明け方から前触れもなく降りだした雨は、四ツ刻(午前十時)近くになって、ようやく小止《こや》みになった。昨夜までの蒸し暑さは見掛けだけでも吹っ切れたように感じられ、道を行く人々の挨拶は大方それに尽きた。
出がけに着替えた着物の裾にはね返る泥水を気にしながら卯八は高下駄をちょっと小石に躓《つまず》かせた。前を行く商家の番頭らしい男はまだ開いたままの番傘を担ぐような形で差している。柳の葉先に光る白い玉を次々に指先で弾《はじ》く子守りの娘。
峰吉から誘われた下っ引まがいの手下になれという話もさることながら、つい先程までやりあっていた父親の強情な反発を一体どんなふうに考えればよいのか。二日酔いの匂いを振り撒きながら、珍しく朝の茶漬けを食べにあらわれた兼七に、フランス寺の一件を持ち出すと、思いがけぬ激しい態度を示したのだ。
「フランス寺の仕事ば手伝うとるという話ばきいたが、まさかほんなこつじゃなかろうな」ときいた卯八に対して、ろくに返事もせず、重ねて問いただすのに、「わるかとか」という言葉を返したのである。
「何ばいうとるとか、おととは。そいじゃ、喜助が話したことは、ほんなこつだというとね。……返事をされんとか」
「喜助にゃかかりあいのなかことたい」
「そんげん話じゃなかろうもん。フランス寺の仕事をしよるというたら大層なことばい。おととはそいばわるかことでもなかというとね」彼はいった。「よもや浦上の事件を忘れたとじゃなかでっしょ」
「天主堂ば建てることがわるかとなら、奉行所が許さんとじゃなかか。奉行所が黙っとる仕事を加勢して何も文句をいわれる筋合いはなかと」
「天主堂ちゃ何ね。……」卯八はひきつる声をだした。「天主堂といえばおとと……」
「フランス寺のことたい。みんなそういうとるじゃろうが」兼七は平然とした口調でいう。
「寺というても並の寺じゃなかとぞ。おととはそれをわかっといて、切支丹の加勢ばすっとか。……おるがどがん気持ちで今日までくらしてきたか。それを知っといて、そんげん口ばきくとね」
「知っとるけんこそ、天主堂の仕事ばしとるとたい。いくら奉行所でも今度ばかりは、牢《ろう》に叩き込むちゅうわけにもいかんやろうけんな。……何も気のひくることをしとるつもりはなか。わっつ(私)は何もこそこそ隠し立てしてやっとるわけじゃなかぞ」
「切支丹のためにどがん目におうたとか。おとともおるも一生うだつの上がらんことになって、その上磔《はりつけ》の木まで作らされた。覚えとらんとはいわさんよ」
「よう覚えとるたい。そいでもありゃ奉行所からいいつけられたこと。切支丹の人たちからやらせられたわけじゃなかばい」兼七はいった。「何もしとらんとに、切支丹はわっつたちと一緒に死ぬ目におうただけじゃろう。違うか」
「よう、そんげん口をしゃあしゃあと。……わきはどう思うか、おるのいうとること」
「うちにはようわかりまっせん」
「ようわからんとは何や。おるがぬしと一緒になった時、人から何といわれた。誰も彼も、おるたちの背中から指差して、獄門台ば作った男とよう所帯ば持たれる。ひょっとしたら出が出じゃなかとか。……ぬしもきいとるじゃろうが」
「お前はなんか勘違いしとりゃせんか」
「勘違い」
「今もいうたが、わっつたちゃひどか目におうたとは、奉行所からやられたとぞ。切支丹のせいじゃなか。……」
「切支丹のせいたい。せいじゃなかとどんげんしていえる」
「わっつのいうとるこつは違う。切支丹はわっつ達と同じ目におうた口。手箱ひとつのこつで牢屋に叩き込んで、あげくに獄門台を作れというたとはみんな奉行所たい。そこんところを間違うな」
