ようやく朝の化粧をくら橋は終えた。本来なら茶屋で朝粥《あさがゆ》をとる辻野屋嘉右衛門と松蔵の相手をしなければならぬのだが、尾崎にまかせて免じて貰ったのである。昨夜、寝所に入ってからの松蔵は思いの外しつこく、宴席での振る舞いとは別人のような喋《しやべ》り方をした。
「矢張り何でおますやろな。間夫《まぶ》というか旦那というか、みんなには夫々《それぞれ》、決まってはる人がおますのでっしゃろ。違いますか」
「ようわかりまっせんと。どんげんことへ」
「好きな人がいるやろときいてんのや。……やぼなことききよってからにと思われるかもしれまへんけどな。くら橋さんにはなんとのう確かめとうなりましてな」
「うちには誰もおりまっせんと」
「ほんまですかいな。とても信用できやしまへんな。……まあ客にいろがいるかときかれて、はいおますと答えるお女郎さんもおいでやしませんやろうけど。なんでやぼなこと切りだしたんやろ。……」
「すらごというても仕様のなかでっしょ。丸山に勤めとって、そんげん決まった人のおらすと辛うてたまらんごとなりますけんね。悲しかめには会わんごと会わんごとくらすとが、うちたちのさだめですたい」
「さすがに丸山の口舌は一風変わってますな。……ほんまにそんないい方されると、ふっとその気になりますわ」
「上方にはどんげん口舌のあるとへ」
「ほら、ま。そういういい方でんがな。一をきいて十を切り返しはるような、すらりとしたところ。さすがに長崎やと思いますわ」
「からかわんで下はりまっせ」
「なんの、からこうたりするものか。感心しておりますのや。何いうてもすらりと受け流されて、こっちはじれる一方。ほんまに身にしみてるんでっせ」
「なんでじれたりしなはるとですか。うちにはようわかりまっせんと、旦那さまの言葉は何でん、はいはいときいとりますとに。……」
「そういうさらっとしたところでおますがな。あてがじれるのは、あんたさんのそういうすらりとした受け答え。のれんに腕おし……とも違うな。そんなんじゃのうして、なんというたらようおますやろなあ。……そうそう、オランダ人形ですわ。これはうまいこと思いつきました。あんたさん、オランダの人形見たことおますか」
「ええ一度。居留地の阿媽《あま》さんの持っとらした小さか人形ば。……目ん玉の太うしてあいらしかったとですよ」
「あいらしゅうて、何処《ど こ》か冷とうおませなんだか」松蔵は腹匍《ば》いになって両肘《ひじ》を立てた。「博多や江戸の人形と違うのは、なんとのうよそ行きの感じでっしゃろ。今はあんたはんの持ち物やけど、いまにそうではなくなるでえという顔つきや。かというて特に愛想のわるいこともない。……あてにしてはまたえらいぴったりしたことを思いついたわ」
「うちの仕打ちがオランダ人形のごたるといいなさるとへ」
「仕打ちやおまへん。仕打ちなんていわはるとえろう角が立ってしまいますがな。……仕打ちやおまへんで。ほんまのこというと、あては半分半分のことをいうとりますのや。何いうたかてさらりと受け流す優しさが半分、あと半分は、此処から先覗《のぞ》いてはいけまへんという高札みたいなところ。……」
「高札とは、あの役所の立てなさる高札のことですか」
「そうや、奉行所の立てなさるあの高札や。……あんたはんの体には、目に見えん高札が立っておます。此処から先、足を踏み入れてはならんという御禁制の文句がな」
「上方のおひとは、そんげんふうに手綱をのばしたり縮めたりして、おもしろがんなさるとへ」
「あてはな、あんたがほんまのこと気に入りましたんや。それでついいらんことまで口にだしよる。あての悪い病や。いかんな、これでは反対のこと口にだしてしまう、右廻りやのうして左やと思いながら、気づいた時はもう手遅れ。何時もそうだす。……高札立てなはっとるなんやいうてしもうて、気分毀《こわ》しなはったと違いますか。……」
