二人の寄ろうとする居酒屋の手前で古書店の左内は念を押した。
「こいから行く娘は、あくまで表向きは地生まれの者ですけんな。間違うてもあいの子扱いしちゃなりまっせんばい」
「わかっとるさ」井吹重平はいった。
「唐人の娘じゃからというて、特に何しとるんじゃなか。さっきもいうたが、そん時の顔ば思いだして、ふっと気んなったとだけじゃから……」
「大方、丸山のきれかたよしを喰い飽いて、そいでちょっと梅干かつけもんをつまみとうなったとでっしょ」
「喰いあきるごと食べちゃおらんばい。何時《い つ》もお膳にでてくるとは皮はぎの刺し身にかぶと牛蒡《ごぼう》の煮付けばかり。よっぽど腹でもすいとらんとそう食べられるもんじゃなかよ」
「そんげんこついいなはってよかとですか。小萩さんにいいつけますばい」
「ああ、いいつけろ、いいつけろ。ついでのことにもう一品、ぼらの洗いでもつけてやろうか」
「ほんなこていわすこつ。……そいでも、皮はぎの刺し身にぼらの洗いとはまあ、どんぴしゃりのいい方ですたい。小萩さんが鯛《たい》の刺し身というこつはみんな知っとりますばってんね」
「鯛か皮はぎか、疑いしゃんすなら味みておくれか。あたしゃ荒磯岩育ち、釣ったお方の腕次第。……」
「そんげん歌があるとですか。初めてきいたな」
「そりゃそうじゃろう。口からでまかせに作ったとじゃけんな」
「よう、すらっとそがん文句の浮かぶとですね。……」
擦れ違う二人連れの提灯《ちようちん》を振り返ると、しばらく歩いた後で左内はいった。
「梶《かじ》屋かと思うたら、どうも違うとった。……」
「梶屋。知り合いか」
「梶屋で起こったこつ、知んなはらんとですか」
「知らんな。梶屋というのは、あの薬種問屋の梶屋ね」
「そうですたい。脚気《かつけ》の薬ば売り出して、えろうあたっとる最中に、嫁御が自殺してしもうたとですけんね。飲んだ薬がエゲレス渡りのものだというて、煙草一服吸わんうちに息を引き取るおとろしか毒だというて、評判になっとるとですよ」
「イギリス渡りの毒薬か。この頃は大分、長崎も芝居がかってきたごたるな」彼はいった。「しかしまた、なんでそんげん大店《おおだな》の女房が自殺したとかね」
「ああた、また何か魂胆のあって知らん振りをしとるとじゃなかですか。梶屋の事件をきいとらんことはなかでっしょ」
「ぬしも疑い深か人間やな。……知らんちゅうたら知らんよ」
「梶屋の当主は正輔といいますと。まあだ三十そこそこの男ですばってん、こりゃ手代の時分からあん人ねといわれる位の男で、自分で作りだした効き薬の歩合をお店から貰うとったという話も残っとるとですけんね」
「手代というと、養子にでも入ったとか」
「そうそう、後先になりますばってん、婿養子に入ったとですたい。毒飲みなはったとは、元々梶屋のひとり娘で、名前はゆうといいなさったと。姿恰好はあんまり目立たんひとやったが、頭のまわり具合はそりゃもう、剃刀《かみそり》みたいなひとでしたと。そいけん、格違いの正輔さんを相手に選びなはった時も、何ひとつ文句もでんとすんなり決まったといいますけんね。反対しようにもゆうさんがあんまり頭のよかけん、文句もいえんだったとじゃなかですか。……そりゃもう似合いの夫婦だというて、誰もが噂《うわさ》しよりました」
「そいで女でもできたとか」
「それが反対のこつですたい。……噂ですけんどこまでほんなこつかそりゃわかりまっせんが、ゆうさんに好きな男ができなはった。その相手というのが、長州からきとる小島医学所の学生で、さすがの婿養子も医学所の秀才にゃかなわんやったとやろうと、みんなそういいよりますと。……」
「死なんでもよかったろうにな」
「そこんところですたいね。何も嫁にきとるわけでもなし、あれだけ大店を張っとる家つきの娘が、考えようによっちゃいくらでも手はみつかるとに、なんでそんげん追いつめられにゃいかんやったとか。……こいもみんなの話ですばってん、大方濡れ手拭いで首締められるごと、頭のよか養子にやられたとじゃなかか、というとるとですよ」
「濡れ手拭いで締められちゃかなわんな」
「頭のよかならよかで、なかなか世の中、ままならんとですね。……」
いいかけて左内は顎をしゃくった。
「あそこですばい。ああたのお目当てのおるところは」
「きちんとした店たい、こりゃ」
確かに居酒屋というより、身綺麗《みぎれい》な構えの小料理屋であった。かといって取りすますというふうでもなく、縞竹の衝立《ついたて》で仕切った細長い大部屋のほかに、いくつか小部屋も用意されていた。左内と顔見知りの女は、耳打ちされてちらと井吹重平を見た。
二人の通された四畳半の障子をあけると低い板塀《いたべい》の向こう正面に遊廓《ゆうかく》の灯が点々と見え、左手の二階屋に赤いぼんぼりの明かりが薄っすらとひろがっている。
