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小説日本芸譚5-1

时间: 2019-05-22    进入日语论坛
核心提示:   1 小堀作介政一《こぼりさくすけまさかず》に一つの記憶がある。 政一が大坂平野《ひらの》の陣で家康に謁したのは、元
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 小堀作介政一《こぼりさくすけまさかず》に一つの記憶がある。
 政一が大坂平野《ひらの》の陣で家康に謁したのは、元和《げんな》元年五月七日であった。
 家康はこの日の未明、牧岡を発して道明寺《どうみようじ》の戦場を巡視し、巳《み》の刻に此処《こ こ》に到着したのであった。彼は、しばしば戦場に馴れたる身なればとて武具を着けず、羽織を気軽に著ていた。気軽だったのは、戦場馴れのためばかりではない、前日に大坂城攻囲戦の落着《らくちやく》が見えてきたからであった。あとは城を落すばかりなのだ。
 大和郡山《こおりやま》方面の警備に当っていた政一は、攻城戦に参加するため早朝に平野に来会した。折から家康の参着を知って、機嫌を伺いに大御所の前に出たのだった。
 家康はこれから八尾《やお》方面から来た将軍秀忠に対面するため、輿《こし》に乗るばかりのところであった。その忙しい僅かな時間の隙に、家康は政一に会ってくれた。
「作介か。久しいのう」
 家康は曲〓《きよくろく》に腰かけて、横から煽《あお》がせていた。実際、暑い日である。七十歳の家康の日焦《ひや》けした頬には汗が光っていた。眼もとには愛想のよい微笑がある。
 政一は、畏《かしこ》まって自分の持場である戦況を報告した。家康は、ふむ、ふむ、と聞いているが、別に質問は無い。気づくと、別段興味なさそうな表情だった。いかにも義務的に聞いているという顔であった。
 話が一段落すると、家康はそれを待っていたように、
「遠州。わしもすぐに暇になる。そのときは、そちの点前《てまえ》で一服所望したいな」
 と云った。声に力がある。仰ぐと、今までと打って変ってひどく気を入れた顔つきになっていた。戦さの話には浮かなかった家康の顔いろも、茶事となると熱心なものに変っていた。この変化の理由に政一はまだ気づいていない。
 政一が有難くお請けすると、家康はそそくさと輿に乗った。同じく武具をつけていない本多正信が馬を寄せて何かささやくと、家康はむつかしい顔をして二、三度うなずいた。もはや、政一に見せた数寄者《すきしや》の眼つきも、もう一つ前の義務的な表情も、どこかに消え失せていた。あるのは炎天の原野に放っている偏執的な老将の眼つきだった。
 たくさんな軍兵《ぐんぴよう》の甲冑《かつちゆう》の金具が、暑そうに光りながら行列をつくって消えてゆくのを政一は見送った。それが遠ざかったときに、彼は何故家康が先刻、自分の報告に不熱心だったか訝《いぶか》る気持が起った。
 不機嫌なのではない。それはすぐあとで、そちの点前で茶を飲もう、と云った愉しげな眼で分った。何故、あのときは呆《ほう》けた顔になっていたのか。
 小堀政一が迂闊《うかつ》にもその理由に思い当ったのは、大坂城が落ちた八日の夜、家康が遽《にわ》かに伏見に引上げ、九日に諸将の賀を受けた時であった。
 家康はまことに機嫌がよい。死期遠くないこの老人は、宿望を達して、誰彼となく目通りに来る者に戦闘の労を犒《ねぎら》い、口辺から笑いが熄《や》まなかった。殊に奮戦した藤堂《とうどう》高虎、伊達《だ て》政宗、井伊直政などに対しては手放しで賞め上げた。その他の諸将に至るまで多少ともこの賞讃に与《あずか》らぬ者は無い。
 しかるに政一が家康の前に出ると、家康は政一の面上に一瞥《いちべつ》を掃いただけで、すぐ次の武将に愛想のよい眼を移し、親しげな言葉をかけるのであった。暇になったら茶の点前をしてくれ、という言葉はこの時は出ない。
 政一は、はぐらかされた気持でその場から退《さが》った。心に穴があいたような物足りなさがあった。
 考えてみると、彼は家康から賞詞を貰うほどの働きをしていなかった。彼がしたことといえば、前年の冬と同じように、開戦のはじめに郡山方面を警備したに過ぎなかった。それが唯一の戦績なのである。大坂の攻城戦には参加したが、それはただ参加したというのみであった。これと目立つ戦闘の持場を預かったわけではない。いや、貰えなかったといった方がよい。家康がいま、政一を慌しげに一瞥しただけで済ませたのは、正直な報酬といえそうだった。
 政一は、平野の陣で家康に会ったとき、自分の報告になぜ家康が不熱心だったか、はじめて分るような気がした。家康にとっては、郡山あたりの警備報告など、どっちでもよかったのである。戦況には神経質な家康も、大勢に影響の無い話には仕方なしに耳をかしていたのだ。それはいまの冷淡な一瞥に通じている。
 それならあのとき、茶の話に眼が甦《よみがえ》ったように活々となった訳は何か。
 理由は政一に今は簡単であった。家康は彼を茶湯者《ちやのゆしや》として解しているのである。茶湯の上手としてしか彼は家康の眼に映っていなかったのだ。こんな風に解けば、さしたる持場が貰えなかったことも分るのである。そればかりではない、家康が今度は茶のことを云い出さなかった気持も察することが出来る。戦勝に昂奮《こうふん》している家康は、茶などという閑《ひま》ごとは現在少しも脳裏に無かったのだ。
 政一は虚《うつ》ろな心になった。
 彼が古田織部の弟子として、名だたる数寄者の評判は早くからあった。茶ばかりではない。父の正次《まさつぐ》の血をひいて作事にも才能があることも知られていた。現に四年前には名古屋城天守の作事の一部を無事につとめた。それから同じ年に大徳寺の竜光院内に茶室を造った。翌年には命ぜられて禁中の作事方となった。
 だが、その特技が武人として軽蔑《けいべつ》されていることを、政一は家康の眼から思いがけなく露骨に知らされた。爾来《じらい》、この時の衝撃が、彼の性根の底に一つの意識となって生涯黒くしみ込んだ。
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