寝間での遊びを二重三重に楽しもうとでもいうつもりか、床急ぎなど下司《げす》のやることという身振りをあらわにしながら、松蔵はひとしきり自身で巧者と思い込んでいるような台詞《せりふ》を並べたてた。その癖、いざくら橋の体に触れる段になると、たまに与えられた餌《えさ》を存分にしゃぶりつくすという様子がありありと窺《うかが》え、その上あくの強さを芝居がかったふうに演ずるので、一層やり切れなかった。
もうすぐ朝飯を呼びにくる時刻だが、そうすると嫌でも主人と顔を合わさなければならぬ。無論、食事する場所は別だが、決まってそこに顔をだす太兵衛が、示しとも通達ともつかぬ話をするのが常であった。
もしも今度、稲佐行きの話がでればそれこそいい抜ける道はない。その前に七十郎と会って、心底を確かめることはできないものか。遣手《やりて》のさくに頼めば、一応手紙だけは届けられようが、それで男の気持ちが動くかどうか。
いずれにせよ、このまま黙っておればにっちもさっちもいかなくなる。ワシリエフという魯西亜《ロ シ ヤ》士官が何時まで滞在するかしれぬとしても、稲佐行きの烙印《らくいん》を押された後では、七十郎にそれを楯《たて》に取られても仕方はないのだ。
仕事向きが忙しいという七十郎のいい分を仮にそのまま信じたとして、それなら何時まで待てばよいのか。少なくともこれまで自分とのつながりからすれば、それ位は明らかにしておく義務があろう。それにしてもなぜ七十郎は、はっきりこれこれだと、納得できる便りでもくれないのか。
女房の死を境に、新しい連れ合いの話でも持ち込まれたのかもしれぬ。もしかして増屋の主人が仲に入り、そういうことになれば、丸山の遊女よりやっぱりどうしても、という段取りにでも。……くら橋のこともあるしな、しばらくはまあ模様見に時間をおいた方がよかろう、と誰かがいう。
くら橋の胸には、椛島町の廻船問屋で七十郎に相対するわけしりの言葉さえ、間近にきこえてでもくるようだ。
こいから先、大坂や博多で店の代理まで勤めにゃならん者が、丸山の格子を後添いにしたとあっちゃ、方々のきこえもなんだしな。そりゃ、長崎じゃそんげんこつはなかかもしれんばってん、よその土地じゃ女郎は女郎。どっちみちよか噂は立たんよ。……
よその土地と違うて長崎じゃまあ、丸山のたよしを女房にしたというても、後ろ指差す者はなか。そいでもちゃんとしたところの娘の話がでとる時に、わざわざ格子を選ぶ者はおらんやろう。娘さんでもおらんのならともかく、あとからきたおかしゃまは丸山からこらしたというても、なんとのうすっきりせんもんな。……
まあくら橋のことはなんとかなるとじゃなかか。なんというたっちゃ、丸山に勤めとる身じゃけんね。いくら義理のわるかというても相手は相手。そのうち居留地か稲佐の仕切りにでもなれば、その辺のところは自然と立ち消えにならんとも限らんよ。とにかく、今はじっとしておくこったい。顔を合わせればやっぱりそれはそれで情のうつるけんな。……
くら橋は片方の手を帯と着物の間に差し込んで、七十郎にだす手紙のことを思案した。切羽詰まっている今の事情を、それだけの文句にすれば、七十郎の腹もいずれかには決まるはずだ。それでもなお上っ面だけの返事しかくれないとすれば、その時はそれで考えようもある。
行儀のわるい足音を立てて禿《かむろ》が顔をだし、朝食のできたことを告げた後で、首をすくめるような恰好をした。
「ぺたんぺたん歩くなって、あんげんいわれとるでっしょが。また意地のわるかことをいわれても知らんよ」
