戌《いぬ》の刻(午後八時)を半刻近く廻っていたろうか。染田屋の太夫尾崎を揚げようとして身許の露見した船乞食の預けられているという自身番所に、井吹重平は立ち寄ってみた。立ち寄ったというより、目的はそこにあったが、番屋爺の唯助は頭を振ってそこにもう船乞食のいないことを告げた。一昨日の夜、連行されてはきたが、およそ一刻も経たぬうちに、連れ去られたというのだ。
「何処に連れて行かれたか、わからんとね」
「そりゃ大方、溜り場でっしょ。乙名《おとな》さん(町役人の代表)や組頭のきて連れて行きなはったとですよ」
「溜り場か……」井吹重平はいった。「戸町の船乞食ちゅう話やが、名前は知らんやろうな」
「確か、又次とかいいよりましたよ。……戸町だけじゃのうして、大浦辺りでも稼《かせ》ぎよったという話ですたい」
「又次ね。……三年も日銭を貯めるのはきつかぞ。染田屋の尾崎にはよっぽど惚《ほ》れとったらしいな」
「尾崎じゃのうしてもかまわんという話だったらしかとですよ。最初は……」
「尾崎に限らんというのはどういうわけね」
「いやあ、あたしもひとからきいた話だけんようとは知らんが、あの又次という船乞食は部屋に入るとすぐ、ああこれで念願かのうた、蘭水で太夫をあげて遊ぶことができれば本望とか、そんげんことをいうたそうです」
「太夫というのが尾崎のことじゃろう」
「いや、尾崎というのは後からでてきた名前じゃなかとですか。とにかく又次は蘭水楼で太夫をあげるのが本望で、太夫なら誰でもよかったとでしょ。尾崎さんになったのは、遣手の方でそれなら尾崎さんに頼んで貰いましょということじゃなかとやろか」
「尾崎を名差しできたと、おいはそんなふうにきいとるよ」
「名差しかどうかはわからんと。それでも遣手が尾崎というたら、船乞食はほんなことうれしかふうだったらしか。そいけん尾崎さんの名前も顔も見覚えがあったとでっしょ。なにせ、絵踏み衣裳《いしよう》を着た丸山の女をみて念願を立てたというとだけん、何年越しの思いになろうかね」
「絵踏み衣裳というたら、もう六、七年の前やろう」
「へえ、絵踏みがのうなったとは、安政の午年《うまどし》だったけんね。宗旨改めはその年から確か絵踏み抜きになったとだから。絵踏み衣裳を見たというならそれより前ということになるたい」
「そうだったかな」井吹重平はいった。「絵踏み衣裳を見て念願を立てたちゅうとは、又次がそういうたとね」
「又次がいうたとでっしょ。あたしは組頭さんの話しなさっとるのをきいたとばってん、本人がいいもせんことを、ほかのもんが知っとるはずもなかですけんね」
「どっちみち哀れな話たいな」
「哀れといいなはるとですか」
唯助はちらっと表情を動かして彼を見た。行灯《あんどん》の薄い明かりに照らされて浅黒い顔は一層隈取《くまど》って映る。
「ああたがいわれたけんいうとばってん、あたしも哀れな話だと思うとります。たったひと晩本望遂げることば思いにして何年がかりで銭作ってきたというとに、笑い者にしてよかとでっしょか。あたしはそうは思わん、たとえ船乞食ちゅうことが知れとっても、見ぬ振りをするというとが花街の人情というものじゃなかとね。……丸山にはさばけしや(融通の利く人)のいっぱいおんなさるごたるが、なんのさばけしやなもんか。又次の一件じゃみんな地金まるだし。ただの錆《さび》くれ釜《がま》ですたい。あたしゃそう思うとります」
彼が頷《うなず》くと、番屋爺はつもった口調でなおもつづけた。
「船乞食というても、身なりをしゃんとすればおなじ人間じゃなかとですか。……もし船乞食がいかんとなら、稲佐のマタロス休息所にくるロシヤ人はどうなるとか、あたしゃそれをききたかとよ。……」
身なりをしゃんとせずとも人間は人間ぞ。しかし井吹重平はそれを口にせず、又次を哀れむあまり突然筋道の通らぬ理屈をひろげる唯助のいい分をきいた。
