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小説日本芸譚6-1

时间: 2019-05-22    进入日语论坛
核心提示:   1 私どもの今住んで居ります村は、京の北に当る鷹《たか》ヶ峯《みね》の麓《ふもと》でございます。村と申しましても、
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 私どもの今住んで居ります村は、京の北に当る鷹《たか》ヶ峯《みね》の麓《ふもと》でございます。村と申しましても、東西二百間、南北七町余、五十五軒の集落でございますが、住人は悉《ことごと》く本阿弥光悦《ほんなみこうえつ》由縁《ゆかり》の者で、余人は一人も住んで居りません。それというのが、ここは光悦が権現《ごんげん》様より拝領した土地で、洛中《らくちゆう》より移るとき、一族をはじめ己れの仕事に関係のある職人どもを引き具して参ったからでございます。私は親父の代りに参りました。
 ですから、口六十間の光悦の住いが一番大きいのは当り前でございます。京口から大徳寺の前を北に上《あが》りますと、村の通り町になります。光悦の家は東側の真ん中にあり、その隣に養子の光瑳《こうさ》が口二十間、孫助が五間、光悦の弟の宗知、宗家の光徳の息子である光栄、光益らの本阿弥一門がならんでおります。その向い側の南の端には孫の光甫、宗仁《そうじん》、筆屋妙喜、土田宗沢《そうたく》、それに宗右衛門、蓮池常有《じようゆう》、むめたに道安《どうあん》、尾形宗柏《そうはく》、茶屋四郎次郎《しろじろう》、くぼう常清《じようせい》らが住んでいます。尤《もつと》も茶屋だけは京に大きな屋敷があって、ここは時折遊びに来るかり住居でありました。
 通り町が突き当り、鉤《かぎ》の手になって西に折れますと、両側に本阿弥十郎兵衛、秋ば多兵衛、たいあみ道有《どうゆう》、大工久右衛門、本阿弥三郎兵衛そのほか召使などが居ります。光悦の実母の妙秀のいはい所は、その南側にあります。こうならべますと、この村の住人の様子が大体お分りのことと存じます。
 光悦がこの土地を権現さまから頂いた由来は、どなたも御存知ですから申上げるまでもございますまい。権現さまが大坂御帰陣のときに、所司代《しよしだい》の板倉伊賀守さまに、光悦はどうしているかとおたずねになったときに、存命して居りますが、あの男は変り者で、京には住み飽いたからどこぞへんぴなところへ移りたいなどと申して居りますと伊賀守さまはおこたえになりました。権現さまは、しばらくお考えになり、さらば近江《おうみ》、丹後などより京都への道に用心あしき辻切《つじぎ》り追はぎもする所あるべし、さようの所をひろびろと取らせよ、と仰せられたので、今の土地を頂戴したというのでございます。なるほど、通り町が突き当った東西の道路は、近江、丹後への往来で、家の絶えたところは今もって山中の寂しい所でございます。道はときどき崖《がけ》くずれなどいたし、一方の谿《たに》の底には紙屋川《かみやがわ》と申す渓流が這《は》っていて、旅びとが通るにはまず難渋な場所でございます。けれども、ここは洛中を目の下に見下ろす大そう眺めのよいところで、前に千利休が関白さまのお供で来たとき、景色がよいというので竹の柱の庵《いおり》をむすびお茶をたてたことがあるくらいでございます。光悦も大へんな気に入りようでございました。されば、ここを往生場所とさだめ、一ぞくをつれ洛中からひき移ったのでございましょう。
 光悦が、なぜ権現さまから、そのようにひいきにされたかと申しますと、おやの光二の因縁からでございます。本阿弥家は代々、刀剣の目利き、磨礪《と ぎ》、浄拭《ぬぐい》をもって家業とし、足利将軍家にも仕えましたが、光二は今川義元や信長にも知遇をうけました。光二が東海道を下って今川家に参ったとき、権現さまはまだ幼く、竹千代さまといって人質でありました。光二は竹千代さまのために小刀をといでさし上げたり、御膳のお相伴さえ仰せつけられたり、脇差の仕立拵《こしらえ》も仕《つかまつ》りました。そんな訳で、光二の子の光悦のことをお忘れなかったのでございましょう。
 この光二の妻、つまり光悦の母の妙秀がえらい人でありました。この人は九十まで長生きした方で、私も子供心にうろ覚えに顔を知って居ります。年寄りなどの話では男まさりの大そうなおなごだったと申します。人殺しした者が家の中に血刀さげてかけこんできたのをきてんで逃がしてやったことだの、光二が信長公の勘気を蒙《こうむ》ったとき、公のお馬の口に取りついて愬《うつた》えたことだの、石川五右衛門が蔵の中に忍び入り、諸方から預かった刀脇差を盗んだため、光二が途方にくれていると、本阿弥家に腰刀をお頼みになるほどの武士が、盗人にとられたものを返せなどとはよも云うまじと夫を励ましたことだの、子の宗知が交わっている友だちが、その妻を故なく離縁したときき、かかる畜生と懇《ねんご》ろにしているのはわが子でないと勘当したことなど、聞いてみて、なるほど、きついおなごだと思う話ばかりでございます。
 その一方、妙秀は時服など他《よそ》から貰うと、それを帯や襟《えり》、頭巾《ずきん》、帛紗《ふくさ》などの大きさにして皆にくれてやるとか、銭を貰うと、家持ちの者には箒《ほうき》、火打箱、火箸《ひばし》などの道具、女房には糸、綿、手拭などを与えるとか、乞食には施しをし、いつも人には親を大切にせよ、気苦労をかけるな、嘘をいうな、とおしえていたということでございます。ですから死んだときは、単物《ひとえもの》一つ、かたびらの袷《あわせ》二つ、浴衣、紙子《かみこ》の夜具に木綿の布団、布の枕ばかりでほかに何にも無かったと申します。つまり、妙秀は、気の勝った賢いおなごだったのでございます。
 光悦は、この母に育てられたのでございますが、およそその躾《しつ》けかたも想像がつこうというものでございます。七つ八つの時から四書五経の素読をさせられ、歌道を教えられ、そのかたわら家業の方もだんだんに仕込まれたのでございます。光悦はこの母の教育によって、母の性格を充分にうけついだと思われます。
 こう申しますと、佳《よ》いところばかりをうけついだように聞えますが、私に云わせますと、その悪いところ、尊大、自負、強引、負けず嫌いなどといういやらしいところもひきついだと申したいのでございます。いえ、これは私だけが感じているのではございません。
 鷹ヶ峯に住んでいる光悦の近くにいるものは、みんな大なり小なり、そう思っているのでございます。
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