「すみまっせん」禿は別段気にもとめぬふうにいい添えた。「お膳にめずらしかもんのっとるとですよ。何かわかりますか」
「めずらしかもん。……何かの日ね、今日は」
「いいえ。そいけんみんな、何事なといいよりますと。……ひょっとしたら大風でも吹くとかもしれんと、みんないうとります」
「阿茶《あちや》さんから貰うた菓子でもでたとじゃなかね」
「お菓子じゃありまっせんと。そいも朝からですけんね。何時もと同じ御飯と汁に、まじないのごたるとのつけられとるとですよ」
「何じゃろうか。……」くら橋は立ち上がった。「お菓子でもなかとすると……まさか牛の乳じゃなかとでっしょね」
「だんだん近うなってきた」
「何ね。勿体《もつたい》ばつけんといいなさらんね」
「阿茶さんの酒が盃一杯と、それにあみ漬け。これも盃一杯。おもしろかでっしょ」
「阿茶さんの酒とあみ漬け。妙な取り合わせたいね」
「阿茶さんの酒は一昨日の貰い物。いっぺん栓をあけたら早う飲まんと気の抜けてしまうといわれて、慌ててだしよらしたというとらした。あみ漬けも大方その口じゃなかとでっしょか。塩の塩梅《あんばい》で腐れかかっとるのかもしれんと。……」
「生意気ばいいなはんな」階段の手前でくら橋はいう。「そいでも阿茶さんの酒とは珍しかとたいね」
「ちんだよりもずっと、人参《にんじん》のごたる精のつくとらしかですよ」禿はいった。「さくさんのきいてきなはったことですけん、少しきらず(おから)のまじっとるという話ですばってん」
「ふとか声ばだしなさんな」
くら橋は禿と連れ立って階段を降り、膳の並ぶ定められた部屋にでた。一段と下がった場所には並女郎たちの幾人かがすでにきていて、彼女を見ると夫々膳の前に坐った。格子女郎は他に二人。蘭水で客に相伴するか、自分の部屋で食事をとる太夫《たゆう》は別格として、遅れる者は客がまだ残っているのだ。
褐色の色をたたえた盃は確かに膳の片隅におかれており、たまげることにそれは並の女郎にまで夫々つけられているのであった。それにあみの塩辛。普段の定められた昼食兼用の朝餉《あさげ》は一汁一菜と決まっており、その菜も大方ひじきと油揚げの煮しめか、汁で煮た大根や牛蒡《ごぼう》などであったのだ。たまに豆腐でもつけられておれば、天気がわるうなると互いに軽口を叩き合うものである。
それをどんな風の吹きまわしか、薬草の匂いのする珍酒とあみ漬けまで添えられていようとは。格子と並を問わず、遊女たちの口数はそれで弾む。
「あみ漬けなんちゅうとがあったとよね。思いだした」と、並女郎のつねよ。
「大層なことをいいなさんな」と、格子のいそ川がいう。「あみ漬け位、ああたはしょっちゅう戸町のひとに運んで貰いよるとじゃなかと」
「あらあ、戸町のひとがどんげんこつになったか、あねさんは知っとるでしょうが。……数えて二年はもう帰ってこんとですよ」反発するつねよの声も踊る。「行ってしもうた男を待っとっても仕様のなかとでっしゅ。……」
「あみ漬けを熱かご飯にのせて、ふうふういいながらぱきゃっと咽喉《の ど》に入れる味がたまらんとよね。……折角なら炊きたてのご飯ばだして貰いたかったと」と、下手から化粧を落とした色浅黒の小浦。
「そんげん気のきいたことばする筈もなかとよ。炊きたてのご飯なんぞ、もう何年越しに食べてはおらんとよ。みんなもそうでっしゅ」と、つねよはいう。
「そいでも、なして今日は、しょっぱなから凧揚げみたいなことばさすとやろか。……自分の金だして食べた覚えはあるが、あみ漬けの膳にのっとることはこれまで見たこともなか。もしかしたら、明日辺り、みんなして船に乗れといわれるかもしれんとよ」
「船に乗れ。そいはどんげんことね」