「そいじゃなんで切支丹が御禁制になっとる。伴天連《ばてれん》の信者は何でつかまるとか」
「そんげんいうなら、御禁制の天主堂をなんで許可するとか。伴天連のひとりや二人とは違うとぞ。大根《おおね》大元の切支丹寺を建てようというとに、なんで打ち毀《こわ》しもせんとか」兼七は強い声ではね返した。「そりゃ何より奉行所が、自分たちの非を認めた証拠たい」
「そりゃ向き向きのことよ。お上の考えとることがそんげん変わるはずもなか」卯八はいった。「どんげん理屈ばこねても、切支丹は切支丹。おととひとりのことだけじゃなかけんな。おるは承知せんぞ」
「頭ば冷やさんか。もうぬしのいうとるごたる時勢じゃなかとぞ」
「番小屋で磔を作っとった時、どんげん悪口ばいわれたか、耳に残っとらんとね。いくら奉行所が見て見んふりをしとるからというて、フランス寺から手間賃貰うて、そいで世間に通るとでも思うとるとか」
「居留地のエゲレスに品物を世話するのはかまわずに、天主堂の手間賃貰うのがどんげんしてわるかとや」
卯八は詰まった瞬間を、茶碗を手にしてのばした。
「そりゃ……商売と切支丹は違う」彼はいった。「おととは卑怯《ひきよう》かぞ。おるたちにことわりもせんで、フランス寺に通うたりして……もう一回おるたちを谷底に突き落とすつもりか」
武家屋敷の土塀に止まっている雀が一斉に飛び立ち、卯八の傍を擦り抜けるようにして若い侍が横手の路地を入って行く。
それにしても父親のああいう居直った素振りは何処からきているのか。確かに兼七の理屈には前々からまがりくねったものがこびりついていて、付き合いのある人々によく、また始まったという顔をされたものだが、こともあろうにフランス寺の仕事でそれを持ち出すとは。考えてみると、朝飯に殊更顔を見せたのも、或いは噂の先手を打つつもりだったかもしれないのだ。
大浦居留地のマックスウエルに会う段取りをつけるため、目差した阿媽《あま》(外国人の傭女)の家はなぜか閉まっており、隣家にきくと何も言伝《ことづ》てはないので今に戻るでしょうという返事であった。そして事実、四半刻も待たぬうちに咲は帰ってきた。阿媽といっても米人チャァルス・ハゲルトンの情婦であり、この一年ばかり染田屋抱えの若き遊女高鶴との三角関係に悩む余り、自宅に引きこもっていたのである。卯八も大体の様子をきいてはいたが、高鶴はいまハゲルトンの子を身ごもっているはずだ。
彼が用件を話すと、簡単に承知した咲は、今度はどういう図柄かとたずねた。
「それが……」
口ごもりながら卯八が所持するものを開くと、予期に反して咲は顔色ひとつ変えなかった。
「どんげんでしょうかね。こがん絵ば持って行って」
「どんげんといわるっと……」
「いきなり怒鳴りつけられはせんかと思うたりしとるとですよ」
「なして怒鳴りつけられるとね。マックスウエルなら飛び上がってよろこぶとじゃなかですか、これなら」
「それならよかですばってん」
「あん人たちもほんなこつはこんげん絵を欲しがっとるとよ。並の春画ならもう飽き飽きしとる位見とるとだけんね」
井吹重平と似たようなことをいう咲の目付きには今になって一瞬うごめくものが走る。卯八は感じない振りをした。
マックスウエルは異人のなかでも日本語の達者な男として知られていたが、ひどく神経質な要心深い商人で、咲を仲立ちにして同行しなければ、直接には決して会おうとしないのであった。
