太鼓持ちの巳之助《みのすけ》が手妻を上手に操れば操るほど、染田屋の遊女くら橋の胸は重く沈んだ。元々大坂下りの旅芸子一座に付き従ってきた幇間《ほうかん》の巳之助は、先年、娘のえつともども長崎寄合町の人別に加わることを許された芸達者な男であったが、器用にこなす長崎弁の抑揚さえも、心のそこにない女にとっては、わずらわしかったのである。
今宵の客は三人、堺からきた商人と手代を網屋友太郎が招待した席であった。大砲や鉄砲を売っとらすとげな、という噂や、ほんとは幕府の商いをつかさどっとる人などとまことしやかな話がささやかれていたが、網屋友太郎の素姓については、その実染田屋の主人でさえも知らなかったのだ。半年程前から突然蘭水楼にあがり始め、盆暮れではなく時々に精算する払いのよさで、今では上客のひとりとなっていた。
「さあ今度はオランダはフランス渡りの奇妙奇天烈《きてれつ》玉手箱っていう手妻。はい、あんじょう見といて下はりませ。蓋を取りまして中を改めます。はい、よかですか、中はすっからかん。何にも入っとりませんよ。さてこれからが大事件、これまで天下様でもご覧になったことがないという、からくり。……」
巳之助は五寸真四角箱の木箱の上蓋を抜くと、空の中身を皆の前にさらして見せた。
「さて、勿体《もつたい》なくもここで尾崎太夫へお願い言上。お櫛《くし》を一枚、どうかお下げ渡し下さいませ。……いえいえ、そう申しましても手前が着服する所存ではありません。いや、これは見事な亀の甲。剥《は》ぎ取られる時はさぞや痛かったでありんしょう。……何度も恩を着せるようで申し訳なかとですが、江戸の大奥でもおためしになったことがないという、さらもん、さらわり(水揚げ)の芸でありんすよ。……はい、太夫が肌身離さぬ秘蔵のお櫛をこの玉手箱の中に投じます。はい、間違っても傷つけたりせんように、そっとそっと、殿方がどこぞにお触りになるようにお入れ致します。はい、見事に納まりました。そこで両手で抑えます。あらそがんこつしなさると恥ずかしかとですよ。……」
太鼓持ちは尾崎太夫から借り受けた鼈甲《べつこう》の櫛を鄙猥《ひわい》な手つきで木箱に納めると、上蓋を横から差し込んだ。三味線を膝においた芸子が二人、調子を合わせるように、しのび笑いを洩らし、巳之助は軽く咳《せき》払いをした。
「はい、ただ今お入れ致しました見事な一物がどのような次第に相成りますか。へびがでるかじゃがでるか。それとも高啼《な》きのよがり声か。……はい、此処は特別、オランダ・フランス語で気合をかけます。ワンとチイとトリー。……」
太鼓持ちは恐る恐るという風情で、木箱の蓋を抜くと、中から鎖のついた黄金色の十字架を取りだした。そして、わざとらしく大仰に驚く真似をしてみせた。
「これはこれは何としたことか。尾崎太夫の秘蔵の一品が、天下のご禁制品に化けてしもうた。これはならぬ。これはならぬぞ。……あろうことか、切支丹伴天連の抜きさしならぬ証拠をひろげてしもうた。ああ、すべては手遅れ、取り返しのつかん事件を引き起こした。ああ、さらわりの芸とは何とふとかごつ犠牲を払わんならんものか。……」
巳之助は片方の手でつかんだ鎖を振ると、行灯の明かりを映してクルスはきらきら光った。
「きれか」芸子が声を上げた。
「そげんこついうたら召し捕られるよ」
太鼓持ちはそれを枕にして、さらに口上を続けた。
「さて、みなみなさま。これではわたしめが疑われます。こんげんおとろしかものをだしよったら、ひょっとしたら巳之助は幇間を隠れみのにした伴天連じゃなかとやろうか。万一噂でも立ちよったらそれこそ西山の刑場行き、磔《はりつけ》にでもなりかねまっせん。そこでもう一度、ひとつはこの身の潔白をあかすために、ふたたびこれをこうして仕舞い込みます。……」
巳之助は鎖を巻きつかせた十字架を木箱に入れると忍者まがいの手つきで二本の指を眉間《みけん》にあてた。今度は恐らくクルスが消えて、鼈甲櫛があらわれるのであろう。くら橋はそう思ったが予測は外れた。十字架は確かに失せたが、なんと櫛と一緒に一両小判がでてきたのだ。