「船に乗れは船に乗れたい。エゲレスかフランスか、ひょっとすると近かうちに何艘も入ってくるとじゃなかね。そいば見越さんことには、とてもこんげんあみの塩辛というふうにはいかんとよ。此処のあんじゃえもんしゃん(兄左衛門・戯語、主人のこと)もちゃんとそこば勘定しとらすとたい」格子のいそ川はいう。
「それは誰にきいたとね。エゲレスやフランスが何艘も入ってくるというのはほんなこつやろか」
「みんなのお膳ば見てみんしゃい。人参より高か酒ば酔興でだしなはることはなかとよ。わけもなかとになんでだしなさるもんか。みんな、こん次にどんげんしろといわるることが問題たいね」
くら橋は小皿のあみ漬けを箸でつまみ、それを冷えたご飯の上にのせた。自分の金で購《あがな》えば、そう値も張らぬ塩辛に、これほどみんなが昂《たか》ぶるのは、矢張りこれから起こるかもしれぬ何事かに期待しているのかもしれぬ。
「ひょっとしたら、誰か名付にでもなったとじゃなかね。このお酒はその辺からでたとかもしれんよ」小浦はいう。
「誰かというて、誰が名付になったとね」と、いそ川。
「じゃなかでっしょか、というとると。そんげんこつでもなければ、何かしらん落ちつかんもんね。名付じゃなかったら、唐館行きの誰ぞ新しゅう決まったとじゃなかろうか」小浦はいう。
「唐館じゃのうして稲佐かもしれんよ」つねよは、ちらとくら橋の方を窺う。「あんじゃえもんしゃんの機嫌のよか時は、とにかく危なかとじゃけんね」
「稲佐かもしれんというとはどんげんことね」
いそ川がききただしても、つねよは返答をしない。その辺で何かひと口挟めばよいのだが、くら橋の気分は動かなかった。
「ほんなこつ、この酒は人参よりも効くとやろうか」もうひとりの格子女郎がとりなすようにいう。「すらごとじゃなかとなら、うちはあげたかひとのおらすとばってんね」
「朝っぱらからようぬけぬけと」小浦がそれに応ずる。「ぎやまんにでも入れて、そんひとのこらす時までとっときなはるとよか」
「しっかり蓋閉めて、それまでは誰にも触らせず、開かんと」
「ああたはすぐに話ばそこに持って行くとだけん、好かんと」格子女郎が声の方を向いてぶつ仕種《しぐさ》をする。
「あんじゃえもんしゃんはおいでにならんが、こりゃいよいよ今日は竜でも舞うとばい」
「竜ならよかばってん、雹《ひよう》でも落ちるとじゃなかね」
「竜か雹か。どっちみちこっちには俎《まないた》の上たい。人参でも飲んで覚悟ば決めときまっしょ」
稲佐行きのことにつねよが口を滑らせた以上、ワシリエフの話は皆に知れ渡っていると考えねばならぬ。だからこそ小浦もいそ川も、重ねてそれを追おうとしなかったのだ。くら橋は千切り大根を実にした味噌汁の椀を取って啜《すす》る。と、そこに主人の太兵衛がきた。
「今日ん晩は、鹿島のお客さんが五人ばかりあがらすけんな。みんな連れじゃけん、そんつもりで扱わにゃいかんぞ。庄屋さんたちの長崎見物たい。向こうからいいだすまで、ああた鹿島のひとじゃなかと、なんてきいちゃならん。割り振りはちゃんとはなから決めとくけん、ぬしたちゃ何も考えんちゃよか。ええと、……そうか、こんことはあとでよかったとじゃな。そいからもうひとつ、誰か椛島町の江津屋のことを詳しゅう知っとる者はおらんか」
今に部屋にこいといわれはせぬかと案じながら、七十郎の勤める増屋と同じ廻船問屋の名を挙げられて、くら橋は一瞬息を飲んだ。
「詳しゅうは知らんばってん、少し位なら……」と、いそ川。
「少しでもよかけん、後であたしのとこにきて、知っとることを話してくれんね」太兵衛はいった。「休まにゃいかん者はみんな早目にいうとかにゃいかんばい」
太兵衛はくら橋の名前を呼ばず、代わりにちらっと一瞥《べつ》した。