「マタロス休息所にくるロシヤ人を相手にしてよかとなら、どうして船乞食がいかんとね。それもひゃぁはち相手の居続けをやらかそうというとじゃなか。ちゃんとした太夫を相手に一夜限り、持っとる金を全部注ぎ込んで遊ぼうというとに、何で叩きださにゃいかんとか。さばけしやとは名ばかり、よかけん、精一杯本望を遂げろというもんはおらんやったとか、あたしはそれが口惜《く や》しかとよ」
「さばけしやはおるさ」
「おるもんか、丸山にはおらんよ」
「目の前におるたい」井吹重平はいった。「ぬしがさばけしやたい。そうじゃろが、ぬしにそがんふうに思わせただけでも又次のやったこつには錘《おもり》がこもる。……まあ見とりんしゃい、今時蘭水で懐全部の銭投げだして、太夫を呼べなんちゅうたりするとは並の人間にできることじゃなか。そりゃただの船乞食じゃなかぞ、おいはそう睨《にら》んどる。……」
唯助はこういわれて、小鬢《こびん》の辺りを指で掻《か》いた。
「さばけしやになるとはなかなか難しかとよ。誰でもみんな自分のことをさばけしやと思うとるが、肝心要《かなめ》の時になると、ぬしがいうたように、地金がでてしまう」彼はいった。
「それにしても惜しかことしたな。その又次とかいうひとに会いたかったとばってん……どんげん顔ばしとったね」
「そりゃもう、カピタン(船長)のごたる顔ばしとったとですよ。南蛮船か八幡《ばはん》船かしらんが、とにかくそんげん顔ばしとった。番所に引っぱられても、しおれた顔ひとつするじゃなし、ぐっと顎あげて、何ちゅうてもこりゃカピタンのごたるなと、そう思うとりました」
「年は」
「さあ、もう四十は過ぎとりましたか。ああたよりはもちっと老けとったかもしれまっせん」
「こりゃいっぱつやられたな」
「そがん気持ちでいうたとじゃなかとですよ。ああたはまだ若うあんなさるけん」
「お世辞ばいわれるようになっちゃお仕舞いたい、おいも。……」
「すみまっせん、つい口からでてしもうて」
大口を開けて笑い合う、番屋爺の手に酒手を握らせて、井吹重平は自身番所をでた。片手町筋の方からかなりの急ぎ足でやってきた侍がひとり、胡散《うさん》臭そうな視線を彼に投ずると、きこえよがしの舌打ちをして行き違った。
船乞食の名は又次。絵踏み衣裳の遊女を見染めて念願を立てたという筋書きは少し出来過ぎるような気もしたが、忽《たちま》ちそのような話が仕立てられたところからみても、かなりの衝撃を誰彼が受けているのだ。
安政三丙辰《へいしん》年(一八五六年)五月、彼は長崎にでてきたのだが、翌年一月初めに目撃した絵踏みこそ、始めの終わりであった。番屋爺のいう通り、その年極月二十五日、長崎奉行所は新年度よりの宗門改めを、絵踏み抜きだとするふれを廻したのである。
評判にきいていた丸山遊女の絵踏みを、井吹重平は丸山の後方にある梅園天満宮の境内で見た。その日のために特に念入りな化粧をし、装いを凝らした遊女たちの白い右足が、マリヤの絵像を彫った金属牌《はい》を踏むたびに、見物衆の間から溜息に似た声があがり、裾模様の趣向と裏地の綾《あや》なす色彩の鮮やかさに、もう一度歓声を重ねた。
馴染《なじ》みの旦那が、負けじと贅《ぜい》をつくした衣裳を、夫々《それぞれ》の太夫や店女郎が此処《こ こ》ぞとばかり翻すのである。
「筑後屋吉兵衛抱え、雲井」
町役人が源氏名を読むと、呼ばれた遊女は立ち上がって地面におかれた絵像に向かう。するともう素足の艶《なま》めかしさを期待する見物人たちの囁《ささや》きは一瞬跡絶《とだ》え、つづいてほうっという熱い吐息が洩れるのだ。
新春の草花をさりげなくあしらう、そのさりげなさに意気が生まれ、かえって遊女の洗練された趣向を窺えるかと思えば、大胆に阿蘭陀《オランダ》船を模様としたビロウド地の黒々とした滑らかさに引き立つ太夫の美貌。絵踏みはすでに、禁制の宗門を改めるために行われるのではなく、丸山の遊女を最も美しく飾るための行事と化していた。
