伊村は締切を明日に控えて、煙草を喫いながらぼんやりしている。前の原稿用紙は一字も書かないで置いてある。灰皿には半分喫った煙草が何本も溜《たま》っている。——そうだ、これに似た書き出しを伊村は以前に芥川龍之介の小説で読んだことがあった。眼の前の書棚にはその全集があるが、とり出すのが億劫《おつくう》で調べて見る気がしない。
たしか芥川の小説では、作者の頭に書くべき題材が無くて困っているように書いてあったが、伊村のは今年の初めから決っていて未《いま》だに纏《まと》まらないのである。「止利仏師《とりぶつし》」を書こうと思い立って一年に近い。その間に書く決心をつけながらいつも崩れて了《しま》う。何としても出来ない。然し、書くべき義理があるから、遂にぎりぎりの、それも締切日が明日という土壇場に追い詰められてしまった。
今夜は月食があるので子供が遅くまで外で騒いでいる。伊村もちょっと門まで出てみたが、なるほど月は皆既になっていて赤銅色をしている。月に斑点があるから、見ようによっては古い血が溜ったようだ。こういう現象を見ていると古代人の感じた神秘に心が通うようである。しかし、伊村はいつまでも空を仰いでいられないから、また机に戻って煙草を喫う。コップの水を飲む。落ちついて居られない証拠である。あと十分もしたら、締切日の朝になる。もう少し経つと、どうでもしてくれ、と図太い気持になるかも知れない。
それほど出来ないなら、早いうちに他の題材に変えたらよさそうなものだが、実は「止利仏師」に伊村は魅力を感じている。どう感じているかというと、止利の来歴の分らなさである。大ていの本は止利に就いて原稿用紙半枚分しか書いていない。それも「日本書紀」の引用である。この不詳のところが魅力であった。大いに想像力の働かせ甲斐《がい》があると思った。
しかるに、いかなる人物にすべきかという設定について迷った。二、三の考えが無いでもない。伊村は美術史家でも無く、美術評論家でもなく、歴史家でもないから、どんなことでも勝手に云えると思った。然し、彼の二、三の考えは、どうも止利の人物に遠そうである。勝手に書くといっても、誰でも止利仏師というものには漠然とした幻像《イリユージヨン》があろう。伊村はそれに臆して足踏みした。思いついた二、三の発想で書くと、われながら止利とは縁の無い人間が出来そうである。
そう考えるのは、伊村もやはり「歴史離れ」が出来ないためであろう。粗末ながら歴史に抱いた観念が、伊村の気儘《きまま》に書こうとする筆を抑えて了う。そりゃ違うじゃないかと自分から抗議するような「止利」が出来上りそうで怖気《おじけ》が出る。漠然と止利に抱いていた幻影は仔細《しさい》に考えれば、やはりこの歴史が混合していて、新しく小説にすれば他人のように無縁なものにかけ離れて了いそうである。さらばと云って忠実に止利を復原しようと思っても、六世紀ごろに仏像だけを残して本人の履歴は何にも遺さない人であるから性格の取りようがない。性格、人物が分らずに、名を聞くより、やがて面影推しはからるる心地するのは困りものである。いつまで経っても伊村の作品が纏まらないのは、彼の貧弱な才能だけではない。
だが、伊村が未練気にむずかしい止利を諦《あきら》めないのは、その未知に惹《ひ》かれているからであった。彼も小説を書こうと思い立っているくらいだから、その分らなさに意欲を感じているのだ。あまり知れ過ぎた人物では面白くない。止利の空漠としたところに野心を起したのだが、さて書こうとなると想像力が伸びない。しかし野心の方は相変らず潜んでいるから、思い立ってから一年近く、止利は纏綿《てんめん》として伊村から離れない。
伊村は飛鳥《あすか》の安居院《あんごいん》の丈六釈迦如来《しやかによらい》像を見たことがある。いたみがひどく、後の補修が著しいので、大ていの美術史家から冷視されている。しかし伊村にはこの方が興味深い。法隆寺の薬師如来像、釈迦三尊像はもとより立派に違いないが、安居院の釈迦如来像が何度となく火災に遇《あ》って補鋳され、ようやく僅かに原形をしのばせているところが面白いのである。安居院の大仏が止利を象徴させているように思える。
伊村はいま煙草をふかしながら、いつぞや安居院を訪ねて行ったことを思い出している。夏の暑い日で、岡寺《おかでら》の駅から歩いたのであるが、炎天の埃《ほこり》っぽい道が遠かった。道はやっと岡寺の山に突き当って北に折れる。南に行くと蘇我馬子《そがのうまこ》の桃源墓といわれる石舞台に出るのだ。切妻に白壁の民家のかたまった飛鳥村を抜けて田圃《たんぼ》の中の疎林に囲まれた安居院に着いた時は、ほっとした。礎石に腰をかけて汗を拭いていると、住持の奥さんが水を汲《く》んで持ってきてくれた。前の青田を渡って来る風が涼しかった。今でも稲の涯《はて》に民家の聚落《しゆうらく》がぽつんぽつんと見える寂しい所である。
この辺がいわゆる真神《まがみ》ヶ原である。「大口《おおくち》の真神の原に降る雪はいたくなふりそ家もあらなくに」(万葉集)とあるから上代からあまり変っていないようである。尤《もつと》もこれは奈良朝ごろで、五世紀の終りから六世紀にかけては、蘇我氏の本拠としてこの安居院の位置に法興寺《ほうこうじ》の堂塔が建ち、帰化人たちの部落が密集していたのであろう。法興寺は、衣縫造祖樹葉《きぬぬいのみやつこのおやこのは》という帰化人の邸を壊して建てたという。崇峻《すしゆん》巻によれば五八八年で、まずその頃が帰化人たちによって栄えたに違いない。
それ以前のこの土地はどうであろう。昔、明日香《あすか》の地に老狼《おいおおかみ》がいて土民がこれを大口神といったので大口真神原の地名がついたという。狼の出そうな荒涼とした場所が、帰化人の集団によって繁栄したのは、この土地一帯を所領していた蘇我氏の勢力が繁昌していたからに違いない。