以前は糸荷廻船《かいせん》に関係する商人や船頭たちの常宿でもあったという茂木屋の二階で、手摺《てすり》に寄りかかるようにして井吹重平は対岸を往復する渡し船の二丁櫓《ろ》の音をぼんやりときいていた。常宿をやめた理由について、抜荷にまつわるいざこざがあったという噂《うわさ》をきかぬでもなかったが、それにしては居酒屋兼用の宿屋を営めるのもおかしく、すべてにからっとした主人の気性にひかれて、時々そこを利用していたのである。
階下の大部屋で船乗りたちのざっくばらんなやりとりをきけるのもこの家に足を向ける気持ちの一部に含まれており、何よりも海岸に張りだした浴場の潮風呂が彼の気に入っていた。
しかし今は違う。昨夜、というより今暁、寅《とら》の刻に近い時刻からきわを連れてこの宿に泊まったのだ。正味にはおよそ二刻《ふたとき》程も眠ったろうか。井吹重平の脳裡《のうり》にはこれまで無垢《むく》であったというきわとひとつ床で過ごした情愛の名残と、もう後には退《ひ》けぬのだという思いが、微妙に屈折した影となって蹲《うずくま》る。
彼のすすめもあって、きわは入れ替わりに朝風呂を使っていた。朝風呂など正月にも入ったことがないといいながら、男の言葉には決して逆らうまいと決めたかのような足どりで浴場に去った女の風情もいじらしく、海からの水分を含んだ重い風が湯上がりの体を小気味よく打つ。
この宿にきて二人切りになると、きわは改めて挨拶したが、それはまるで嫁にきた女が、床入りの前、良人《おつと》に対する態度と同じものであった。それでいて特に杓子《しやくし》定規という風でもなく、永年待ち望んでいた言葉を口にするようなよろこびと恥じらいが、身振りにもあらわれていた。
宿の主人が手早く用意した酒肴《しゆこう》の膳を間に挟《はさ》んで、二十歳の娘は彼のいうことにいちいち頷《うなず》き返した。
「くたびれたとじゃなかか」
「いいえ、うちにとっちゃいちばん大事な日ですけん、くたびれようもなかとですよ。旦那《だんなん》さんこそ……」
「旦那さんと呼ぶことはなか。ああたでよかぞ」
「旦那さんのいいつけ通り……すみまっせん。ああたのいうことはなんでんききますけん、どんげんことでもいいつけて下さりまっせ」
「あんまり急なことになってしもうて、何から話してよいかわからんごたる。……ぬしの住む家ばまず探さにゃならんな。おかさまに挨拶もせにゃいかんし、……そうそう、ぬしの家族はいまどんげんふうになっとるとね」
「おかかはもう先に亡うなったとです。おととのことは知っとってでっしょ。今は新大工町の方に叔父の家がありますと、おかかが亡うなった後はそこでくらしとったとです」
「叔父しゃまは何ばしよらすと」
「元々は屋根葺《ふき》の職人だったとですばってん、あんまり体の強うなかけん、いまは寺の雑用ばやったりしてすごしとりますと」
「どっちみちきちんと挨拶しとかんといかんな」
「旦那さんの気の向かれた時でよかとですよ。……矢張りうちは旦那さんの方がいいやすか」
「なんでんおれのいうことをきくというたばっかりじゃなかか」
「すみまっせん。そいでも慣れるまでは恥ずかしか。……」
井吹重平は徳利の酒を二つの盃《さかずき》に注ぐと、「ほら、これが固めの盃たい。何かおれにして貰いたいことのあるならいうてみたらよか」といった。
彼が盃を傾けると、つづいてきわも飲んだ。
「何時《い つ》までもうちを捨てんで下さいまっせ。頼みはそいしこです。旦那さんに捨てられたらうちはもうどうにもなりまっせんけん」
「捨てるはずもなか」井吹重平はいった。「おれの正体もよう知らんとに、そんげん自分の一生ば預くるごたることばいうて、後で困ることになっても知らんぞ」
「うちは旦那さんの顔を最初に見た時から、この人ならと思うとりました」きわはいった。「あん時からうちはもう決めとったとです」