麻仕立ての着物を少し居留地風に装い、やや斜め前方を歩く咲の横顔には、そう思うせいか沈んだ影が浮かぶ。昨夜峰吉は、たとえばという枕をつけながら、探索の目的としてマックスウエルの名前を挙げたが、気持ちの底にはそれもなくはない。しかしまだおれは峰吉の誘いをはっきり引き受けたわけじゃないのだ、と卯八は自分に念を押す。居留地に通う彼のことを峰吉は何処まで調べているのか。
方々に水溜りのできている濡れた土地に、六つの輪を描いた童たちが順番を決めるちょいやげん(唐屋拳、ジャンケンポン)をしており、最初に負けたひとりが体をくねらせるようにして石を蹴《け》る仕種《しぐさ》をした。
「卯八さんはガラバという異人を知っとんなさるね」
それまで黙っていた咲が、橋の手前でふっと振り向いた。
「ガラバ……。きいたことのなか」
「そうね、そいじゃ菊園さんのことも知らんとでっしょ。筑後屋のたよしさんたい」
「知りまっせん」
筑後屋の菊園。そういえば何やら小耳に挟んだような気もするが、しかとは覚えていない。
「ガラバさんの子供ば生みなさったとよ。一昨年の春、梅吉という名前ばつけんさったと。きいたことはなかね」
「菊園という筑後屋のたよしが生みなはったとですか」
「そうたい」
「梅吉といえば、男の子やったとたいね」
「菊園さんの実家でずっと育てよんなさったと。それはよかったとばってん、去年の春、麻疹《はしか》にかかって、亡《の》うなってしもうたとよ。わざわざ小川仲亭さんの診察まで受けなはったという話やったが、矢張りあいの子は体の芯《しん》の弱かけん、ようといかんとかもしれんね」
「矢張りそげんもんでっしょか」卯八は相槌《あいづち》を打った。そうか、この女はハゲルトンの子を妊《はら》んでいる高鶴の明日にとげを含ませようとしているのだ。
「そいでも菊園さんの身になってみれば、かえってよかったとかもしれんとよね。運よう育っとったとしても、どっちみちあいの子はあいの子でっしょ。名前はいくら梅吉でも、顔の造作までは梅吉というわけにはいかんけんね」
「あたしはあんまりようと見たことはなかとばってん、異人さんのあいの子は矢張り異人さんのごとしとるとでっしょか」
「そりゃそうたいね。向こうの人たちの血は強かけん、まるっきり異人の顔に似るとじゃなかね。いま話した梅吉という子供はそりゃ色の白うして、雪の中からでも生まれてきたごとしとったというけんね。その上、目玉は青か。子供のうちは愛らしゅうても、年とって行けばどんげんして暮らしたらよかか。自分でもわからんごとなるとじゃなかやろか」
雨がまたさっと横なぐりにばらつき、番傘を差す間もなくやむ。咲が煮え湯を飲まされている高鶴は今年十八歳。生み月まであと三、四カ月という噂をきいているが、果たして如何なる顛末《てんまつ》になるのか。
「マックスウエルさんは、あんまりもう長うは長崎におんなさらんはずよ」
橋を渡って川を下る荷船と平行しながらしばらく歩くと、咲はそんなことを口にした。
「それはほんなこつね」
「本人からきいた話じゃなかけど、確かな筋よ」
「そいがほんなこつなら、きちんとした取引ばしとかにゃならんな」
「目の玉から火のでるごつ、吹っかけてやればよか。どっちみちいくらで売れとはいわれとらんのでしょ。居留地におる異人はみんなやりたか放題のことをしとるとだけん、何も遠慮することはなかとよ」
女はそれまできいたこともないようなきついいい方をした。
「マックスウエルさんはなして長崎をでんさるとね。本国から知らせでも受けて、戻んなさるとやろか」
