伊村は「止利仏師」を構想しているときに、その人物の設定を次のように考えることがある。
当蒔の日本人は技術には無知であった。それで帰化人たちのそれに仰天したに違いなかった。自分たちの知らない技術を持っている者への驚嘆——それは明治初年に西洋技術者を迎えた時の民衆の感情に似通っていないか。啓蒙《けいもう》期の日本に乗り込んで来て美術の技法を日本人に教えた西洋人たち、ウォートルス、コンドル、ワーグマン、フォンタネージ、フェノロサ、ラグーザ——そんな名前が思い出される。そのうち、伊村は、ふと止利仏師をフェノロサにしたら、と思いついた。
どうしてそんなことを考えたかというと、フェノロサは最初日本に来たときの目ざましさにくらべ後期が甚だ寂寥《せきりよう》としている。彼は己れの手で開眼してやった日本の美術界に見捨てられ、弟子である岡倉天心に背かれて帰国している。成長した日本人の弟子たちは、もうフェノロサを必要としない位に充実したのである。この生涯を止利仏師に嵌《は》めようと考えついたのだ。止利そのものがさっぱり分らないから、小説を書く上に、誰かのイメージを藉《か》りなければならない。
止利がその技術を弟子達に教える。弟子の中には、すでに日本人もあろう。それらが技術を会得して更に発展させると、帰化人である止利はもう用は無くなる。飛鳥以後の仏像には止利形式は全く消失するのである。大体こんな具合に大まかに決めて、性格や細部の設定《シチユエーシヨン》を考えようと思った。
しかし、それから時日が経つにつれ、伊村は首を傾けた。
明治初期の外国人として帰化人技術者を見るのは面白いが、弟子の方の事情が少し違う。その頃の社会では職業的な特殊技能はその部族或いは血族のつながりといった者に限られてうけつがれていた。決して一般の民衆が習得するということではなかった。それが一般にひろまり、社会からも希望されたのは後代のことである。明治時代のように外国の先進技術に驚嘆して、日本人が技法を習いになだれを打ってきた事情とは随分違う。
それから、こうも考えた。
帰化人は技術こそ大したものだが、それは豪族に隷属していて身分は極めて低く、明治初期の特権的な地位の外国人技術者とは全く違うのだ。
こんな考えが湧《わ》いてきて、伊村はフェノロサをかりてくる着想を捨てた。
そのうちに、止利がどうして仏像を造る技術を覚えたかということが次第に心にかかってきた。師承関係が全く分らない。止利を主人公にして小説を書く上にこれは必要なことだ。しかるにどの書物にもその説明が無い。多須奈が坂田寺で丈六の仏像を造ったというから止利は父から技術を習ったのであろうか。しかし多須奈はどうしてそれを知っていたか。書紀にある司馬達等が坂田原の草堂で礼拝したという仏像は、百済から持って来たものと思われるから、彼が造仏技術を知っていたとは考えられない。少しは知識があったとしても、多須奈や止利に伝承させたほど充実したものではあるまい。この二人の造仏技術の由来が、殊に止利の技術についての経路の不明が伊村を当惑させた。
鞍作りの鋳金技術を造仏に直ちに通じさせるのは簡単であるが、それはどうも弱そうである。
敏達《びだつ》六年には百済王が律師、禅師と共に造仏工、造寺工を日本に送り、崇峻元年には、鑢盤工、瓦工、寺工、画工を送ってきたとあるから、多須奈も止利もこの新渡来の技術者から技法を習ったのであろうか。そして止利に至って、飛鳥大仏や法隆寺釈迦三尊像や薬師如来像のような一群のすぐれた作品を制作するまで技術が充実したのだろうか。崇峻元年が五八八年で、元享釈書《げんこうしやくしよ》の記載を信ずれば、法興寺が出来上ったのは推古《すいこ》十四年の六〇六年だから十八年の距離がある。止利がこの期間に習得した技術を完成したとすれば少しも不自然ではない。
新来の技術者が、造仏法を伝えるとすれば鋳金に携わっている鞍作部に伝授するのは当然である。こんなことで、伊村は一応納得しようとした。
ところで、新しく来た技術者が立派な仏像を造らずに、止利が造ったのは何故だろうか。日本にいる古い止利よりも、朝鮮の新しい技術を知っている新来者の方が腕がよいのは当り前である。止利の才能が新来の技術者を追い越していたのか。だが、これはおかしい。当時の仏像は原型の模倣である。止利様式の原型は云うまでもなく北魏《ほくぎ》であり、それから移入された高句麗《こうくり》であるが、止利はその雛型《ひながた》を真似たのであった。朝鮮には止利様式とそっくりな仏像が残っている。つまり止利は請来《しようらい》された見本を忠実に、それも恐らく一生懸命に努力して真似たのである。この点で、止利は芸術家ではなく、技能者であった。それなら造仏工といった新渡来の技術者の方がうまいに違いない。創造ではなく、模倣の技術だからである。
それとも止利の技術が——模倣的な才能が後から来た朝鮮技工たちを上廻っていたのだろうか。果して止利をそのような天才とすべきか。——
伊村はこんな設定にも心が重かった。止利のはっきりしたイメージは何一つとれなかった。机に向っても無駄に時日が経つばかりである。