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小説日本芸譚8-2

时间: 2019-05-22    进入日语论坛
核心提示:   2 蘇我氏が強大になったのは、帰化人の技術者を掌握して利用したからであろうといわれている。蘇我氏は諸方の屯倉《みや
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 蘇我氏が強大になったのは、帰化人の技術者を掌握して利用したからであろうといわれている。蘇我氏は諸方の屯倉《みやけ》の設置によって私利をあげて経済力を培った。屯倉は朝廷直轄のものだが、実質上、どれだけ朝廷の所有になったかは疑わしい。朝廷といっても、物部《もののべ》や大伴《おおとも》や蘇我氏らの豪族の集合勢力に載った弱体首長だから、屯倉の租税はどこまでが朝廷のものやら豪族のものやら、けじめがつくまい。財物の出納《すいとう》は史《ふひと》なる帰化人の手による以外、文字を知らない日本人には出来ないことだから、帰化人たちに人気のあった蘇我氏が強大になるのは無理もない。
 帰化人には史をはじめ、衣縫部、錦織部《にしごりべ》、金作部《かねつくりべ》、鞍作部《くらつくりべ》、陶部《すえつくりべ》、画部などの技術者群があったが、蘇我氏は彼らを利用するに巧妙であったらしい。これらの技術は日本に無いのだから、朝鮮半島から来た彼ら帰化人に頼るほかはなかった。その意味では、朝廷も大伴氏も物部氏もみな同じであった。ただ、これらは帰化人達を使役したが、蘇我氏ほどうまく懐柔は出来なかった。
 なぜ蘇我氏が帰化人に人気があったかというと、仏教信奉の問題にかかる。仏教が日本に伝来した時期はいつかとの疑問は解決出来ないが、日本書紀の欽明《きんめい》天皇十三年も、扶桑《ふそう》略記の継体《けいたい》天皇十六年もあてにならないとすると、大体五世紀の半ば以前が妥当だそうである。が、それは百済《くだら》から仏像や経典が貢献された公式の記録であるから、それよりずっと早く、多分、五世紀の初めに日本に来た帰化人たちによって仏教は信仰されていたに違いない。蘇我馬子が物部守屋《もりや》を聖徳太子等の連合軍によって滅したのは五八七年だから、殆ど一世紀近くかかって仏教は日本の民衆に弘まったのであろう。が、これは全部ではない。物部氏の主張を推す背後の民衆もあったからだ。が、何よりも考えなければならないのは、異国人である帰化人が第一番の熱心な仏教信者であったということだ。
 この帰化人の技術が朝廷や諸豪族の発展に寄与したことは分るが、それなら彼らはどういう待遇を与えられていたかということはよく分らない。伊村は「帰化人」に就いて書かれた或る本をよんで大いに教えられたが、この点になると充分に読みとれなかった。そこで、海の向うから勝手に渡って来た異国人であるから、失意の放浪者に近いであろうという気早な解釈をつけた。彼らは技術を豪族に買われはしたが、その身分や地位は大そう低く、豪族という支配階級の従属物であったと思う。六世紀の初めごろ、伽藍《がらん》造営のため呼んだ瓦博士《はかせ》、鑢盤《ろばん》博士、画工などの職人たちとは別な存在であった。
 従属物に意志はない。彼らは所有者の命令通り働いた。しかし、支配者が精神の世界にも通じるものであれば、従属物にも意志が開くであろう。精神の世界とはおかしな云い方だが、云いたいのは、仏教を排斥している物部、大伴氏よりも、擁護者である蘇我氏の方に帰化人たちが心を寄せたということである。同じように命令によって技術を提供しても、そこに消極性と積極性の相違があるに違いない。蘇我馬子が物部守屋を攻めて勝ったというのも、この帰化人たちの技術注入の気の入れ方から考えたら面白そうである。
 馬子は物部氏を滅亡させると、その支配下にあった帰化人を己れのものにした。これらは河内《かわち》平野に多く居た。いわゆる西史《かわちのふひと》と呼ばれるもので、無論、史ばかりではない。大和の方は東史《やまとのふひと》と呼んだ。生駒《いこま》山脈によって東西に岐《わか》れていても同じ帰化人であることに変りはない同族である。この同族間に婚姻さえあった。
 馬子は競争相手を仆《たお》し、帰化人達を更に多く合併し、配下につけて勢力を増大した。技術者群の増大が蘇我氏の繁栄の動力をなしたと思うが、そのことは俄《にわ》かに活発になった寺院建立にも云えるのではないか。彼らは蘇我馬子の下に大同団結してこの仏教事業に技術を傾けたと思う。それは命令された使役ではなく、奉仕であったろう。
 ここで、眼目の鞍作部のことになる。
 鞍作部の祖は司馬達等《しばたつと》で、彼は継体天皇十六年に大和高市《たかいち》郡坂田原に草堂を結び仏像を安置して礼拝したことになっているが、この記事は「扶桑略記」のいい加減なものらしい。その達等の子の多須奈《たすな》が同じ場所に用明天皇の冥福《めいふく》を祈るため寺を建て、丈六の仏像と挟持菩薩《きようじぼさつ》像を造ったというが、実物が遺っていないから何とも云うことが出来ない。しかし、これは鞍作部が多須奈の代でもう仏像を造ったということで参考になる。というのは、同じく用明天皇のために造仏された薬師如来像が法隆寺にあって、止利の作だという。尤も、この光背銘には止利の名は無く、近ごろでは光背は当時のものでないと否定する人がある。
 いずれにしても鞍作部が、本職の鞍を作る仕事だけでなく、止利の父の代から仏像を造ったということは考えられそうである。
 ところが、鞍作りの職人がどうして仏像を造るか。この疑問には誰もはっきり答えてくれない。多分、鞍作りは鋳金をするので、舶載されてきた百済の仏像を真似て造ったのであろうという想像で云ってくれる人が多い。どの美術史書にも、止利がどのような一系統からあの素晴らしい技術を学んだかということは一行も書いていない。
 当時の航海から考えて、朝鮮から大きな金銅仏を持って来られる筈は無いから、どうせ、もと法隆寺にあっていま御物《ぎよぶつ》になっている四十八体仏のような小像が渡ってきたのであろう。そんな小像を手本にして、飛鳥大仏や法隆寺の薬師如来、釈迦三尊、夢殿の観音を造った止利は驚嘆すべき技術者なのであろう。尤も、釈迦三尊像以外は作者銘が無いから、厳密には止利と限定出来ないかもしれないが、諸書が口を揃《そろ》えて「止利とみて差支えない」と云っているから、こう考えるのである。
 
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