「やあ、見えましたな」
碁会所では、十徳を着た老人が盤の前に写楽を迎えて顔中を皺《しわ》にして笑った。
「早いものですな。この間、松がとれたと思ったら、今日はもうお閻魔《えんま》さまです。わたくしは、いま、茅場町《かやばちよう》の薬師堂におまいりしてきました」
老人は、碁笥《ごけ》をあけながらおだやかに話しかけた。いい身分の隠居らしく上品で鷹揚《おうよう》なところがあった。写楽は、いつもこの老人が相手であった。ほかの客はどういうものか写楽を避けた。打っていて気詰りを感じるらしい。無論、写楽が誰だか知った者は無いが、彼の取りつきにくい表情と、容《かたち》を崩さぬ姿勢に閉口して敬遠するようだった。写楽は己れの性分は仕方がないととうに諦《あきら》めていた。容が崩れないのは、阿波藩の能役者斎藤十郎兵衛《さいとうじゆうろべえ》の習慣であった。
「今日は冷えます。明日から観音参りですが、陽気が暖かくなるとよろしいですな」
老人は石を置いて云った。
写楽はそれに応えた。少しずつ平和が彼に戻ってきた。絵草紙屋の前よりつづいてきた感情も、霰の降る外から、火桶《ひおけ》のあるこの部屋に入って触れた温かい空気のように次第に和んできた。盤の石が多くなるに従って老人は寡黙になった。写楽も、いつかその世界にひきこまれていった。
どこかで話し声がしていた。それはさっきからしているのだが、小煩くはあるけれど、耳もとでする虻《あぶ》の翅音《はおと》のように気にとめなかった。
そのうち、鰕蔵《えびぞう》とか、勘弥《かんや》とか、八百蔵《やおぞう》とかいう名が聞えてきたので、写楽は相手が考えている間に、ちょっとその方を振り向いた。碁に飽いたとみえ、三人の男が向うの隅に集まって話していた。髷《まげ》を豆本多《まめほんだ》に結った男は両膝《りようひざ》を立てて手で抱えている。巻鬢《まきびん》の男はあぐらを掻《か》いている。五分下げの男は寝そべって片肘《かたひじ》を畳に突いている。写楽はそれをちらりと見ただけで眼をまた盤の上に戻した。去年の暮に桐座が「男山御江戸《おとこやまおえどの》磐石《いしずえ》」を演《だ》した。彼らはその評判をしているに違いなかった。
写楽はしばらく石のほうに気を奪われていた。すると、春好《しゆんこう》が、清長が、哥麿が、豊国が、という語が聞えた。芝居の噂《うわさ》は、いつの間にか芝居絵の話になったらしい。彼の気持はその声に移った。
「春好は、もう古臭いですな。ありゃもういけません」
一人の声がいった。
「へえ、古臭いですかな。あたしゃ、芝居絵らしい絵だと思いますが」
別な一人が柔らかく異を称《とな》えた。
「そりゃあ芝居絵らしいかもしれませんが」
と前の声がつづいた。
「そいじゃ、在来の鳥居《とりい》派と全く同じじゃありませんか。ご覧《ろう》じろ、春好の絵のどこに勝川《かつかわ》派らしい鋭い描き方がありますかね。ありふれた鳥居派の役者絵と区別がつきません。少し眼の高いものには、あの古い泥臭さは気に入りませんよ」
声の主はいかにも自分の眼が高いかのようにいった。
「そこへゆくと清長なんざ大した者です」
相手が沈黙したので、その声は高くなった。
「同じ鳥居派でも清長には工夫がありますよ。勝川派が細絵《ほそえ》ばかり描いているのに、清長は大判に役者を描いていますからね。これは趣向です。何といっても役者の顔は大判でないと味がありませんよ。それにあの顔の艶《つや》っぽさはどうです。たまりませんな。女子供に人気が出るのも道理ですよ。春好なんぞのように角ばった形ばかりの顔と趣が違います」
