政一にはたくさんな知友がいた。
八条宮、近衛応山《おうざん》、そのほかの公卿たちがいた。若いころからは細川忠興、織田有楽《うらく》などがいた。老中や大名には、土井大炊《おおい》、松平伯耆《ほうき》、板倉周防《すおう》、永井信濃《しなの》、酒井雅楽《う た》、安藤対馬《つしま》、九鬼長門《くきながと》などがいた。
僧では、崇伝、春屋《しゆんおく》、江月、沢庵、清巌、天祐、玉室などがいる。そのほかには、松花堂昭乗、佐川田喜六、本阿弥光悦《ほんなみこうえつ》、松屋久好などがいた。勿論《もちろん》、政一を囲繞《いによう》しているこれらの人々は、茶人や庭の設計家としての彼を買って附き合っているのであった。
世間は、遠州遠州といって彼の名声をひろめた。諸大名から彼への造庭の註文《ちゆうもん》はひっきりなかった。道具の目利きや、周旋の依頼も頻繁《ひんぱん》だった。
しかし、政一は、己れの造った茶室が賞められ、庭園が賞讃される毎に、心のどこかでいつも剥《は》がれるような疼《うず》きを感じた。平野《ひらの》で見た家康の冷たい眼に、不意に突き当った。
武人としては何の働きも無かった。武功一つあったわけではない。何にも無いのだ。なまじ特殊な技術を身につけたために、本当の己れが空疎になっていた。時々、身体を風が吹き抜けるような寂寥《せきりよう》を覚えた。それは、特技者の持つ、普通の者には理解されない、あの劣等感であった。
家光は三度にわたって政一を賞した。一度は西の丸の造庭をしたので千両を賜った。一度は、品川林中の茶亭で茶を献じたので、清拙《せいせつ》の墨蹟を賜った。一度は、東海寺の庭石につけた名が気に入ったというので、羽織を賜った。金をくれたり、物をくれたりすることが、彼の特技に分相応なのだ。父から譲られたままの禄高で据え置かれ、生涯、千石の増封も無かったことは、武人としての彼を頭から抹殺《まつさつ》したやり方としか思えなかった。
政一は、なるほど、おれは無事に生き残ったな、と思うことがあった。それは充足感からではなかった。若い時は、利休や織部の後は踏むまいと決心したこともあったが、年老いてくるにつれて、彼等の死をひそかに羨望《せんぼう》した。これも特技者の後悔だった。
寛永九年の五月、金地院の庭が工事の最中であった。一昨年から政一が崇伝から頼まれたものだった。政一が鈴木次太夫に吟味させた庭石は去年到着していた。庭木は谷口九左衛門に集めさせ、これもこの春に揃《そろ》った。
今は、庭師の賢庭《けんてい》が、政一の設計図に従って、しきりと作庭をやっているところだった。
この庭の設計も実際は政一の芸術的な欲望を満足させたものではなかった。崇伝の好みに妥協したものだった。政一は、家光にしても沢庵にしても、こんな俗物に己れの技術を妥協することで、いつもどこかで復讐《ふくしゆう》を味わっていた。
政一は金地院に見廻りにきた。
夏の暑い陽の下で、小柄な賢庭が日焦けした顔に汗を流して人夫どもを指揮している。賢庭は、本当の名は与四郎といって伏見に住んでいる河原《かわら》者《もの》庭師だが、禁裏の作庭がよかったというので後陽成院から賢庭の名をつけられたのである。彼はあとで三宝院の庭などを造ったが、はじめから政一の下についてその指図の工事に従っているのだった。
政一は賢庭が働く姿をしばらく立って見まもっていた。賢庭はあちこちと走り廻っては何かと人夫たちに指図している。いかにも仕事に満足しきった、真剣な働きぶりであった。政一はその姿から眼が逸《そ》らせなかった。
賢庭は、政一を見つけると、傍にきて畏まって挨拶した。
政一は、突然に或る質問を賢庭にしたくなった。
「賢庭。お前は自分の仕事に満足しているか?」
賢庭は政一を見上げて、不意な訊《き》かれ方にとまどった顔をした。それから吃《ども》って答えた。
「はい。まだ未熟でございますから、なかなか満足までには参りません」
政一は、少し笑ってうなずいた。
笑ったのは、賢庭が質問の意味が分らず、方向の異《ちが》った返事をしたからではなかった。恐らくこの男には、質問の意味は分らないであろう。懐疑の無い幸福な男に、多少の妬《ねた》ましさをまじえて、炎天の下を現場に戻ってゆく彼の姿を見送ったのであった。