「ぬしはよか店ば知っとるな。こんげん巣のあるなら早う連れてくれればよかったとに」
「巣なんちゃいわれるもんですか。二月に一度か三月に一度ですたい。いくらきとうてもしがない書籍屋じゃ破産しますけんな」
「目当てはさっきの女か」
「冗談のごと。ありゃ此処のおかみですたい。あたしゃああたと違うて、酒ん時は酒ひと筋ですけん」
女将《おかみ》が挨拶にきて、きわでよければすぐよこすが、お酌の仕方も知らないような娘だから、といい、最近でるようになった「おもしろか芸子」を熱心にすすめた。
「歌も三味線も下手くそで、きかれたもんじゃなかですばってん、遊び事ならなんでもできるとですよ。オランダの士官さんと酒飲み競争ばやって降参させたという変わり者ですけん、並のひとにはすすめられまっせんばってん、お客さんとはうまの合うかもわからんと」
「二人呼べばよかじゃなかか。こっちも二人じゃけんな」
「芸子ば二人ですか」
「此処におる娘と芸子と、それで二人たい」井吹重平はいった。「心配せんでもよかと。おかみの顔ばつぶすような真似はせんよ」
「そんげんことば気にしとるとじゃなかと」女将はいった。「うちはみんなお客さん次第ですけん、お客さんにいちばんおもしろか酒ば飲みなはるごと、そいばいうとったとですよ」
「おかみがおってくれるなら、誰もいらんぞ」
「上手ばかりいいんさって」女将は受けた。「旦那さんの気持ちはちゃんとわかっとりますばい。遊び飽きてもう、並のお膳じゃ箸《はし》もつけとうなかとでっしょ」
「ありゃ、おるとおなじことばいいよる」左内は声を上げた。「さすがに目の早か」
「目の早かちゅうとは、男が女ば見染める時の文句ですばい」
「見染めたとじゃなかか」
「お門違いというとんなはると、旦那さんの目は……」
女将が去るとすぐ、井吹重平は小用に立った。厠《かわや》からも暗い波間に漁船のように浮かぶ灯が眺められ、赤いぼんぼりは少し黒ずんで見える。
女将の口ぶりから察すると、あいの子のきわをあんまり客の前にはだしたくないのだ。下働きのけじめをつけるという単純な理由か、それともほかにわけがあるのか、それはしれぬが、やりとりのなかのぎごちなさはきっとそのせいだろう。
小部屋に戻ると間もなく銚子と付き出しを運ぶ掛りの女中があらわれ、予期したよりも早く、きわは女将に連れ添われてきた。
着物でも着替えさせられたのか、身につかぬたたずまいのうちに、きわは堅い口調で席に招かれた礼をのべ、しばらく相手をした後、女将はみつくろった料理を急がすという口実で消えた。
「この旦那はおるのよう知っとるひとじゃけん、楽にしとってよかとよ」左内はいった。「ただ何とのうきわさんを見たかというてきたとじゃけんな」
「左内さんの店で会うたことがあるが、おぼえとるね」井吹重平はいった。「正月じゃった。ああたは確か袖に菱《ひし》模様のついた羽織を着とんなさったろう」
「こりゃたまげた。目の早かというとは、こんげんことばいうとたいね」左内は大仰な声をだした。
「おぼえとります。名前も……」
「名前も。……どんげんしてまた名前まで……」
「左内のおっちゃまからきいとったとです。あん時もそれで行ったとですけん」
きわは目も伏せずに答えた。あん時もそれでというと、正月のことか。娘の正面からの言葉に井吹重平はたじろぐように左内の方を向いた。
「そんげんこつならそうと、きちんというて貰えばよかったとに」
「そいけん、いうたでしょうが」
「いや話は後からじゃった。あん時会うたとは、ほんなこつ偶然と思うとったとだから」
「こりゃたまげたもよかとこ。さっきからたまげ通したい。井吹さんが柄にものう照れとらすとだけんね。……」左内は囃立《はやした》てた。
「羽織の柄までおぼえとって、今更きちんというて貰うたらもなかとでっしょが」
女中が皿に盛ったおこぜのふぐ作りと味噌椀を運んできた。腹はそうすいていないので、なるべくくちくならないものという注文に応じたのだ。
「きわさんというたな。ああた、いくつになんなさるね」
「はたちになります」
「はたちか。……若かね。この店には何時から働きよっと」
「三月からですけん、かれこれ、半年ばかりになりますと」
初めての印象とおなじく、明かりの傍でもきわの色艶《いろつや》はあまりよくない。目鼻立ちと額の恰好は、如何《い か》にも唐人のものであり、身許《もと》をいくら日本の籍に直しても、これではごま化しがきくまいという容貌をしていた。
「さあ、そんげんおみくじみたいな顔ばしとらんと、お互い気持ちは通じとるとだけん、もちっと膝でもくずして行こうじゃなかね。ほら、きわさんにも一杯すすめなはらんですか」
