歳の時から匿っていた子を彼に返した。秀吉が大坂に築城を計画し、顕如が泉州貝塚に在った時であるから、又兵衛が六歳の時であった。
「生きていたか」
 と道薫は珍しいようにわが子の顔を見つめたが、無論、遁走の怱忙《そうぼう》の際に一瞥《いちべつ》した嬰児《えいじ》に見覚えがある筈はなかった。道薫にしてみれば、四年前の厭《いや》な記憶が突然に顕《あら》われたようなものである。彼は多くの家臣を見捨て、妻子、女どもを見殺しにしてひとりで城を遁《のが》れたのであるから、黒い背徳の劣敗感が心の底にうずいていた。彼は妾腹のわが子を見るに忌わしい眼付をした。
 六歳の又兵衛は、父から邪慳《じやけん》にされて三年を過した。彼にしても父が疎《うと》い。その感情から、父が当代の数寄者《すきしや》でありながら、彼は茶が好きになれなかった。また、父も教えてやるとは云わなかった。彼は父から構いつけられないことに慣れ、孤《ひと》りを愉しんだ。
 又兵衛の記憶にある父の眼差《まなざ》しは、いかにも冷たくて昏《くら》かった。骨格の張った、大入道だったが、身についた暗さが一廻りも縮んで貧弱にみえた。父が傍《そば》に来ると、日射しにすうと翳《かげ》が入ってくるように思えた。勝手にひとりで置かれて、気儘《きまま》に画を落書きしている方が自由な空想に陶酔出来て、遥《はる》かに充足感があった。
 しかし、父の冷たい瞳《ひとみ》は、そういつまでも彼に纏《まつわ》りはしなかった。天正十四年にその忌わしい六十四歳の眼は閉じた。戒名は南宗道薫、堺の寺に葬った。
 又兵衛は父に死別して天が拡がったような気がした。愛情は少しも感じなかった。一つは、この時、はじめて異腹の兄が二人あることを知った故《せい》もあった。二人とも正妻の子であったが、父の道薫は生きているうち、一度もそのことを彼に話したことはなかった。その分け隔てのある父の心にも憎しみが湧《わ》いてきた。
 その翌年、又兵衛は、京都北野の秀吉の大茶会を見物した。見物したといっていい。彼には少しも茶事に関心は無かった。それにこの茶会の大そうな派手さは、ただ十歳の彼に物珍しさだけを覚えさせた。
 広い北野に数寄を趣向した茶湯小屋が八百あまりも建ちならんでいた。一番に秀吉、二番に利休、三番に宗久、四番に宗及の同じ小屋があり、公卿《くげ》や大名衆がぞろぞろと右往左往していた。大きな樹の蔭《かげ》や、松原のあたりなどには、囲い傘を一本たてた下で茶をするものがあるかと思えば、担い茶屋に似せた者がある。又兵衛は、この漂うような色彩と、鈍い歌声のような騒音の中に佇《たたず》んだ。
 時たま、父の道薫の座敷に客として呼ばれてきた見知りの顔もあった。十徳を着た坊主頭が、一番彼に馴々しかった。それは利休かも知れなかったし、宗久かもしれなかった。父御が亡くなられて、お力落しであろう、というような意味の悔みを云った。子供に向ってではなく、ちゃんと武人に対するような挨拶だった。
 又兵衛が、決して自分が武人にはなれないであろうと直感したのは、この時であった。奇妙なことに、受けた挨拶の扱いとは、うらはらな予感であった。父の荒木村重が道薫になった理由からではなく、父の自分に向けた冷たい眼からの考え方であった。その眼を彼は世間に押し拡げて、やはり父との間にあった寒い風を感じていた。
 ふと見ると、秀吉が萌黄《もえぎ》の頭巾《ずきん》に唐織の小袖を着、ぼけ裏の白い紙子《かみこ》の胴服をつけ、真赤な帯の端を引摺《ひきず》って青い草地の上を歩いていた。たくさんな大名がそのあとに笑いながら続いていた。秋の柔らかい陽射しの中に、それはいくつもの点をあつめた色彩をきれいに感じただけで、彼にはうすらさむい秋の冷えしか心に無かった。
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