やんやの喝采《かつさい》のなかで、巳之助が櫛の上に小判を重ね、おしいただくようにしながら尾崎に渡すと、太夫は櫛だけを髪にさして小判はそのまま掌の上に残した。
「旦那さまにお礼をいいんしゃい。さらもんの手妻を見せてもろうたお祝儀たいね」
「いえいえ、これは尊いお櫛の拝借料でございますよ」
「太夫からの祝儀だ、とっておけ」
網屋友太郎が口を添えると、巳之助は平伏するような恰好をして、小判を額に押しつけたまま、自分の席に戻った。
「珍しい手妻ですね。初めてみましたよ」堺の商人はいった。「オランダというたが、ほんまにそうですか」
「はいはい、オランダはフランス渡り。ほんまにほんまの玉手箱ですと」
「何処から手に入れなさった」
「よくぞきいてくんなました。これにはふかーい事情の絡まっとっとですよ」巳之助は早くも次の芸を始めていた。「いうてよかかどうか迷いますばってん、お大尽の勿体なかお言葉に、矢張りそむくわけにもいきまっせんし、ああ、胸の裂けるごと苦しか」
「話すな、話すな。そんなに苦しいものをきいてはよくない」と、網屋友太郎。
「いえいえ、もう手遅れですたい。でかかった言葉を引っ込めるのはなお苦しかとです」
皆の笑いに合わせる気もなく、くら橋は興に乗った顔を作らねばならなかった。巳之助のわざとまぜこぜにした長崎弁はつづく。
「申すもはばかる物語ですが、この巳之助にはいいかわしたるアンニョ(唐人の遊女に対する呼称)がおったとです。……太夫やくら橋さんには及びもつきませんが、それはもうあたし好みのすんなりした気持ちの優しかおなごでした。おや、何を笑うておいでるとですか。このおなごのためなら身代もいらん、名誉もいらん、丸山に骨を埋めてもよかと決心して、人別帳まで移したとですよ。……あたしは身を粉にして働いて、かなわぬまでも身請銀をこしらえようと覚悟だけはしとりました。
ところがあなた、美人薄命とはよういうたもんです。末は夫婦の誓紙もあらばこそ、心の臓の病でぽっくりあの世行きとは情けなかじゃありまっせんか。医者にかかった時は最早手遅れ、唐人から譲り受けて貰うた高貴薬を十日分も飲まんうちに果ててしもうたとです。
虫が知らせたのか、亡くなる三日前の晩、おなごがあたしの手をとっていうことには、うちの命ももう長くはない、いやいや慰めては下さるな。ぬしさんの気持ちはわかり過ぎるほどわかれども、今となってはせんかたなし。そこで取りいだしたるのがこの木箱。……これを形見に差し上げるゆえ、これからはうちと思うて、いちばん大事なものを納めておくんなまし。
そうかわかった。これから先はお前と思うて大事にしよう。……ああよかった、これでここにある荷がおりました、とおなごは手を取って胸にあてる。互いに見かわす目と目に光るひと筋の、哀れも深きいまわの情け。おなごはさらに喘《あえ》ぐ息の下からその由来を……で、でん、でんでん。
今を去る六十年の昔、出島の蘭館《らんかん》にヘルマアス・レッケというオランダのドクトルがおられたとです。ドクトル・レッケは勝山というたよしと好いた仲になんなさって、間にやや児までできたそうな。確かおれんという名前のつけられたとよ。この箱はそのおれんさんの持ち物だったと。それがどんげんしてうちの手に渡ったか、このわけは堪忍してくださりませ。……思わず寄する頬ずりの、おなごは耐え切れずがばと打ち伏し、背にあてた男の指先に伝わるあやしき顫《ふる》え。……ででん、でんでん、でんでん」
「おれんさんを生んだたよしの話はきいたことがあっとよ」尾崎はいった。「すらごとと思うとったら、ほんなことの話やったとたいね」
「こりゃひどかこつをいわれた」巳之助は声をあげた。「人からはいくらとんぴんかん(剽軽者)といわれても、太夫にだけは信じられとると思い込んで、ただそれを頼りに今日まで心の支えとしてきたものを、あまりといえば情けないお言葉。とほ、とほ、とほほほ……」