「左内さんはよっぽど上手におれのこつを売り込んだとじゃな」彼はいった。「仲人口の何とかというて、今に化けの皮のはぐることやろう」
「旦那さんにきいてもよかと」
「ああ、何でも」
「旦那さんはどんげんして、うちのごたる女を世話してもよかと思いなさったとですか」
「そりゃ……ぬしの器量と気性がおれの気に入ったからたい。正月の時はまあだそこまでの気持ちはなかったとに、直接会うてみて、いっぺんに惚《ほ》れてしもうた」
「おかみさんからいわれて、うちもいっぺんにわかりましたと。左内のおっちゃまと一緒にこらした初めてのお客さんときいたからすぐ、……」きわはいった。「そいでも突然うちと会うてもよかと思いなさったとはなしてですか」
「なしてかな、おれにもようわからん。道を歩いとる時にふっと、そんげん気持ちが動いたとやからね。ひょっとすると正月からたまっとった水が、堰《せき》の切れていっぺんに流れだしたとかもしれん。そこで左内さんのところに駈け込んだとたい」
「うちはふ(運)のよか。……」きわの語尾は少しふるえた。「これまでふのよかと思うたことは一度もなかったばってん、じっと辛抱しとった甲斐《かい》のあったとよ。ふのわるかことを全部集めて火つけたら、今のうちの気持ちとおんなじになるやろか。……うちはもう半分以上あきらめよりましたと。……」
「何をあきらめとったとね」
「すらごとでもよかけん、うちを好いとるというてくれる人、そんげん人は死ぬまであらわれんやろうと思うとりました」
「おれはすらごとをいうとりゃせんとよ」
「わかっとります。そいけんうれしか」
「はっきりいうてしまうばってん、唐人の子じゃからというて何も卑屈になるこつはなか。唐人もオランダ人もみんな同じ人間たい。せせこましか日本とくらべてみりゃ、何もかもよっぽどすすんどる。黒船ひとつ取ってみてもとても太刀打ちゃできんじゃろう。機械だけじゃなか、人間の生きて行く上の考え方が土台ひろかとじゃけんな。きわさんのなかにはそんげん血の流れとるとやから、胸張って生きとってよかとよ」
「うちが旦那さんならと思うたとはそんげんところです。言葉はいまはじめてききましたばってん、うちは最初からそうだと信じとりました。左内のおっちゃまから正月に話のあった時、うちがすすんでのったのも、普通世間のくらしより、何かほかのことば考えとる人ときいたからです。……」
「何かほかのことば考えとる人か。……」
「日本をあんまり好いとんなさらんごたる、ともいうとられました」
「日本をあんまり好いとらんか……そうかもしれんな」井吹重平は盃を手にしたまま首をかしげるような所作をした。「うまいことをいうが、ちょっと違う。日本を好いとらんとじゃのうして、日本のなかにあるせせこましさに嫌気がさしとるとじゃけんね。自分の家とか自分の藩のことだけしか考えられんそんげん頭の中身が好かんとよ」
「うちも勉強したか」きわは酌をしながらいった。「勉強して南蛮やオランダのことば何でも知りたかと。異国では長崎や日本とは時間まで違うというのはほんなこつですか」
「時間だけじゃのうして、世の中の仕組みの全体がまるっきり違うごたるね。おれもようとは知らんが、イギリスやオランダは、男と女が対等の力ば持っとるというけん、その辺から考えても日本とはくらべものにならん。……まあそのうち日本もひっくり返るかもしれんけどな」
「日本がひっくり返るというと、どんげんふうになるとへ」
「さし当たって、ぬしが働いて、おれを食わせることになるかもしれんな」
井吹重平の冗談に笑いもせず、きわは強い反応を示した。
「そんげん世の中になったら、どいしこ(どれだけ)うれしかかしれん。女が自分の頭で精一杯働くるような仕事場のあっとなら、どんげんよかやろうか。……旦那さん、何でんよかけんうちに教えて下はりまっせ。難しか本は読めんばってん、旦那さんに教えて貰えば、うちは日に一枚ずつでも読んでみたか」
