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小説日本芸譚5-2

时间: 2019-05-22    进入日语论坛
核心提示:   2 小堀新介《しんすけ》正次は秀吉に仕えたが、関ヶ原の時に徳川方についた。彼は慶長九年、備前から江戸に帰る途中、藤
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 小堀新介《しんすけ》正次は秀吉に仕えたが、関ヶ原の時に徳川方についた。彼は慶長九年、備前から江戸に帰る途中、藤沢の宿で発病して死んだ。その遺領のうち、一万三千石をついで備中《びつちゆう》松山城を宰領したのが長子の作介政一である。
 慶長十二年十二月、家康は風邪気味で駿府《すんぷ》城に引籠《ひきこも》っていたが、夜中に出火して城が焼けた。その再建に諸大名は努めたが、政一も作事奉行をうけもった。その功で従五位下遠江守《とおとうみのかみ》となった。彼が世間から「遠州」と呼ばれた所以《ゆえん》である。
 政一が古田織部について茶を習ったのは十四、五歳のころからだった。織部は利休の弟子だが、彼は利休の侘《わ》びに徹した町人茶道を武家風に改革した男である。利休が秀吉と衝突して自滅すると、織部は秀吉に用いられ、秀吉の死後は家康の茶を指南した。
 織部は政一の才を愛した。それだけの素質を彼はもっていた。例えばこんなことがあった。手水《ちようず》鉢《ばち》の水門は、それまで四方の縁《へり》に瓦を敷くので、内に水溜《みずたま》りがして悪かったが、政一が十八のときに、洞《ほら》水門を深く掘って中に簀子《すのこ》を当て、縁も練土で固め、松葉を敷いた。織部がそれを見て、これまでこのような水門はなかった、作介は名人になるだろう、と感心したことがあった。
 利休は、茶道では作意が大切だといった。織部も工夫を心がけ、彼はそれだけ師の茶に反逆した。弟子といっても、芸術の本質は伝習でなく創造だから、織部が政一にその素質を発見して愛したのは道理である。
 政一が伏見奉行になったのは、大坂の陣で家康の冷たい眼に出遇《あ》ってから八年後のことであった。
 その間に、無論、家康は死んだ。のみならず、その前には古田織部が自刃していた。織部は大坂陣で敵方に内通を疑われ、申し開きも見苦しいといって腹を割《さ》いて果てたのである。政一のもとには、織部の遺品として魚屋《ととや》茶碗が届いた。
 朝鮮産のこの平茶碗を手にとって、釉薬《うわぐすり》の青赤色を見ているうちに、政一は微《かす》かな怯《おび》えを覚えた。利休も織部もともに非業の死を遂げた。利休の弟子の山上宗二《やまのうえのそうじ》は耳と鼻を剃《そ》がれて死んだ。政一の怯えた眼は、茶人の運命に震えたのである。
 彼はこのとき家康の冷たい眼の光に思い当った。戦勝に昂奮した家康の、茶など歯牙《しが》にもかけぬげな、とりあわぬ顔が泛《うか》んだ。——彼が、利休や織部の死をばかばかしく思い、己れは決してその轍《てつ》を踏むまいと決心したのは、根はこの劣弱感につながっている。以後、六十九で果てるまで、この意識が彼を縛った。
 
 織部の死後、政一は秀忠の茶事を指南した。当代、茶にかけては政一にならぶ者がなかったのだ。
 利休や織部も多才だったが、政一はもっと多芸であった。建築、造庭、書、生花、和歌といった風である。
 建築、造庭に限って、彼の生涯の仕事をやや年代順に拾ってゆくと、次のようなことになる。
 慶長十九年、備中松山城を修理し、頼久寺庭園を造った。翌年は伏見城本丸書院作事奉行と二条城の作庭奉行をした。元和四年、女院《によういん》御所の作事を奉行し、六年には東福門院御殿造営奉行をつとめた。元和十一年に二条城行幸御殿を普請し、この年、大坂城本丸の備御殿の作事奉行をした。寛永四年、南禅寺金地院《こんちいん》の茶亭を造り、翌年の五月まで仙洞《せんとう》御所の作事にかかった。寛永五年、二条城二の丸の作事奉行となり、翌年には江戸西の丸の茶室と造庭に携わった。
 寛永九年、金地院の庭園を完成した。十年、仙洞御所の造庭をし、二条城本丸の数寄屋作事をした。十五年、品川東海寺の茶亭作事奉行をし、十七年、新院の御所造営をした。この頃、桂離宮の工事がすすんでいたが、直接の指揮ではないにしても、その構想に助力している。
 これだけでも大へん多忙である。
 彼のその才能を最も買ったのは金地院崇伝《すうでん》で、政一が金地院の造庭をしたのは、その頼みによるものだった。彼が仙洞御所をはじめ、多くの宮廷関係の造営に携わったのは崇伝の意図からであろう。のみならず、二十年間もその職にあった伏見奉行も、崇伝の意志から出て幕府に任命させたに違いない。
 崇伝が政一を贔屓《ひいき》にしたというよりも、裏側の政治的な操作に彼を使ったのだ。
 当時、幕府と朝廷との間はかなり険悪であった。
 後陽成《ごようぜい》天皇の退位のあとをうけて即位したのが第三子の後水尾《ごみずのお》天皇である。後陽成院は第二子に譲位の希望があったが、幕府は或る理由でしりぞけた。この第二子が桂離宮を造った八条宮智仁《としひと》親王であった。
 さて幕府は後水尾天皇を位につけた恩をうるためか、その女院として秀忠の女和子《むすめかずこ》を入内《じゆだい》させようとした。幕府の勢力を御所に侵入させる目的であることはいうまでもない。天皇は止《や》むなく承知したが、ここに一つの問題が起った。
 それは後水尾天皇が父譲りの女好きで寵愛《ちようあい》の女が数人あり、しかも子があったことだ。秀忠はそれを怒って天皇の側近公卿《くぎよう》を処断し、和子の入内を遅らせた。天皇は困惑して恭順し落飾を申出たくらいだ。秀忠は、それではじめて和子を入内させた。これが東福門院である。
 江戸幕府の現地代表者は京都所司代《しよしだい》板倉重宗である。重宗は強硬手段で宮廷に干渉した。和子に子をあげさせるため、天皇の寵妾《ちようしよう》を遠ざけ、妊娠の者は堕胎させ、或いは圧殺した。さすがの天皇も幕府に不快をもつようになった。それが爆発したのが紫衣剥脱《しえはくだつ》事件である。簡単にいえば、幕府が制定した諸宗法度《はつと》をもって、朝廷が在来宥《ゆる》してきた僧侶《そうりよ》の出世、上人号を取り消させ、わずかに残っていた皇権を踏み潰《つぶ》そうと企らんだのだ。
 後水尾天皇は怒って、譲位をもって対抗した。皇子無く、和子が生んだ五つの皇女があるのみだから幕府は当惑するだろうと目算したのだが、幕府はあっさり肩すかししてこれを承認し、かえって院の入るための仙洞御所の造営をいそいだ。後水尾院はこの御所で悲憤の生涯を送っている。
 この朝幕衝突で一番活躍したのが、金地院崇伝である。崇伝が小堀政一を伏見奉行に置いたのは、その茶道趣味で、動揺している公卿を宥和《ゆうわ》させる意図があったのであろう。近衛《このえ》信尋《のぶひろ》はじめ多くの公卿が政一に茶を習っている。所司代板倉重宗は強面《こわもて》な存在だ。一方で叩き、一方でなだめるのは徳川幕府のいつもの手段である。
 政一の京地での位置は裏からはこんな道具に使われていた。
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