「次、同じく筑後屋吉兵衛抱え、小式部」
町役人の声が上がった途端、井吹重平は右脇から押されてよろめいた。後方の人々が、目差す太夫をより近く眺めようとして体を割り込ませたのだ。
「まばいかごつきれかぞ(目の眩《くら》むほど美しいぞ)、こりゃ」
「きれか、きれか。……おい、押すな」
「へえ、あいが小式部か。ちょっと異人さんのごたる顔ばしとるじゃなかね。あいの子じゃなかとか」
「あいの子が太夫になるっか。でまかせいいよって」
「黙って見とれ、ほら。今からいちばんよかとこぞ」
「押すな、だい(誰)が押しよっとか」
「ふるいつきたかごたるね」
「ふるいつけばよかじゃなかか」
「ふるいつかせてくるるならね」
「黙って見とれというとるとに」
絵踏みを見て願を立てたという番屋爺の筋書きに多少眉唾なところがあるにしても、あり得ない話ではない。染田屋の尾崎を名差したのではないところに多少の弱さは絡まるが、三年がかりに尾崎を揚げようとしたという噂は早くもひろまりつつあるのだ。
ふたたび門屋に引き返すか、それともいっそ蘭水楼に行き、尾崎を呼んで又次の恋情を肴《さかな》に葡萄酒としゃれるか。井吹重平は自分の思いつきにまかせるような足どりで、下駄を鳴らした。
この時刻に、まさか尾崎の体があいているはずもなく、たとえ先約がなくとも今夜応ずる見込みもないと考えながら、溜り場につながれたという船乞食の一件からどうしても離れられないのである。とにかくちゃけなしじゃ踏ん切りもつかぬ。
彼は大崎神社の方角に戻って、わざと馴染みのない居酒屋に入った。なるべく客のたて込んでいる店を探して。店構えにしては若過ぎるような主人は、怪訝《けげん》な面持ちを素早く隠すと、わざわざ客を入れ替えて落ち着く場所に席を作った。
「すまんな」
「お客さんの顔は、何べんか見たことのあるとですよ」主人はいった。「製鉄所のえらか人かなあと思うとりました」
「見込み違いでわるかったね」
「失礼なことばいうてしもうて。……何でも珍しかもんを見ればすぐちょっかいばだしとうなる性分ですたい」
「珍しかもんか……」
「ありゃまたいわんでよかことをいうてしもうた」
そんなやりとりが流儀のお世辞らしく、主人が去ると入れ替わりに小綺麗《こぎれい》な女が銚子《ちようし》を運んできて酌をした。すると近辺にいた客のひとりが中指を唇にあてて、奇妙に音程のついた口笛を吹いた。
あわびの酢とねぎぬたを肴に井吹重平は酒を飲みはじめた。店の客は殆ど常連らしく、他愛もない無駄口のかわされるなかで、彼がきき耳を立てたいと思う噂はなかなか話題にならなかった。船乞食のふの字もでてこないのである。
「黒革縅《くろかわおどし》とはまた、よういうたもんたいね。雨もよう降っとらんとにわざと合羽着て揚げ代取りに攻めたてられよったら、近所近辺見っとものうして、暮れまで待ちんしゃいなんてよういわれんとよ。ありゃほんなこつ考えた取り立ての道具ばい」
「油屋のきん婆あか」
「婆あでもなかとよ、あれで。寺町の坊主をちゃんとくわえ込んどるというとだから」
「蓮生寺の生臭じゃろう。知っとるよ」
「ほら、おんたち(俺達)が去年泳ぎに行ったろう。あん時の帰りに会うたじゃなかね」
「誰と会うたとか」
「油屋の遣手婆あがしな作って蓮生寺の坊主と歩いとったじゃなかか。覚えとらんかな。おんたちを見とるくせに見んふりしてすうっと消えてしまいよった」
「覚えとらんな」
「ともかく、きん婆あの黒革縅は堂にはまっとるとぞ。カルメイラ(砂糖菓子)抱えて、盆の十四日に差しだされたらほんなこつ逃げようはなかとよ。おやじの方がたまげて、乙名さんでも迎えたごたる言葉遣いしよるとやからこりゃもうどうにもならんと」
「猫なで声だして、ほんなこつ合羽着た猫たいね。油屋のお使いでまいったとです。ようあげん声ばだせるたい」
