堺の商人と手代が帰った後、尾崎は主人太兵衛の部屋にいた。嘉右衛門から依頼された梶屋の一件のこともあって話を持ち出そうとする矢先に、向こうから呼ばれたのである。一見して、太兵衛の機嫌はあまりかんばしくなく、それでも顔付きだけは柔和に運ばれた茶をすすめると、昨夜からの客扱いをねぎらった。
「ちょっと話ばしておきたかことのできてな」太兵衛はいった。「そいできてもろうたと」
「うちも旦那さんに伝えたかことのありましたと」
「わたしにいいたかこととは何ね。そいから先にきこうか」
「よんべ(昨夜)、堺のお客からしっかい頼まれましたと。旦那さんは薬種問屋の梶屋ば知っとんなさるでっしょ。その梶屋のご主人に引き合わせる手筈ばしてくれんかといいなはったとですよ」
「引き合わせる手筈。……」染田屋の主人は首をかしげた。「こっそり会いたかとでもいいなさるとね」
「そんげんこつかもしれまっせんと。二人きりで半刻ばかり話し合いをする段取りば作ってくれんかという話でした」
「何か口実ば作って梶屋さんを呼び出して自分と会わせるようにしてくれ。つまりそういう話やな」
「はい」
「蘭水で会うといいなさったとじゃな」
「ええ」
「よかと。……その手筈は考えるとして、少しばかり面倒なことの起きよったとよ」太兵衛はいった。「ぬしは何もきいとらんね」
「どんげんこつですか」
「船乞食《こじき》の一件たい。さっき組頭さんのきて事情ば知らせてくれなさったけんわかったと。……あの又次とかいう男が溜《たま》り場にしょっぴかれたことは知っとるやろうが、そのことが元で考えようによっちゃちょっと気色のわるか騒動の起きよると。……騒動というにはまだ当たらんかもしれんが、黙って見過ごしとってよかかどうか、判断のつきかねるようなことが次々にでてきよるとよ」
又次という名も、溜り小屋行きも初めて耳にした事柄であったが、尾崎は黙って太兵衛の言葉のつづきを待った。
「昨日の明け方、浦上にある溜り場の土塀《どべい》に、狂歌めいた文句がひとつ貼《は》りだされとったそうな。かと思えばそれとおんなじ文句が立山御役所の近辺にも貼られとったというし……それにこれはまだ内々のことにして誰にも知らせちゃおらんが、梅園の天満宮の本堂にもそれらしきもんが、こりゃ直接墨汁で書かれとった。それがみんな、船乞食にかかわっとることばかり。……」染田屋主人はいった。「天満宮の文句はちっとばかり違うとるとかいうとったが、幸い見つけた者が早う組頭のところへ届けたので、今はもう跡形なしになったそうやが、どっちみち口に戸は立てられんやろうというとらした。……」
「どんげん文句の記してあったとですか」
「ええと、此処に書いてきたものを持っとるけん」
太兵衛は戸棚の引き出しから組頭の持参したという紙片を手にした。
「気に障る文句ばってん、きいてみたらよか。……」
蘭水にあがったら
臭かといわれたばい
又次はどぎゃんしゅ
どがんもされんたい
又次は船乞食
手鎖じゃ櫓もこげんじゃろ
「馬込郷の百姓が手に持ってひらひらさせとるとを、溜り場の役人が見つけてどんげんしたとかということになったらしか。そこん土塀に貼ってありましたとそん男が馬鹿正直にいうたもんだけん、かえって騒ぎがふとうなったとよ。こりゃみんなきいた話ばってんね。……それだけならまあ特別どうちゅうこつはなかったかもしれんが、その何というとったかひらひらさせとった男が、何かこう自分の方が責められとるごたる気持ちになったとみえて、あらんことを口走りよった。その百姓がいうには、昨日の晩に……ちゅうことは一昨日の晩になるばってん、得体のしれん男が何人も、溜牢《ためろう》のある馬込の在をうろちょろしとったとそんげんふうにいうたそうな。附近の者を調べてみると、確かにそんげん事実はあった。得体の知れん者たちというより、ありゃ船乞食の一統じゃなかか。誰かがそういうと、そうじゃそうじゃ、おるもそう思うとったと、相槌《あいづち》を打つ者もでてきて、矢張りそうか、このわけのわからん紙切れはその連中が貼り出したとかというこつになったと。……」
左肩に止まった小さい羽虫を尾崎は振り払う。
「狂歌かざれ言か知らんが、文句だけならまだよか。そいでも実際にそんげん文句を貼った者が何人もたむろしとるとなると、これはもうそいだけの話じゃなかごとなるけんねえ。蘭水という名前まではっきりでとるし、黙ってうっちゃっとくというふうにもいかんやろう」
「天満宮に書いてあったとはどんげんこつですか」
「そうそう、それをいわんといかんじゃった。……あてつけがましか文句ばってんね」
染田屋主人は眉をひそめた。年齢にしては若く見える丸顎《あご》の分厚な咽喉首に深い皺《しわ》が刻まれている。