写楽は、そっとわき見をした。声の主はあぐらをかいた気障《きざ》な巻鬢の男である。が、もの識《し》りぶっているだけに云うことは一応筋が通っていた。実は写楽も内心では清長に惹《ひ》かれていたから、そこまでは耳に不快でなく聴くことが出来た。
老人が手を待っているのに気づき、写楽は少しあわてて指に石をつまみながら考えはじめた。しかし一度離れた心は容易に盤に戻ってこない。彼は苦労して二、三目を置いた。そうすると耳に入る声を気にしながらも、どうにか心がひき込まれてきた。彼はそれから五、六目を置いた。
すると突然、写楽という語が耳にとび込んできた。彼の神経は、びくりとなった。
「去年あたりから出た写楽というのは、どうですな?」
一人が訊《き》いている。高い声は、えたりとばかりそれにとびついた。
「写楽ですか」
こういって先《ま》ず鼻にかかった笑い声をたてた。
「あれは一体、役者絵を描いているつもりですかな。大首《おおくび》絵を主に描いているようですが、あれは春好の真似です。真似といえば、ほら、例の雲母摺《きらず》りでさ、本人は得意がっているつもりでしょうが、何も写楽の手柄じゃありません。哥麿が二年も前にやっていることですよ。あの男の趣向はそんな真似ばかりです」
盤を見詰めている写楽の耳に、巻鬢の声が容赦なく響いてきた。
「まあ、それもいいでしょう。才の無い者には他人《ひ と》の真似も仕方がありません。我慢出来ないのはあの顔ですよ。あたしゃあの男のかいた役者の顔を見ると気持が悪くて寝込みたくなりますよ、とんと猿か狐の顔ですな」
巻鬢は、あたかも写楽がそこに居るかのように毒づいてきた。
「なるほど役者の顔の癖を似せるのは結構です。その点は認めてやってもいいです」
彼は己れの見識を誇るように一応そういった。
「ですが、わざわざ醜悪に似せることはありませんよ。絵はやっぱり美しくなくてはいけません。それが絵です。ことに役者絵ですからな。悪く似せたらいいというもんじゃありませんや。あの男は絵の料簡《りようけん》をとり違えています。はじめから分らないのかも知れませんな」
写楽は辛抱して石を置いた。どこに打ったか分らなかった。老人が愕《おどろ》いて、どのような奇手かと考えに耽《ふけ》った。
「あの男の描いた鰕蔵の顔は、まるい眼をして、ぴくりと上った眉に皺をよせ、口の端をまげて猿《えて》公そっくりです。それも餌《えさ》を待っている奴でさ。瀬川富三郎は狐つきのような顔になっているし、佐野川市松のは笄《こうがい》、帽子の大鬘《おおかずら》を被《かぶ》った花魁《おいらん》の化物です。岩井半四郎はお酉《とり》さまの笹にぶら下ったお多福の面です。あれじゃ絵草紙屋に来た女の客が三日も瘧《おこり》を起して熱を出したというのは道理でさあね」
「なんですか、役者衆の方から板元の方へ捻《ね》じ込みがあるそうじゃありませんか」
これは寝そべって聞いている五分下げの男の声である。
「そりゃ当り前ですよ。あんなものを出されちゃ人気に障りますからな。いくら流行《は や》らない摺版絵だってあれじゃ黙って居られますまい。しかし文句を捻じ込むよりも先に写楽が絵を止《や》めるかもしれませんね」
「へえ、どうしてだね?」
「蔦重《つたじゆう》がひとりで肩を入れたところで売れなければ算盤《そろばん》が合いませんやね」
「写楽は能役者だそうだね。そうすると、また能役者に逆戻りということになりますかな」
「まあ、いまにそういうことになりましょうね。第一、能役者に絵が——」
写楽はそれ以上、巻鬢の甲高い毒舌を聞くことは無かった。女房が、客が来たからと彼を迎えにきたからである。写楽は相手の十徳の老人に詫《わ》びを云い、三人の男の方を見ないようにして畳から土間に下りた。