「そうそう、こりゃすまんことばした」井吹重平が盃を渡すと、きわはためらいもせず素直に受けた。
「よかよか、これでおるも気を入れた甲斐《かい》のあるとたい。きわさん、前にも話しとったが、旦那さんのごとよか男はなかぞ。どうね、あれから気持ちの変わっとらんとなら、今日からでもあたしにひと肌ぬがせんね」
左内はあたしとおるをまぜこぜにしながら、短兵急なことを口にした。芸子や女将があらわれては面倒になると思ったのか、それともかつてきわとの話し合いでそこまでの自信を持っているのか。
「そんげん無理いうちゃいかんばい。きわさんの方の事情も確かめんと」
「おっちゃまはうちのことをきちんと伝えとんなはるとですか」きわははっきりした口調できいた。
「そりゃ、伝えてあるさ」と、左内。
「正月から変わっとる事情のひとつできとりますばってん、そればいうてよかとへ」
「なんね、それは。……」
娘の態度があんまりきちんとしているので幾分しらけでもしたのか、左内の口ぶりにさっき迄《まで》の勢いはない。
「事情というのはどがんこつね」井吹重平はいった。
「このお店に、二両借金のありますと。そいけん、もしうちがやめんならんとなら……」
「そんげん話は何時でもでくるたい」左内が口を挟《はさ》んだ。「今此処でどうのこうのと決めんでもよかじゃなかね」
「いや、わかった」井吹重平はいった。「借金をそのままにしちゃおけんやろう。世話する以上、することはきちんとするけん、何も心配はいらんとよ」
おおきに、というきわの声と、あきれたという左内の言葉は折り重なってでた。今宵《こよい》だけの遊びとは限らずとも、娘を囲うことまでは考えてもいなかった成り行きを、それでもかまわぬと井吹重平は思った。たとえ正月にそのような話があったとはいえ、それまでまるで音沙汰のなかった男の不意の出現に際して、一瞬のうちに自分の運命を定めたきわの堅い口調に、いいようもなく心をそそられたのである。
「よかぞ、そうと決まれば今夜は鯛々ぞ。こりゃよか晩になった。……女将もいっちょ呼ぶか」
「女将にゃ改めて、明日にでも話した方がよかでしょう。今夜は二人で、何処《ど こ》にでも行きなさるとよか。そのことはちゃんと女将に話しときますけん」
「ぬしの徳利の空かんうちにそんげんことができるか。芸子もきとらんじゃなかか。二人のことはもう決まったとじゃけん余計な心配をすることはなかぞ」
「しょっぱなからこれじゃけんな。あきれついでにいうときますばってん、きわさんを大事に可愛がってやんなさいまっせ。さっきからたまがり通しやけど、きわさんがこんげんふうにああたのことを心にかけとったとは、思いもせんことですばい。いくら何でも今の今できあがるとは……ああまだ、この辺のどきどきしよる」
左内は胸を押さえたが、満更嘘の所作とも見えなかった。
「みんなおっちゃまのおかげですけん」きわはいった。「うちはうれしか」
「そうか、うれしかとか。……井吹さん、きいたとでっしょ。もうこんげんかわいらしかことをいいよんなさるばい」
「対話集と、こんげんきれか娘ば手に入れて、昨日ん晩はよっぽど夢見のよかったとじゃな。何かすらごとのごたる……」
井吹重平はそういう言葉を並べることで自分の胸を煽《あお》った。盃を重ねる間にすすめても、きわはこばまず、差されるたびにそれを干した。そして「さかなの鮒《ふな》」だと名乗る芸子がきた。
「いっそのこと、鮒より鯉とつければよかった」
「恋になるとはあきらめたけん、ふなで辛抱しとっと」
芸子は左内の言葉をすらりと受けると、井吹重平ににじり寄るようにして酌をした。
「こんげんきれかひとのおんなさっとに、呼んで貰うておおきに」
「今夜はうれしかことのつづいとる晩だけんな。そのつもりで相手ばするとよか」
「羨《うらや》ましか」芸子はいった。「そいじゃいっちょやっかみ半分に、できたてのほやほやを歌うてみまっしょ」
芸子は三味線の調子を合わせて、歌いはじめた。
櫓《ろ》を漕《こ》いで 銭ためて
みとせがかりの危な絵の
朱色の主は蘭水の尾崎
濡れる間もなく溜《たま》り場に
ひかれる又次の繰りごとは
せめて色香の袖なりと
哀れもおかし船乞食《こじき》 哀れもかなし船乞食
「めずらしか歌じゃな。蘭水とか船乞食とかいうたが、そんげんこつのあったとね」井吹重平は知らない振りをした。
「きいとんなさらんですか」芸子はいった。「丸山辺りじゃえらい評判になっとるとですよ」
「船乞食が尾崎に惚《ほ》れたとでもいうとか」
「惚れたばかりじゃなかとよ。ちゃんと三年がかりの銭ば貯めて、蘭水に上がったとですけん」
「ほんなこつか、そりゃ……」
「すらごとじゃなかとですよ。溜り場におる船乞食をどんげん処分にするか、奉行所じゃ頭ば痛めとんなさるらしかですけんね」