焼き場がなかと死人は焼けん
船乞食がおらんと船のごみはだいが焼く
惣嫁《そうか》も太夫も股《また》ぐらはおなじ
又次ばい、又次ばい
「うちにはようわからん」尾崎はいった。「なしてこんげん憎まれ口ば叩かれにゃならんとですか」
「組頭もいいよらしたばってん、こりゃありふれた落書きとは違う。又次という男をだしにして、何か仕掛けとるのかもしれん。船乞食のくせに、ひとりが蘭水にあらわれて、ぬしを名差しにしたことも、ほかに目的のあったことじゃなかか。もしかすると、蘭水に対して何か思いもつかんことをもくろんどるような気もするとたい。組頭のいうとることをきいとるうちに、何かこうそんげんことを考えるようになってきたと。あん連中の仲間は、なかなか一筋縄ではいかんとじゃけんね」
「船乞食というのは、そんげん仲間の多かとですか」尾崎はいった。「櫓を漕《こ》いで廻るというとも、うちにはようふに落ちまっせんと」
「昔はただのほいと(乞食)やったとたい。おかで銭にならん時は泊まり船目当てに小舟ば漕いで、波の上から銭ばせびっとったと。客が銭ばほいとに投ぐると、そいばまたきれいに受けたりして、そいが珍しかちゅうて、まあそん時々の稼《かせ》ぎになっとったと。そのうち、何時頃からか客の投銭じゃのうなって、船の掃除や汚れ物の始末を引き受くることになりよった。時にゃ船乗りの身代わりになって、あれこれの雑用をやるし、船底の掃除や荷倉の整理まで加勢する者もでてきた。ひょっとしたことがひょっとすると、抜け荷の運び屋までやりよる。船の汚物桶《おけ》に仕込んどけば何ちゅうこつはなかけんな。……そいけん、船乞食というてもただの鼠じゃなかと」
「いま旦那さんは、そん人たちが思いもかけんことをもくろんどるかもしれんといいなさったとでっしょ。そのもくろみというとはどんげんこつか。そいば話してやんなっせ」
「そいはわたしにもわからん。組頭も頭を抱えとんなはった。ただ考えられるとはひとつ。一日んうちに浦上の溜り場と、そいから立山御役所の近辺に同じ貼り紙がでたというとは相当容易ならざる事件で、船乞食の中に、長州か薩摩の息のかかっとる者がおるかもしれんこと。もういっちょは、又次という男ば何とか溜り場からだそうとして、あれこれ騒動ば起こそうとしとるのか。馬鹿共が、騒げば騒ぐほど又次の赦免が難しゅうなるのにそれをわからんと、組頭さんもいうとらした。ほんなこつそうなら、それで心配もなかとやが、そうやろうか、そんげんこと位を考えとってよかとやろうかという気がわたしにはするとよ」
「船乞食の人たちに、ほかにもくろみがあるといわれるっとですね」
「そうたい。又次の赦免を望むならほかに道はいくらでもある。黙っとっても精々手鎖預かり位じゃろうけんねえ」太兵衛はそういうと咽喉にかかる痰《たん》を切った。「奉行所じゃいま、そのことで大分考えとらすふうで、大浦と戸町に屯《たむろ》しとる船乞食を徹底的に手入れしたらよかというお役人と、いやそんげんこつをしたらかえって騒ぎがひどうなって、かえって相手の壺にはまる。此処はひとつ穏便に又次を解き放つ方がよか、と二つの意見に分かれとっとげな。組頭の口裏にははっきりそれが見えたとよ。……そこで、こいから先が問題やが、ひょっとして又次が赦免になると、もう一度この蘭水にあがろうとするかもしれん。たとえいますぐ赦免にならんでも、何というか別の又次が乗り込んでこんとも限らん。そん時にどうするか。浦上の辺りをうろついとるように、ひとりや二人じゃのうして、五人も六人もおし寄せてくるかもわからんと。いきなり、店先にはあらわれんかもしれんが、天満宮にでも集まってじとっとがんばりでもされちゃ、どうにも仕様のなかごとなるけんねえ。……」
尾崎は冷えた茶をひと口飲む。組頭のきき込んできた知らせで、恐らく太兵衛は動転しているのだ。しかし、それよりもむしろ先程主人の口からでた梅園天満宮本堂に落書きされたという文句に彼女はこだわっていた。焼き場がなかと死人は焼けん。……
「ちょっとおききしてもよかとでっしょか」
「なんね」
「その又次とかいうひとが、うちを名差したちゅうこつは、後でききましたが……うちを名差したかどうか、そんげんことはどうでもよかとばってん、丸山にそんひとたちを遊ばせちゃならんというきまりでもあるとでっしょか」
「そりゃ決まっとるたい」染田屋主人は何をいうのかという顔をした。「並の客じゃなか。相手は船乞食じゃけんな」
「名前はそうでも、今じゃちゃんとした仕事ばしよんなさるとでっしょ。さっき旦那さんからきいたばかりのことをいうとは何ですばってん、船の掃除や雑用をして銭を稼いどるなら立派な仕事と思いますと。そいがなして目の敵にされんといかんのか、そいがわからんとです」
