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小説日本芸譚5-3

时间: 2019-05-22    进入日语论坛
核心提示:   3 政一の茶は、織部の系統をひいてその特色を発展させ、書は親交のあった松花堂《しようかどう》に習って定家様《ていか
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 政一の茶は、織部の系統をひいてその特色を発展させ、書は親交のあった松花堂《しようかどう》に習って定家様《ていかよう》をよくしたが、彼の才能の一番よく現われたのは、やはり、茶亭の造園であった。
 利休は、侘び茶の精神を庭にも創造した。露地は「茅屋《ぼうおく》」にふさわしく山路でなければならなかった。深山幽谷の幽玄よりも、山路の物寂しさが理想であった。妙喜庵《みようきあん》や不審庵の露地は、その形式の一応の完成である。
 織部は、この暗い露地をかなり明るくした。秀吉と利休の相剋《そうこく》が、茶道芸術における武家と町人の衝突とみることが出来れば、武人の織部が利休好みを改めたのは当然である。利休が実用を心がけたのは、町人心理かもしれない。織部はもっと美観に重きを置こうと試みた。
 古い平安時代の寝殿造庭園は、貴族の遊山《ゆさん》的な鑑賞に設計せられた。寝殿と東対屋《たいのや》とに架った渡廊下の下から遣水《やりみず》をひく池泉庭園である。中島には釣殿《つりどの》をさしかけたり、反橋《そりはし》や斜橋で連絡する。自然の模型はあっても、鑑賞はあくまでも優雅な遊びであった。もののあわれはあっても、それは文学的な観賞の遊びに過ぎない。
 室町時代に入ると、禅寺を中心として枯山水《かれさんすい》の庭園に移行した。禅宗の思想は武士階級にうけ入れられ、この枯淡な庭造りが気に入られた。地面は狭くなり、石組みが中心となった。彩色の無い、自然の石に武士達は無常観を見出したのであろう。そこには、すでに遊びはなく心が在った。庭園は自然のきれいごとな模写ではなく、無常の世界の象徴であった。前代のもののあわれが、宗教的な虚無観に移る。一つの石、一本の樹に、彼らは己れの心の行方を見つけた。
 平安朝時代には、庭樹には割と平気であった。樹木は自然の樹形のままで用い、多少の手入はあっても伸びるに任せていた。しかし樹木の成長は当初の形を甚しく変える。そこで室町期には、庭の均衡を破るような生育の激しい樹を忌み、遅い樹が選ばれ、季節毎の刈込みが行われた。
 が、これを追究してゆくと、樹は僅かでも生長して、いつかは釣り合いを失うから、樹木は一切使わない理論となる。その果てが、石と砂、砂だけのもの、草庭や苔庭《こけにわ》の発想となった。
 庭はいつも建築の様式と離れることが出来ない。室町の末期に書院造が発達すれば、それに影響されて書院庭となった。書院が禅寺の形式を武士の住居に取り入れたとすれば、庭もいよいよ武家風に、簡素、剛健にならねばならなかった。
 天正期には信長が殊のほか茶を愛好したので天下の武士の間に茶が流行した。紹鴎《じようおう》、利休のような天才が現われて、一層、茶事は繁昌して茶室建築が行われた。珠光《しゆこう》の茶室は四畳半、壁は鳥子《とりのこ》紙の白張附、紹鴎の茶室も同じようなものであったが、利休は壁を紙から土壁に、柱は杉や松の皮つきのままの丸太を用いた。すべて、藁屋《わらや》に馬繋《つな》ぎたるがよし、の理想の通りであった。
 茶室が田舎の草庵であれば、茶庭もそれに従わねばならない。こうして物寂しげな山路になぞらえた露地が利休によって完成された。木戸には田舎の百姓家のものを持ってくる。明りのために古燈籠《ふるとうろう》を探し、蹲踞《つくばい》形の手水鉢を配した。極端に狭い地面に配置した樹石の姿に「わび」を表現した。
 が、利休の茶道は、要するに町人茶道であった。珠光も紹鴎も利休も宗二も奈良や堺の町人である。戦国争乱で京都の貴族が逃亡してきて、この地に茶道がひろまったといわれる。が、利休の「わび」は町人の芸術であった。前の時代の無常観とは異《ちが》う。禅学的な教養をもつ武士階級の感情には当然に反撥があった。利休の死滅後、三万五千石の大名古田織部によって利休の茶道は変改せられる結果になった。
 織部は露地を明るいものにした。砂利道に切石など取り合せた例のように、見た眼に美しくしようとした。茶碗なども、利休が黒や、柿色の楽焼《らくやき》を好んだのに対し、志野《しの》の白地に異国模様を描き、派手な彩色を施させた。
 しかし織部は、茶碗ほどには茶庭を改めなかったようである。彼の早い不慮の死によったためであろう。その仕事は、弟子の政一の手にゆずられた。
 庭園の構成は、地割りと石組みである。自然風景の凝集がこの二つの布置に要約せられるから、石組みの重大な要素となる。利休は、寂びたる趣を出すために丸石を多く使ったが、織部は切石を多く用いた。政一は石の姿を、もっと派手なものとした。いかにも美しい視覚の効果を狙った。石の配列も、或るものは竪《たて》にし、或るものは横に寝せて、旋律的な感じを出した。
 利休が庭だけに自然の趣を出そうとしたのに対し、政一は遠景に周囲の実景をとり入れた。刈込みは一層装飾的である。遠山を舟に見立てて青海波《せいがいは》形にしたり、蓬莱《ほうらい》を想わせて鶴亀の形にしたりした。
 書院庭園が、座敷より眺めるためであったのに、政一の設計は、廻遊式の効果を強調した。暗い木陰を行くと、不意に流水を渡る。急な坂道を上ると、木の間から眼下に光る池を見せる。池の中島に行く橋を渡ったり、広い草地からおだやかな水面を見せたりする、歩くに従って視覚の変化を与えた。
 これは、暗い、狭くて窮屈な露地式の茶庭を改革して完成した政一の造庭であった。世間は「遠州流のきれいさび」といったが、茶の佗びの根本精神は変らぬにしても、利休好みに反逆して美観を強調したことは、図らずも以後の庭園を女性的にさせた。
 
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