「本を好いとるとやな。左内さんからもちょっときいちゃおったが……。これまでどういう本を読みなはったとね」
「どんげん本というても、うちの読みきる本ばっかりですと。左内のおっちゃまのところから借りてきて、旅日記や芝居の台本みたいなものや……物語本なんかも少し」
「そりゃえらか。よし、そいならおれが持っとる本をみんなでもあげるけん、それを読んだらよか。わからんところはいくらでも教えてやる」
「矢張りうちの思うとった通りやった。そんげん旦那さんが好き。いちばん。……」
「こりゃ、おれより本の方が大事なごたる話になってきたな。うかうかしとると、おいの持っとる本に焼き餅ば焼かんといかんようになるかもしれんぞ」
「旦那さんはなんでん知っとんなさるとでしょう。この前読んだ本のなかに、腑《ふ》分けの話のでとりましたばってん、人間の体がどんげんふうにして病気になるのか、それも勉強したかとです」
「おれは医者じゃなかけんな」彼はいった。「そいでも、そがんことを勉強したかとなら塾に行けばよか。まだ若かとじゃけん、今からなら充分間に合うじゃろう」
「塾……」きわはかすかに頭を振った。
「うちにはとても、かないまっせん」
「かなわんことはなかぞ。行く気さえあるならおれがだしてやる。ぬしはまだこれからだし、自分のやりたかと思うことばやればよか。いくらでも応援するけんな」
「そいでもうちは旦那さんのお世話になるとですけん。……うちは旦那さんのよろこばれるようにしたかとです」
「塾に行くとが、おれのよろこぶことたい。……こりゃよかことば思いついた。おれがくるとを毎日待っとっても、そりゃそれだけのくらしじゃけんね。それより塾に行って、医学でも英語でも習うたらよか。そうそう、これからはなんでん英語が土台になるとじゃけん、そいば勉強したらよかぞ。おれもやらにゃいかんと思いながらあんまり長続きもせんやったが、ぬしが習うてきた分だけおれにも教えてくれたらよか。そしたら一挙両得たい」
「うちは旦那さんの女になったとですよ」女はいった。「塾やなんか、そんげんことしたら、旦那さんの女じゃなかごとなってしまう。……」
「塾に行くとがどんげんして女じゃなかごとなってしまうとね。おれが自分の女ば塾にやるとたい。じっとひとつことばっかり考えとる女より、毎日毎日利口になる女を見とる方がよっぽどおもしろかろう。そうじゃなかか」
「そいじゃ旦那さんの女はそのままにしといて、塾に行ってもよかといわるっとですか」
「そうたい。おれの女じゃから塾に行くとたい」
井吹重平は腕をのばしてきわの額をちょんと突ついた。すると女の表情にぱっと恥じらいの表情が浮かび、目を伏せたまま膳の箸《はし》に手を触れた。
「ところてんを食うとよか。ほんなこつここの亭主は気のきいとる。夜中の客にちゃんとだすものを知っとるけんね」彼はいった。「しかし、こりゃ忙しゅうなるな。ぬしの住む家と塾と、二つみつけてこにゃいかんたい」
「家はうちも探します。今のところはもう居辛うなりますけん」きわはいった。「そいでもなんか夢のごたる。何もかもいっぺんに叶《かの》うてしもうて、ほんなこつ自分のことじゃろうかと思いますと」
「ぬしはよか女ばい、ほんなこつ」
帆掛船を操る船頭の手つきは、何だか凧《たこ》を揚げるさまに似ている。舳先《へさき》で乳飲児を抱く女は女房か。と、階段の音がして宿の主人が顔を見せた。
「もう起きなさっとるときいたもんですけん」竹蔵は挨拶した。
「あんげん時刻にきて、迷惑ばかけたな」
「あれっ、そんげんことばいわすとですか」竹蔵はいった。「そんじゃゆうべは大分よかこつのあったごたるですね」
「見た通りのことたい」
