美術史書は、止利がどうしてあの見事な技術を得たかよく分らないという。分らないのも道理で、止利の地位である「代表者」を個人と思い誤っているのだ。彼が率いた鞍作部の部族の中に、見事な技術が途中から混入してきて、鞍作部の職能的な実体が変質したことに気がつかない。
それから多くの美術史家は、法隆寺の釈迦三尊像を仰いで、止利の素晴らしさを見よと讃嘆する。
だが、釈迦三尊像は誰が造ったか分らないのである。鞍作部に附属した名も無い新来の工人たちの手に成ったのだ。造仏の銘は集団の支配者であり、その制作の技術には直接携わらなかった首《おびと》の止利が名をとどめる仕儀となった。銘の無い薬師如来、法興寺の釈迦如来、夢殿の観世音菩薩などの諸仏の像は無論のことである。止利個人はそこには居ない。
伊村は、ようやくここまで考えてきて、初めて止利とその作品の関係が分ったような気がした。
すると、止利は全く存在しなかったことになる。在るのは、ただ職能集団の名義人としてだけである。或いは、蘇我氏に近接した勢力ある部《べ》の首長だけである。この帰化人の首長たちが、どんなに蘇我氏に忠実であったかは、大化改新の際、蘇我氏追討軍に反抗しようとしたことでも分るのである。蘇我入鹿がどういう訳で鞍作の姓を名乗ったかよく分らないが、とにかく密接な関係にあったのであろう。蘇我氏滅亡後、鞍作部が史上から名前を消していることは、一層その感じを強くする。
止利はこのように蘇我氏の下で勢力をもっていた。では、彼がなぜ官僚的な権力に伸びなかったか。他の帰化人の或るもののように、その後の律令《りつりよう》制度の貴族に出世する素地がなかったか。それは要するに鞍作部の職能が金工に携わっている職人的な技術の性質に理由がある。技術家というものは、重宝がられる代りに、政治的な権力には出世出来ないという宿命がある。
さて、法隆寺釈迦三尊像をはじめ、止利仏師作といわれる一群の推古仏像は、止利個人の芸術とは何の関係も無いことが分った。止利の素晴らしさを見よと云われたって、見ようがない。
こうなると、伊村の眼から止利仏師はいよいよ消えてしまって、当時の進んだ技術の輩下を握っていた職人のただの親方になってしまった。——
ここまで考えてきたとき、閉め切った雨戸の隙間から、外の薄い光が見えてきた。夜が明けてしまったのだ。
伊村は伸びをして牛乳をとりに行った。小説「止利仏師」はとうとう出来なかった。