「行き先は堺か江戸。あん人たちの目当ては決まっとるとよ」
「堺に江戸か。やっぱ鉄砲や火薬の売り買いで忙しかとやろうね」
知らず知らず下っ引に似た口調を卯八はわれながらいまいましく思う。必要もないのに番傘を振って雫《しずく》を落とすと、咲がちらりと流し目で見た。
「鉄砲や火薬じゃなかと……」
女はなぜか、そういいかけて後の言葉を濁した。
鉄砲や火薬ではなく、ほかの何を売るのか。しかしそれを押してきくのはためらわれる。卯八は高下駄の歯にくっついた泥を落として、相手の言葉がつながるのを待つ。しかしそれっきり咲は何も語らず、大浦海岸からせり上がる丘はすでに前方に見えていた。
いま外出の準備をしていたところだというマックスウエルは、二人を板敷きの応接間に案内した。桜材の丸卓と椅子は何時もの通りであったが、壁に飾られた長剣に卯八は目を奪われた。
「ツルギトイイマスカ、フルイトイイマスカ、ソレデモイマハ、ソレヲハナシデキマセン」マックスウエルはそういうと咲の方を向いた。「アナタハ、ぐらばーサンノツクッタ牛ノマキバヲ知ッテイマスカ」
「牛のまきば。……ガラバさんの去年作りなはった解牛場のことですか」
「ソウ、古河海岸ニぐらばーサンノ作リマシタネ。ソコニタクサンオイシイ牛ノ乳アリマス。飲ミマスカ」
「牛の乳は駄目。そればっかりはどうも飲みきりまっせんと。……すみまっせん」
「卯八サンハ」
「あたしもどうも。飲んだこつはなかとですばってん」
マックスウエルは肩をすくめるような所作をして、顔をだした阿媽に支那茶を持ってくるように命じた。
「ぐらばーサントハナカナカ会イマセン。アナタ会イマスカ」
「いいえ、ガラバさんとはもう……」咲は言葉短く答えた。
「卯八サン、アナタハ今日、何ヲ持ッテキナサイマシタネ」
卯八は風呂敷包みを解いて、紙挟みの中から切支丹伴天連の火刑を背景にした春画を取り出した。マックスウエルは交錯させた腕で自分の胸を抱くような恰好をしながら、呻《うめ》きに似た声をあげる。
「コレハ、マエノヒトノカイタモノデスカ」
「はい」
「コレヲ、ナンマイノコト作リマシタカ」
卯八は言葉の意味をききとれずにマックスウエルを見返した。
「コレハ一枚デハアリマセン。コレハ色ヲタクサンノコト、ナントイイマスカ、印刷トイイマスカ、タクサン作リマシタトデスネ。……ワカリマセンカ」
「木版じゃから、ほかにも何枚かこしらえたものがあるとか、そんげんことをききよらすとよ」
「ソウ、咲サンノ言葉、ソノ通リデス。コレハモクハンデスネ。ソイケン一枚デハアリマセン」
なるほど、そこまで考えてもみなかったが、指摘されてみれば版画である以上、その通りだ。だが井吹重平は、ほかに何枚も刷っているのか。これだけのことを咄嗟《とつさ》に思いめぐらしながら卯八は返事に詰まった。
「卯八サン、アナタワカリマセンカ。コレハモクハンデスネ。ソイケン一枚デハナイ。タクサン作リマシタトデスヨ。ソレヲキイトルト」
「一枚きりだと思うとったが、あたしにゃわかりまっせんと。ほかにも刷ったものがあるかどうか、それはきいてみまっしょ」
「ほかに何枚か刷ってあるとして、あなたはそれをどんげんしなはるとですか」咲が代わってきき返した。
「全部デスネ、作ッタモノヲミンナデスネ。……ワタシガ買イマス。モクハンデスカ。コノ絵ハ誰ニモミセマセン、ミンナノコトワタシガ買イタカト」
マックスウエルの眼はなおも十字架の下で喘《あえ》ぐ恍惚《こうこつ》の図柄を離れなかった。