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小説日本芸譚8-6

时间: 2019-05-22    进入日语论坛
核心提示:  後記 昭和三十一年の秋の夜、新潮社のS氏が来て、「藝術新潮」に一年間、日本の古い美術家たちを小説風に書いてみては、と
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  後記
 
 
 昭和三十一年の秋の夜、新潮社のS氏が来て、「藝術新潮」に一年間、日本の古い美術家たちを小説風に書いてみては、とすすめた。過去の人間を書くのは私は好きである。私は歴史小説を書くようなつもりで引き受けた。今から思うと、めくら蛇の感じがする。もし私が日本美術史に精通していたら、怖気《おじけ》を震ってお断わりしたに違いない。
 連載は三十二年の新年号からはじまったが、それからの一年間は苦渋の連続であった。予定の締切に問に合ったことがない。大半はその芸術家の調査に時間がつぶされた。調べてみて、大体の輪郭は分っても、その人物のイメージがとれない。芸術家は存在しても、人間の所在が分らないのである。当人が芸術に被光されて、見えなくなっているのだ。芸術が人間の上にハレーションを起している。
 私は評伝めいたものを書くのではないから、資料として知りたいのは、その人物であった。美術史はその芸術を書き、評伝は年譜式に作品紹介をしている。ここから人間の手がかりを得ることは少々困難であった。その芸術を通じて人間を追究するという方法は観念的すぎて、私には役に立たなかった。
 従って、ここに収めた主題の美術家たちは、私なりの勝手な解釈の人間である。私は彼らを復原しようと試みたのではない。それは小説の機能ではないし、不可能である。ただ、私の頭の中に出来上った人物を書いたというだけである。だから、これは一つの歴史小説としてうけ取って頂きたいのである。
 このような小説を書いた私の気持の一つは、それぞれの人物が、過去に遠い距離をもっているため、その経歴がよく分らぬところにもあった。止利仏師はあまりに模糊《もこ》として伝説的だが、運慶にしても雪舟にしても曖昧《あいまい》である。私が江戸時代でも、又兵衛と写楽だけにしたのはこの理由からである。未知の部分に私の魅力があった。人は、或いは、その抱いている芸術上の幻像と、私の書いた人間像とが違い過ぎると云うかもしれない。その非難は止《や》むを得ない。再度云うが、私は彼らを《復原》しようとしたのではないのである。
 ただ、それらの芸術については、なるべく誤りのない見方をするよう努めた。そのために読んだ諸書の外には、出来るだけ専門学者を訪ねて意見をきいた。特に桑田忠親、久野健、谷信一、秋山光和、藤間生大、山脇洋二、上野直昭氏等の高教に対してこの機会にお礼を申上げたい。ただ人間解釈については私の独り合点である。以上の諸氏にご迷惑をかけないために附記しておく。
 尚、この一連の拙作がともかく書き続けられたのは「藝術新潮」編集部の激励によることが大きかった。
                                                             松 本 清 張 
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