「宗旨変えばなさって、呂宋《ルソン》からでも攫《さろ》うてきなさったとですか」
「矢張りそう見えるか」
「あんげんはっきりしとれば、誰でちゃわかりますけん」竹蔵はいった。「そいでも初々しかじゃなかですか」
「これからもちょくちょく連れてくるけんな。よろしゅう頼むばい」
「そんげんこつならこっちもその気で応待せにゃなりまっせんね」竹蔵はいった。「ところで朝飯はどげんしなはりますか。なんなら昼飯と一緒にして、少し早うしたらと思うとりますばってん」
「それでよか」井吹重平はいった。「昼過ぎまで少しゆっくりして行くけんな」
「ええ、昼過ぎでも晩過ぎまででも、うちは一向構いまっせんけん。……それはそうとして、高杉晋作という人ば知っとんなさるとでっしゅ」
「長州の人やろう。丸山じゃ大分派手な噂の立っとったから、名前だけは知っとるよ」
「此処《こ こ》に大分長う逗留《とうりゆう》されたことのあるとですよ。……いまちょうど博多から商人《あきんど》のきてうちにおんなはるとばってん、その人から高杉さんのことをきいてびっくりしましたと。オランダとイギリス、それにアメリカとフランス、四カ国の軍艦を相手にして長州じゃ片っぱしから大砲をぶっ放しよって、なんとその隊長が高杉さんらしかとですよ。侍だけじゃなしに、百姓も町人もみんなちゃんぽんにした奇兵隊というとを作りなはって、そこで指揮ば取っとんなさるという話ですたい」
「フランスとオランダの軍艦を砲撃したという話はきいとるが、アメリカとイギリスまで相手にしとるというのは初耳やな」
「下関はそのうち、幕府方じゃのうしてイギリスやフランスから占領されるかもしれんというとんなさるとですよ。そいけん、そがんふうな情勢ば見越して商売ばせにゃならん。そんげんこともいいよらす。ききよってもどうもすらごとじゃなかごたるし、下関がそうなれば長崎だけ無傷というわけにもいかんでっしゅ。そしたらどうなるとか。いっぺんああたにききたかと思うとりました」
「そりゃおれより竹蔵さんの方が詳しかやろう。第一長州がアメリカやイギリスまで相手にしとるというと、今ああたからきいたとやからね。……四カ国も相手にして、勝ち目のなか戦争をどんげんふうにして戦うつもりか、現にどんげん戦い方をしとっとか、もう少し詳しゅうきいてみんと、何ともいえんな。その博多からきとるという人は、今も此処に泊まっとらすとね」
「ええ、今日はちょっと朝早うから出とんなさるとばってん、長州にも何度も往復しなさったらしくて、自分の目で確かめたごと話ばしなさると。何なら引き合わせますけん、晩にでも話をきいてみなさるとよか」竹蔵はいった。「上方、堺で起きとることは大体知っとるつもりですばってんね。長州や薩摩のことは何が何やらさっぱり要領を得んとですよ。……こりゃまだ此処までの話ですばってん、荷船ば一艘《そう》手に入れようかと考えとる話のあっとです。そいでも、これから先世の中がどんげんふうになるとか。今手を打つのがいちばんの時機とも思うし、万一戦争にでもなったら、荷船なんか持っとったらかえって妙なことにでもならんと限りまっせんけんね。かというて、今のごたる商売ばつづけとっても、なんとのう気合の入らんし、あれやこれや迷うとっとです」
「荷船か。……茂木屋竹蔵ついに立つ、というわけやな」
「おちょくっちゃいかんですばい。……ほんなこつ晩にでもきなはらんですか。ああたに相談したかこつのいっぱいあると。時にゃ真面目か話ばしてもよかとでっしゅが」
「大分、うろたえもんにされとるごたるな」
「ああたのうろたえとるとは少しばかり道の外れとるけん、つかまえようのなかと。みんなからもそんげんいわるっとでしょうが。……」
言葉の途中で足音がきこえ、上気した顔のきわが、竹蔵を見ると意味もなく、「あっ」という声を発した。