北ノ庄に下って心願の興宗寺に身を寄せたが、又兵衛にとって格別心の豊かな生活ではなかった。寄食の客であることに変りはない。暗鬱な厚い雲が垂れ下る冬の空が、彼の心を凍らせた。永い暗い冬が、そのまま彼の気持を象徴していた。
本願寺に居るときは、せめて貴族や文人との交際があった。しかし、この田舎に引込んでしまっては、その刺戟《しげき》的な空気の欠片《かけら》も無かった。ものを云い合う人間といえば、近所の鈍重な顔つきをした百姓ばかりであった。又兵衛は寺の一部屋に屈《かが》み込んで坐り、滅多に外に出ることもなかった。
又兵衛は、終日閉じこもって画を描いた。画を描くよりほかに仕方のない生活であった。九年というものの間がそうであった。
狩野風の画を描き、唐宋の画に分け入ったが、又兵衛が最後まで強く惹かれたのは大和絵だった。これだけが滓《おり》のように彼の心に残った。累積した平安期の知識が、いつの間にかそれに接着させたのである。やはり土佐派が自分の心に一番適《かな》うように思われた。
薄明のような自信がようやく又兵衛にも見えてきた。
——おれの画もやっとものになるかな。
永い永い年月の末である。凍《い》てた土の底にぬくもりを感じた瞬間に似ていた。これに気がついた時は、彼の画は土佐風を基盤にして狩野派の技法や漢画の筆法が乗っていた。これまで異質なものがばらばらに寄り合っていたが、今は、彼の創意がなまなものを殺して己れのものになり切っていた。それぞれの流派の一つ一つを彼ははじめて組み伏せ得たと思った。すでに模倣のかげは無かった。筆致は、雲谷や等伯の生な荒々しいものではなく、強さの中にも柔軟な、とぼけた軽妙さが出ていた。人物の顔も、平安朝絵巻の模本から脱れて、豊頬《ほうきよう》に長い顎《あご》を添えて創作した。
画技に自信を得た喜びはあったが、生活は北国の冬のように幽暗であることに少しの変りもなかった。女房を喪《うしな》って彼は鰥夫《やもめ》となった。不自由が募った。頭には白髪が多く、顔に刻んだ皺は深くなっていた。
が、寛永元年になって、はじめて又兵衛に運らしいものが顔を向けた。この年、城主松平忠直が貶流《へんる》され、嫡子忠昌《ただまさ》が当主となった。北ノ庄は福井と改まった。この代替りとなって、心願が又兵衛を絵師として忠昌に推挙したのであった。心願にしてみれば、己れが京から連れてきた又兵衛に責任があったのであろう。また、寺に置いた彼の気の毒な生活が正視に堪えなかった。その画には心願はもとより感心していた。
忠昌は心願に、お前がそれほど云うなら描かせて見るがよい、と云った。心願は喜んで又兵衛にそれを告げた。
又兵衛は十数日を制作にかかった。出来上がりに自信があった。これで駄目なら自分に運がないものと覚悟していた。
忠昌は見て、意外な顔をして、これほどの者が領地に居るとは知らなんだ、と云った。心願は世話した甲斐《かい》を喜んだ。
又兵衛は忠昌の庇護《ひご》をうけて、ようやくに生活が安定した。この生活の安定が、精神の活動にどれほど快い鞭《むち》であるかを又兵衛は知った。長く閉された雲が動き、明るい日射しを彼は感じた。彼は後妻を迎え、初めて幸福感らしいものを味わった。
忠昌に知られてから、彼は小さな制作をつづけていたが、寛永三年から四年にかけて、人麿《ひとまろ》と貫之《つらゆき》の図を水墨で描いた。それから、伊勢物語や官女観菊や霊照女《れいしようじよ》や政黄牛《せいおうぎゆう》などを画題とした十二図の彩色屏風絵を仕上げた。「人麿図」などの水墨は、彼が長年追究した漢画の手法を存分に揮《ふる》ったものだった。しかし彩色十二枚の屏風絵は、土佐派に漢画派を融合させた彼の独特な創意の描法であった。この二つの画風は別人が描いたように異質に見えた。彩色の屏風絵の人物は、和漢の歴史の上に材をとった。絵として総合した構図に、両国の人物を対比して置いたのも彼の工夫であった。平安と唐宋の古書に没入し、その知識を貯蔵した彼は、主題も自然にそのようになった。いや、そうしたくて堪らない衝動から出ていた。
忠昌はこれらの絵の出来を大いに賞めた。和漢の人物を一つに按配《あんばい》したのは大そう面白いと云った。他人の批評が多くの芸術家の方向を決定することがある。忠昌の一句の評言は、又兵衛に自信をつけて、その様式を密着させた。
例えば、その後、寛永十一年に六曲小屏風用に十二枚を書いたが、これも和漢の人物の相対であった。大黒、恵比須、寿老、布袋などに仲国《なかくに》と小督《こごう》が対照してある。月光に読書する支那の若者に、公卿と三羽の鶴を一方に描き、竹林七賢人に三笠山が按配してあるという風である。それがいつか又兵衛の画風の顕《あら》わな特徴となった。
忠昌は、官女観菊や霊照女の十二図を珍重していたが、後にこれを家士の金谷某に功ありとして賜った。
又兵衛は和漢の人物を描いたが、やはり和朝の人物の描き方がすぐれていた。そこに大和絵に多く惹かれていた彼の画技の傾斜があった。
ところが、福井在住二十年目に、又兵衛に突然な身辺の異変が起った。