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小説日本芸譚6-3

时间: 2019-05-22    进入日语论坛
核心提示:   3 乏しい記録では、岩佐又兵衛の師承関係はさだかでない。狩野内膳に学んだというのは確かのようだが、その他の諸流派は
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 乏しい記録では、岩佐又兵衛の師承関係はさだかでない。狩野内膳に学んだというのは確かのようだが、その他の諸流派は誰に就いたか、ついぞ文字の上に出ていない。
 大和絵を土佐光信《みつのぶ》に学んだという説は、恐らく虚妄《きよもう》であろう。雲谷等顔《うんこくとうがん》に至っては無論のことである。土佐派のあまり名の聞えない画師、雲谷派の無名の画家が又兵衛の師匠であったと想像した方が妥当のようである。そのことは又兵衛を流派に束縛しなかった。高名な師に就くほど画流の呪縛《じゆばく》に陥り易いものだ。
 その画家たちは、本願寺に何らかの交渉をもっていた。この富裕な寺院は、そういう連中の往来の場所になっていた。
 又兵衛は土佐派の大和絵の華麗な手法にも惹《ひ》かれ、雲谷派の水墨にも惹かれた。高名な画師に縛られなかった自由さがそこにあったが、本質は、彼が本職でなく素人であった故《せい》である。二十九歳ではじめて画技を習った彼は、根はやはり武人の門から出たdilettanteであった。
 本願寺は画師だけでなく、文人も出入りし、堂上公卿とも交渉があった。又兵衛と三条昭美《あきとみ》の関係もこのようにして起った。この空気は、又兵衛が平安朝の古典に入るにはもっと容易であった。その上、このような貴族の蔵している足利期の水墨画は、彼のかけ換えのない粉本となった。彼の凝視は、土佐、狩野、足利水墨の煩瑣《はんさ》な密林の奥に分け入った。
 画技の自信を身につけると、彼の眼は風俗画にも向いた。風俗画は画の正統から外れたものかもしれない。しかし、大ていの画家は気詰りな画から脱《のが》れて、風俗画の気安さに手を出した。それは落款《らつかん》をつけた行儀正しい画流からのひそかな息抜きであった。秘密めいた自由な充足感がそこにあった。気づかないが、それは正統な絵画——極《き》められた主題に対しての抵抗になっていた。高名な画師たちによっての無署名の風俗画がこのころに多く出た。
 時代は見違えるように泰平に落ちついていた。秀吉が植えつけた華美な気風が、世間に根をひろげて花を咲かせていた。空気までが甘いのである。
 茶湯は相変らず流行した。幸若舞《こうわかまい》や猿楽は依然として旺《さか》んであったが、わけてお国歌舞伎は京で大評判をとった。五条の東の橋詰に舞台を構えての華やかな興行は京中がどよめいて見物した。隆達節《りゆうたつぶし》や浄瑠璃《じようるり》が起り、三味線が流行《は や》った。男の頭は鬢《びん》をせまくして月代《さかやき》を大きく剃《そ》り、若い者は前髪を薄く残して中剃をした。着物は広袖で、大きな模様を色で染め、帯は大幅のをしめた。祭礼、行楽はことに盛大だった。
 画家たちの眼が、このような風俗に意欲あり気にそそぐ。又兵衛が描いたのは屏風仕立にした二十四図の「職人尽図」であった。獅子舞《ししまい》と歌比丘《うたびく》、筆師と硯師《すずりし》、寒念仏、箙師《えびらし》と灸鍼師《きゆうしんし》、笛吹く者と鉦《かね》たたく者、猿廻しと木挽《こびき》、針師、傘師などの姿である。
 が、その一方で、彼は水墨で「布袋《ほてい》図」を描いた。「職人尽図」とは別人のように変った描法だった。宋元の墨画に倣《なら》った足利の道釈画ではないかと見紛うばかりである。これには自信があって、名前の勝以《かつもち》の月印を捺《お》した。
 まだ又兵衛の己れの絵は定まらない。狩野でも土佐でもなく、さりとて雲谷様の水墨に定着するでもなかった。それぞれの絵の間を彼は浮游《ふゆう》していた。
 そのことを証明するように、彼はこのころ、二人の異質な画人と交際した。一人は俵屋宗達《たわらやそうたつ》という京の唐織の商家の子であり、一人は長谷川等伯《とうはく》という能登七尾《のとななお》の染工だった。二人の画風が全く異なったように、気質もまるで反対だった。宗達はいかにも京の商人のようにおとなしく、絵は装飾風に巧緻《こうち》細密であった。等伯は鼻柱の強い自信家で、自ら雪舟の五世などと云い触らしていた。画は豪放で、筆勢が剰《あま》って紙を継がなければならなかった。
 又兵衛は、この二人のどちらにも惹かれていた。画だけでなく、その性格も好きであった。二人の異質なものをそのまま彼はうけ取っていた。
 それに懐疑を感じぬでもなかった。一体、己れの画はどこに辿《たど》りつくのだ。その不安である。どの絵にも密着しない危惧《きぐ》であった。時々、穴のような虚しさが不意に襲った。それを消すためには、画技の努力に突入せねばならなかった。
 又兵衛が三十九の年齢《と し》になるまで、世間的にはかなりの変動があった。まず江戸に去った長谷川等伯が七十二の高齢で客死した。これが彼にとって一番身近な事件であった。次には大坂冬の陣と夏の陣が起り、豊臣家が滅亡した。大そうな騒動にかかわらず、遠いことのように聞えたが、その中では旧主の信雄が秀頼を裏切って家康を頼ったという事実に興味がなくはなかった。
 しかし、彼の生活は相変らず苦しかった。妻子を抱えて本願寺に寄食していたのでは楽になる筈はなかった。まだ四十にならぬのに、彼の頬はこけ、皺が顔を匍《は》った。画をかいて多少の画料は入ったが、とるに足りなかった。
 元和《げんな》二年の夏のことであった。福井の興宗寺の僧で心願《しんがん》という者が京に上ってきて本願寺に仮寓《かぐう》した。彼は役僧となったので、その執務のためだった。
 心願は、又兵衛の画を見てひどく心を動かしたらしかった。話をしてもかなり古典の教養がある。荒木村重の遺子であることにも興味をもったのであろう。
「越前に来なされぬか。田舎だが、気儘に画など描きなされ」
 とすすめた。しかし、案外、又兵衛の本願寺内での気の毒な生活に同情したのかもしれなかった。
 すでに中年の峠を越していた又兵衛は、京で画師として身を立てる望みは絶っていた。生活も疲れた。田舎暮しの悠長さが彼の心を誘った。
 又兵衛は、任期の終った心願に伴われ、妻子を連れて北陸路に旅立った。もう京にはかえられぬものと覚悟を決めたのだが、春だというのに、琵琶《びわ》湖の北、余吾湖《よごのうみ》を過ぎるころから雪があるのを見て心細かった。
 この年、狩野内膳が死んだ報《しら》せを彼はうけた。
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