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小説日本芸譚5-4

时间: 2019-05-22    进入日语论坛
核心提示:   4 政一の作意については、さまざまなことが世に伝わった。 前田利常《としつね》が大津の屋敷に庭をつくったことがある
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 政一の作意については、さまざまなことが世に伝わった。
 前田利常《としつね》が大津の屋敷に庭をつくったことがある。築山も泉水も出来た。折りから利常は留守であったが、政一がそれを観に行った。そのとき彼はこう呟《つぶや》いたというのだ。
「大名の数寄としては小さなお好みですな。あの大山と湖水がお眼に見えぬようです」
 これを聞いた家来が、帰って来た利常に云うと、利常はうなずいて至極尤《もつと》もだといった。それから泉水を埋め、山を崩して捨て、石だけを残した。向うに塀を立て、中央だけを切りぬいて、そこに格子をつくると、琵琶《びわ》湖から叡山《えいざん》、唐崎《からさき》、三笠山まで一眼で見渡して、雄大な庭の眺望となった。そこで政一を呼ぶと、彼は手を打って、
「これでこそ大名の露地です」
 とほめたというのである。
 政一が伏見に居たとき、京の数寄者が屋敷に訪ねてきたことがあった。政一は、今日は客が来る筈だったが、雨のために不参となった。丁度よいから露地へ廻れ、茶を振舞ってやろうといった。六月のはじめで、さわがしい夕立があったが、晴れたあとは甚だ涼しかった。
 数寄者が案内に従って客室に入ると、床の壁には花が無く、さっと水を打ちそそいだあとがあるばかりである。数寄者は、これはいかなる趣向かと思っていると、政一が現われて云うには、
「今日の夕立で露地の樹々が濡れ、爽やかに見た眼には、どのような花を生けても賞玩《しようがん》されまいと思って、花をとり除いたのだ」
 と解説したので、数寄者は、あっと感じ入った。これが評判となり、洛中《らくちゆう》の茶人が、雨さえ降れば床を濡らして花を生けなかった。政一がそれを聞いて、大そう笑ったというのである。
 炭の場合は、利休は泉州光滝から出る白炭《しろずみ》を用いた。織部はそれを更に際立たせるため、白炭の上に胡粉《ごふん》を塗った。その色はまるで白粉《おしろい》を着けたようだった。これだけでも派手になったのに、政一は、胡粉塗の白炭だけでなく、胡粉に墨をいれて鼠色に塗ったり、赤土色にしたものを取りまぜ、これに竹の小枝や松笠などをとり合せたから、風炉《ふろ》の中は、まるで彩色人形を見るようであった。
 炭が美しくなれば、灰も綺麗《きれい》にしなければならなかった。「あられ灰を用ゆる事、炉中がきれいに成故也、ふくさ灰にすれば、炭心の儘《まま》に入れにくし」と彼は云う。「きれいさび」という審美一点の作意に絞ってゆく。世間の茶人は悉《ことごと》くこれを見習ったというのである。
 政一は、松花堂昭乗《しようじよう》と親しく交わり、書を習った。政一の書は定家の書風であった。尤も当時は茶人に定家様がもてはやされたためであったかもしれない。
 あるとき、前田利常が定家の軸を手に入れたので、それを観せるために政一を席に招いた。床には無論その一軸があるが、政一は一向に知らぬ顔をしている。利常は物足りぬ気な様子だった。それで家臣が政一にささやいて、
「殿にはあの掛物を求めて御覧に入れたいと、わざと今日、貴公をお招きしたのです。定家卿《きよう》の筆ですから、何とかお賞め下さいませぬか」
 といった。政一は笑って、
「あの掛物はまさしく拙者が書いたもので、その証拠もはっきりしている。最初から心づいていたが、前田殿には馳走に拙者の手蹟《しゆせき》を懸けられたものと思い、一礼を述べようと考えていたところだ。その方の云うように、賞めろといっても、自分の手蹟をどうして賞められよう」
 と返答したので、家臣はいまさらに政一の能書に感じ入って言葉が出なかったというのである。
 このようなことを挙げると、きりがない。茶のこと、茶室のこと、庭園のこと、茶碗のこと、茶花のこと、陶芸のこと、道具目利きのこと、和歌や文章のことなど、彼の才能の領域の広さを背景としている。
 しかし才能の多面なのは、時として人間に不幸なのである。
 政一は、天正七年近江《おうみ》国坂田郡小堀に生れ、二十二歳で備中松山城を預かった。一万三千石だが、とも角も大名である。彼は青年と壮年期を慶長と元和の動乱期に送ったが、格別の仕事を与えられていない。
 大坂冬の合戦には備中《びつちゆう》の在米を大坂へ廻送する役だった。夏の役には郡山方面の警戒の役目が主だった。それから大和宇陀《うだ》城の福島高晴の所領三万石の公収に当り、その使いをした。
 それからは播州《ばんしゆう》姫路や丹州福知山の政務を預かって聞いたり、紀州や近江に使いしたり、せいぜいそんなことだった。いつも脇道ばかり歩かされている。伏見奉行は在職二十年だったが、食禄は一度もふえず、もとの一万三千石のままであった。
 茶会や、道具の目利きや、造園の設計の中にだけ小堀遠江守政一は生かされていた。
 
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