「ぬしは何にも知らんとたい」太兵衛はいった。「表向きに理屈をいえばそんげんこつになるかもしれんが、船乞食は船乞食じゃけんな。いまはいくら船乗りとかわらん仕事ばしとるというても以前は以前。すぱっと割り切るわけにはいかんとよ。……考えてみたらよか。以前、西山の刑場で囚人の胸を槍で刺し貫いとったもんが、魚屋になったからというて、はい、この鰯《いわし》はなんぼちゅうて買う者が何処《ど こ》におる。そうと違うか」
太兵衛の言葉は突然飛躍した。いや飛躍するというより、船乞食に対して最初からそんなふうに考えていたのかもしれない。西山の刑場で処刑が行われる時、丸山からつねに人夫が加勢に差し出されており、牢屋敷内の掃除も大方、丸山・寄合町の賦役だときいているが、その関係はどうなるのか。それよりも何も、以前隠亡の娘であった太夫が、此処に坐っているのだ。
「又次とかいうひとが溜り小屋につながれたとは、蘭水にあがんなさったというそれだけのためですと」
「そりゃそうたい。船乞食が身分を隠してあがろうとしたとだけんな。露見したからよかったようなものの、すんなりそのまま客扱いでもしておろうものなら、それこそ長崎中の物笑いたい。銭は大概分に持っとったというけんな。初手からそげんこつもなかろうが、万一ぬしが相方にでもなっとったらと考えると、今でも動悸《どうき》の打つごたる。そんげんふうにでもなっとったら、ほんなこつ火事よりもひどか仕打ちに会うとると」
太兵衛のいい分はあまりにも身勝手で偏り過ぎていると思いながら、又次の件に触れることが尾崎にはためらわれた。
「そいで、うちに何か用事のあったとでっしょか」
「用事はそれたい。今にも騒動の起ころうとしとるけん、しっかり気持ちば締めとかにゃ、どんげん難題の持ち上がらんとも限らんけんな。なんというても、又次という男は蘭水にきて、一度はぬしを名差したとじゃから、ちょっとでも揚げ足をとられんように、当分は外出もひかえた方がよか。そいばいいたかったと」
「気をつけますと」
「念のためにきいとくとばってん、ぬしは以前に何か、又次という男とかかわりを持っとるようなことはなかやろうな」
「どんげんことですと」
「いや、ただ念のためにきいとるとだけんな。通りすがりに怪しか男に声でもかけられたりしたかもしれんし、そんげんことでもあったら確かめとこうと思うたと」
「又次というひととは会うたこともありまっせん。そいでも、何もせんとに溜り小屋につながれて、哀れかと思うとります。……そいじゃこれで退《さが》らせていただきますけん」
立ち上がる尾崎を見て、太兵衛は何もいわず、ぷいと横を向いた。
尾崎は自分の部屋に戻ると、あまり好きでもないちんだをぎやまんの盃に注いで飲んだ。焼き場がなかと死人は焼けん、船乞食がおらんと船のごみはだいが焼く、という文句はそのまま、浜辺で黒い蝶と遊んだ童の自分と結びつく。
鼻の辺りに蕎麦《そ ば》滓《かす》を浮かせたいそ川があらわれたのはその時である。
「入りますけん」
「どうぞ」
「あ、矢張りくら橋さんはおんなさらんと」いそ川はうろたえるような声をだした。
「くら橋さんがどうかしんさったとね」
「何処に行ったとか姿の見えんとよ。さっきまでは手水《ちようず》かと思うとったばってん、何時まで待っても戻りなさらんと。そいでこうして、もしかすると此処にきとらすかと思うて……」
「何時から姿の見えんと。……ご飯の時はおんなさったとね」
「ええ、ご飯の時はちゃんと。……まさかとも思うけど、さくさんにでも知れたらそれこそ大事になりますけんね」
「さくさんより旦那さんでっしょ」尾崎はいった。「そんげんこつより、くら橋さんの出先が問題たい。何処そこに出掛けると、誰もくら橋さんからきいちゃおらんとね」
「大方察しはついとりますとばってんね、そこに行きなさったかどうか。……椛島町に行きなさったとならただではすまんごとなりますばい。まさかとは思いますばってん、そいば心配しとっとですよ」
「椛島町というと、増屋ね」
「そうですたい。あんじゃえもんしゃんにでも見付かれば、有無をいわさんごと稲佐行きになりますけんね。もしかすると見せしめにマタロスにやられんなるかもしれん。どんげんしたらよかもんでしょうかね」
「くら橋さんは無鉄砲なひとじゃなかよ。すぐその辺から戻ってきなさるかもしれんけん、あんまり騒ぎたてん方がよかと」
「そいでもさっき……」
「そいでも何ね」
「ご飯の時の顔付きがただごとじゃなかったとですよ。うちはそいば知っとるから……」
遣手の禿を呼ぶ声に交錯して、何処かで気怠《けだる》い笑い声があがる。くら橋は真に廻船問屋の番頭と直接会うために無断で外出したのか。尾崎の耳をかすかに捉《とら》えるほおずき売りの声。