「そいでも巳之助さんにそんげんたよしのおんなさったことは知らんやった」年かさの芸子が口をだした。「そんげんきれかひとだったとなら、さぞや名の通ったたよしさんじゃったとやろね」
「それは秘密。いわれんと」
「いわれんことはなかとでしょ。形見まで貰うとるたよしさんのことを、なんで隠しなはっとですか」
「こればかりは口が裂けても……どうぞ堪忍してくだはりませ」
「怪しか、怪しか」尾崎は囃《はや》し立てるような口調でいった。「名前をいえんというのは矢張りすらごと。巳之助さん、それでも隠そうといいなさるとね」
「ああ、これは進退きわまった。秘密を守ればすらごとといわれ、さりとて名前をあかすわけにもいかず……こりゃどう仕様もないわいなあ」
「怪しか怪しか。ほんなこつをいうと、いま誰にしようかと、考えとらすとよ」よね、という名前の若い芸子がいう。「さあ誰にしようか、誰にしようか」
「この頃のおなごしは激しかことをいわす」太鼓持ちはいった。「旦那様、どうぞお助け下さい。何かよか思案はなかとでしょうか。伴天連の秘密が絡まっとるけん、いいとうてもいえんとですよ」
「心の臓の病で死んだというのなら、調べさえすれば忽ちわかるはずだな」網屋友太郎はいった。「何年に死んだのかしれんが、年寄りにでもきけば、名前なんか簡単にでてくるだろうさ」
「これはよか盗賊方のでてきなはった」尾崎は手を叩いた。「巳之助さん、きりきり白状しなはらんと、旦那さまのいわれる通り、調べて貰うてからじゃ、穴埋めの刑を受くるとですよ」
「穴埋めの刑か。どういう仕置きかしらんが、都合によっちゃ身替わりにでもなりとうおますな」
「知らんのやからそんなことをいう」堺の商人が手代の言葉を引き取った。「丸山の穴埋めは、とてもとても、松島なんぞとは違うんや。なあ、太夫はん」
「何の話かわかりませんと」尾崎は答えた。「あんまり意味の深うすぎて、旦那さまたちのいわるることはこちらによう通じんとです」
「ほれみろ、お前が助平なこというからや。太夫さんのご機嫌損じてしもうたわ」
「これはまあ、気のつかんことをいうてしもうて、堪忍して下さいませ」
「とんだところに話がそれたようですな」網屋友太郎は太鼓持ちの方を見た。「さて、白州は巳之助が誓約をかわしたという女の名前だったな」
「お白州へ引き立てられちゃもうお仕舞いだ。覚悟はできておりやすぜ」
「白状せい」
「お奉行様、これには深い事情が絡まっておるのでございます。へい……いまからそのわけを……きいて下さいましな」
「その手には乗らんぞ。まず女の名前だ」
「あまりといえば短兵急な……」
くら橋は厠に立つ風をして席を外した。頃合いからいっても目立ち過ぎたが、気持ちの上でひと呼吸入れなければ、どうにも辛抱できなかったのである。彼女の胸につかえているものは、ひとつに男の足がばったり遠のいたことであり、それに今日の昼下がり、染田屋主人から持ち出された稲佐の魯西亜《ロ シ ヤ》士官止宿所行きの件であった。そしてそれは互いに連関してもいた。
椛島《かばしま》町の廻船問屋増屋の番頭七十郎とくら橋の仲は、客と遊女の関係をとうに越えていた。すでに四十を越えた七十郎には永年連れ添った女房と娘がいて、身請銀はおろか染田屋に通うことさえままならなかったが、奉公の年季があき次第、男につくす身の振り方を考えてもいた。
ここに突然女房の死。他人の不幸をよろこべるはずもないが、くら橋がひそかに七十郎との間の新しい進展を願ったとしても無理はなかろう。増屋の主人は番頭と遊女の仲を以前から知悉《ちしつ》しており、染田屋にかけ合う算段もできなくはないと思われたのだ。
それというのに何としたことか。女房の死を境に七十郎の足も心も跡絶えてしまったのである。四十九日どころか、三カ月過ぎた頃、くら橋のかさなる文に対して、仕事がせわしく、博多や大坂に行く用向きもあって、ままならぬという、通りいっぺんの返事をくれただけであった。
しかも、それを見越したような稲佐行きの話。染田屋太兵衛の口調は露骨に押しつけがましかった。
