しかし、又兵衛のその時の直感にも拘《かかわ》らず、そのあと彼は武人への方向に歩いていた。
誰の推挙か分らなかった。多分、利休あたりが秀吉に云ったのかもしれなかった。彼は織田信雄《のぶかつ》の近習小姓役に取り立てられていた。彼と信雄との繋《つな》がりは少しも無い。あるとすれば父の荒木村重と信雄の父の信長との不幸な関係だけであった。信雄が父に叛《そむ》いた人間の伜《せがれ》を召抱える義理はなかった。秀吉に押しつけられ、又兵衛を仕方なしに置いたという形であった。
信雄は、まだ秀吉を父の卑賤《ひせん》な家来としか考えていなかった。彼は秀吉の気色を損じて下野《しもつけ》や伊予に貶《おと》された苦い経験から、止《や》むなく秀吉の相朋衆として屈従していた。
常真《じようしん》と号して入道した信雄は、そこだけは信長に似ている長い顔に深い皺《しわ》を立て、ぶつぶつと秀吉の陰口を呟《つぶや》いた。聚楽第《じゆらくだい》などから帰ったときは、一層に機嫌が悪い。陰鬱な眼を光らして、低い声で秀吉の悪口を云った。
又兵衛は、この主人から決して己れが待遇せられないことを悟った。好い眼を向けられたことは一度もないのである。理由は二重にあった。父同士の因縁と、秀吉側から持ち込まれた縁故だった。信雄は苛立《いらだ》っていたに違いない。又兵衛は、決して自分が武人になれぬであろう予感をこのときも改めて確かめた。虚《むな》しい風が肩を吹いた。
が、神経質なくせに、どこか鈍重な鷹揚《おうよう》さのある信雄は、秀吉が死んでからも、又兵衛を放逐するでもなかった。信雄には、そんな気の弱さと人の好さがあった。
無論、又兵衛に対する態度がよくなった訳では決してなかった。よくもならず、悪くもならず、そんな放心したような陰気な関係が何年となく続いた。
又兵衛は、考えようによっては、このやり切れない憂鬱を絵を描くことで遁げた。世は狩野《かのう》派全盛で、信雄の邸にも華麗な屏風《びようぶ》絵が沢山有った。又兵衛は誰に就いて習ったというではなく、眼についた好きな図柄を摸《も》した素人絵であった。
信雄は京の公卿と往来していた。信長の子として、又、一度は右大臣家であった彼は、何となくそうした貴族的な雰囲気《ふんいき》の中に身を置いていた。
その雰囲気が又兵衛に移ったのかもしれない。彼は平安朝ころの歌書や古書に親しむことを覚えた。いや、雰囲気はただ彼の逃避の偶然の媒介であった。所詮《しよせん》は前途に望みを失った彼の自然な遁げ方であった。
世間には関ヶ原の合戦があり、家康は江戸に居ながらにして征夷《せいい》大将軍の宣下を受けた。世が揺れながら変りつつあった。
織田常真動かず、又兵衛はそれ以上に跼《かが》みこんでいた。この頃は和書だけでなく、古い唐宋《とうそう》の書籍の世界まで踏み入っていた。己れから世の動きに離れた。彼の心の中で絶えず揺れつづけてきた武人からの脱落の予感は、もはや、石のような確信になっていた。
しかし、少禄だが、扶持《ふ ち》が彼の生活を小さな安易で支えていた。没入した絵も、書籍も、この偸安《とうあん》の上に乗っていた。のみならず、妻を娶《めと》り、子をもうけたことも、不安定で懶惰《らんだ》な生活の流れの一つと云えないこともなかった。
彼は見えない前途の不安に怯《おび》えていた。
あるとき、未知の男が又兵衛を訪ねてきた。父の村重の旧臣の子で重郷《しげさと》という者であると名乗った。亡主の遺子を懐かしんで来たといったが、実際、そのような感情が眼に溢《あふ》れていた。何をしているか、と又兵衛がきくと、狩野松栄《しようえい》の門に入って画を描いていると重郷は答えた。その方では狩野内膳《ないぜん》と云っているともつけ加えた。
「絵をかいているのか?」
又兵衛は内膳の顔を見つめた。
慶長十一年に奉納した「豊国神社祭礼図屏風」の筆者として知られている狩野内膳と又兵衛との師承関係が出来たのは、このようなことからであった。内膳からは狩野派の画というよりも、画の手法の基本を習ったといった方が適切である。内膳は親切に教えてくれた。あなたには見どころがあるとも云った。それが満更、世辞とも思えない。又兵衛は初めて充実感のようなものが湧いてきた。
この頃、彼と信雄との間は相変らず冷却した関係をつづけていた。信雄自身は、家康と秀頼との険悪な情勢の中にあって動揺していた。彼は昔の秀吉に対する遺恨を忘れていない。あわよくば家康に取り入って、身を立てる機会を企んでいた。そんなところは若いころの信雄がそっくり老いた常真入道の顔に出ていた。
又兵衛は、そのような信雄の傍に居るのが、これ以上堪えられなくなった。前途に望みがなく、不安定な主従関係に落着きがなかった。武人としての観念は、疾《と》うに彼から落剥《らくはく》していた。
又兵衛は信雄の許《もと》から去った。信雄も制《と》めなかった。淀《よど》んで腐臭の臭うような長い歳月の二人の関係は切れた。
扶持を離れてみると、困難な生活が彼を襲った。妻子もある。まだ一人前の画家として立つ自信も無かった。
彼は本願寺に寄食した。教如《きようによ》は父の顕如の因縁から又兵衛によかった。又兵衛は止むなくその好意に頼った。が、妻子を抱えては、気兼の多い苦労な生活であった。画を描くことが刹那《せつな》的にそれを忘れさせた。