「油屋の遣手もひどかが、津ノ国屋もちょいとしたもんぞ。わざと雨の日を選んでくるとだから。黒革縅どころか、赤革縅たいね。金平糖さげて鯛《たい》釣りにきよる」
「瓢箪《ひようたん》のついた傘でも差して一丁出迎えにゃいかんな」
「千成瓢箪でいざいざ見参か。汝《なんじ》の黒合羽は油屋のおきんと見覚えたり。敵に背を見せるは卑怯《ひきよう》なれども、今は合戦の機にあらず、年の瀬にても相まみえん。……」
蘭水楼で起きた先夜の一件に興味はないのか。それともまつわる話は最早《もはや》でつくしてしまったのだろうか。主人からだといって女の運んできたからすみに井吹重平が礼を返していると、見るからに留学生然とした若い侍が二人、のれんをくぐってきた。
恐らく英語所か医学所の伝習生であろう。注がれる視線を意識した態度で、酒肴《しゆこう》を注文すると、ひとりは手拭いをだしてしきりに首筋を拭いた。まだ長崎にきて間もないのだ。風態《ふうてい》からみると薩摩《さつま》や長州ではなく、幕府方旗本の次・三男辺りか。
大浦という言葉がでてきたので、耳をそばだてたが、船乞食ではなく惣嫁《そうか》(碇泊《ていはく》する船で売色する女)の話らしい。やりとりするのは職人風の三人連れである。
「……そりゃもう蚤《のみ》といっちょん変わらんごたるというとらした。頭隠して尻隠さずというとはこのこつで、手入れだと知ってひゃぁはちというひゃぁはちが艫綱《ともづな》やら帆蔭《かげ》の間にぱっと一斉に潜り込んだらしか。ところが尻は丸見え、荷物棚の脇から赤か蹴出《けだ》しののぞいとるちゅうふうで、役人の手前笑うわけにもいかんし、見んごと見んごとと思うてずっとうつむいとったげな」
「尻ひっぱいでというとはこのことたい」
「なかにはおもしろか役人のおって、その辺においてある釣り竿《ざお》か何かの先でちょんと突つくとげな。そしたらぴくっと尻をひっこめはするが、身動きできんような場所に隠れとるから、結局どうにもならずに、けつばかりぴくぴくさせとるちゅうて、そりゃもうあんげん腹抱えるこつはなからしか」
「誰の話ね、そりゃ」
「よう親方のところにくる船頭たい。知らんかな、天草通いの三栄丸」
「きいたこつなかな」
「荷物廻船《かいせん》じゃけんね」
「戸町浦のひゃぁはち大工か」
「かんな屑《くず》、かんな屑……」
自分たちだけに共通する話題らしく、三人はそこで声を立てて笑った。
二合はたっぷり入る徳利を殆ど空にしかけていたが、井吹重平の気分はなぜか落ち着かない。額を寄せるようにして語りあう留学生たちの声はそこまで届かず、かなり気を遣っているらしい主人の眼とふたたびぶつかった。
「代わりを貰おうかな」
「へい、お銚子のお代わり」主人は応じた。
蘭水に剽軽《ひようげ》た客の上がったそうたいね。彼は口まででかかった言葉を抑えた。話をかわすには少し離れ過ぎていたし、大勢の中でそれを切りだすのが少し億劫《おつくう》にも思えたのだ。
「お客さん、蘭水楼の話はきいとんなさるでしょう」
彼の心を見すかしたように主人が声をかけてきた。
「又次のことならきいとるよ」
「あれっ、お客さん詳しかとですね。又次というとですか、太夫にくろか墨をなすくりつけようとしたとっぽ烏賊《い か》は」
「誰もなすくりつけようとはしとらんやろう。ちゃんと遊ぶ金は持ってきとるとだけん」
「そいでも……」主人はいいかけて、彼の口調に気付いたのか、言葉の方向を転じた。「何ちゅうても胆の太かこつをやったもんですたい、身なりさえ変えて行けば、それで通るとでも思うとったとでっしょか」
「蘭水に上がっちゃいかんという法もなかやろう」井吹重平はいった。船乞食が、と前におきたかったが、それではきつくなりそうな気がしたのだ。
それっきり黙ってしまった客の機嫌をとるように主人はひとりで合点した。
「又次とはまた、らしか名前を持っとるもんたいね」