「稲佐は稲佐でも、マタロス休息所に行けというとるじゃなかとよ。相手はれっきとした魯西亜の士官さんばい。その辺の不景気か顔ばしとる客よりなんぼいいかしれん。……マタロスの水兵相手とじゃ土台話が違うとじゃけんな。相手の士官はひとり、見境なか遊びじゃなか。去年の正月に入港したヤポネーツ号の話は知っとるやろうが。あん時の士官たちには桔梗《ききよう》屋と大黒屋さんからだしたとやったが、そりゃもうオランダやイギリスとはくらべもんにならんごと、よか待遇ばして貰うたというぞ。桔梗屋の桟《かけはし》がシコート提督からどんげんことをしてもろうたか、話にはきいとるやろう。士官のミールレルから銀の匙《さじ》をおくりもんされた玉川もそうたい。行きたかと思うても誰も彼もやるわけにもいかん。これはわるか話じゃなかとぞ。……」
そんげんよか話なら、誰かほかの者に頼んでくれなっせ。胸のうちの言葉を返せばどんな始末になるか、くら橋はただ「少し加減のわるかとですよ」と答えた。
「加減のわるかとなら、なおさらよかじゃなかか。赤い酒精一杯飲まして貰うて、ぶらぶらしとれば、それがいちばんの養生たい」太兵衛はこともなげにいった。「何でもおなごのいうこつをきくとやけんな。オランダも魯西亜士官も同じたい、その辺は。……相手はワシリエフという人じゃけん、ほんとに養生するつもりで行ってきたらよか」
七十郎は本当にそれだけの男であったのか。これまで幾度かいいかわした言葉はそれ程他愛なく崩れ去るものか。それっきりじかに話す機会を持っていないだけ、余計に真意をはかりかねるのだ。くら橋は中庭を望む二階の廊下の手摺《てすり》に体を預けるようにしてしばらく佇《たたず》んでいた。
主人のいい付けに従って稲佐の止宿所に行けば、七十郎との間はそれこそ終わりになるかもしれぬし、さりとて拒絶する手だてもないように思われる。
士官のミールレルから銀の匙を贈られたという大黒屋抱えの玉川は、くら橋と同郷の出身であった。大村領道尾村百姓千助の娘そめ。玉川は十歳の時、そこから遊女奉公にだされ、十四歳まで禿の役を勤め、大黒屋の阿蘭陀行遊女として、一時はカピタンの仕切遊女(名義だけ遊女屋に籍をおき、相手に買い切られる遊女)となっていた格子女郎である。
自分より二歳年下のはずだから、いまは二十二。玉川の妹も唐館に囲われているはずだ。
士官ワシリエフといいなさったな……。八方に飛び交う悶《もだ》えから逃れるようにくら橋がふっと息を吐くと、そこに遣手のさくがいた。
「どうしんさったとね。こんげんところで油ば売っとって、見つかっていかんおひとにでも見つかったら、それこそ大事になりますばい」
「加減のようなかとよ、少し……」
「そりゃいかんな。今夜ははなからどうも顔色のようなかなと、思うとったとよ。どんげんあるとね、具合は……」
「眠れん晩の大分続いたけんね」くら橋はいった。「心配かけてすみまっせん」
「あちらのお客の気にしとんなさるようだから」さくはいった。「いっとき辛抱せんと仕様なかとよ」
くら橋は席に戻った。堺の商人がちらと一瞥《べつ》したが、別に何ともいわず、恐縮しきった態の巳之助が、手酌で飲んでいた。
「肝心な話をきき損なったな」
「それで、巳之助さんはきりきり白状しなはったとですか」
くら橋は網屋友太郎の声にきき返した。
「みんなすらごとだったとよ」尾崎はいった。「心の臓で死んだたよしもおんなさらんし、おれんさんから貰うたという話も眉唾。何処かできいた話をみんな都合のよかごと作り変えとらすと」
「そんげんことまで太夫にいわれて、もう生きとる甲斐《かい》はなか」
「巳之助さん、ほんまのこといいなはれ」
「針の蓆《むしろ》とはこのこと。ああ、何としよう」
「すらごと、すらごと。もうみんな、巳之助さんの話は耳に栓するごとしまっしょ」
巳之助は居ずまいをただして深々とおじぎをした。
「おわびのあかしに一首言上致します。……さらわりの手妻こそなれ股《また》の血のすらごとばかり声あぐるらん。……」
「いやらしか」そういうと、尾崎は匂いでも払うように顔の前で手を振った。