降るとも降らずともつかぬ底の重い空気の漂う海辺を、くら橋は椛島町の廻船《かいせん》問屋を目差して歩いた。むろん増屋の七十郎に直接会って真意をただす目的だが、朝餉の膳に向かう時まで考えもせぬことであった。外出するならするでそのような手続きを踏まねばならなかったし、以前と違ってかなりの自由を許されているとはいえ、無断で丸山を出るには後に起こる事態を見越して、相当の覚悟を必要としたのだ。
いまなら引き返せると思わぬでもなかったが、くら橋の足は綱でもつけられたように前に進む。帆を下ろした荷船の乗り手たちが威勢のよい身振りで艫綱《ともづな》を繰り、岸壁に近づくもう一艘《そう》の荷船から船着き場に立つ男に、渋い張りのある声がかかってきた。
「おーい、島原の三栄丸たい」
「わかっとるぞお。早う着いて何より」
「潮も風もなあ、加減のよすぎて、暗かうちに着くとじゃなかかと案じとった」
「そりゃまあ、馬並み。……みんな待っとりますばい」
自分を見て七十郎はどんな顔付きをするか。まさか会わぬとはいうまいが、増屋への距離が縮まるにつれて、くら橋の胸は次第に動悸を高めた。幼い娘を間にした夫婦のかわす言葉が妙に耳をつき、さらにまた南瓜《かぼちや》を売る頬かむりした女の呼び声の口調まで気にかかる。
「南瓜はいらんとですか。餅のごたる味ですばい。……買うてくんなんせ、こんぶだしはいらんとですよ。煮干しででん煮るならもういっちょでん買うとればよかったと思いなるけん。……」
声は二人連れのひやかし客らしい男に向けられていたが、思いもかけずくら橋の目の前で、ひとりがいい値で買った。それにはむしろ連れの方が唖然《あぜん》としたらしく、ふっとそこに立ったくら橋を見ると、合点のいったように相手の肩をぽんと叩いた。
「あねさんもひとつ買うてくれまっせ。きれかほっぺたの落ちるごとうまかとですよ」
南瓜売りはすかさず声をかけてきた。
「いまはいらんと」くら橋はいった。
「わが、こんげん南瓜買うてどんげんするつもりか」
男の口調は明らかにくら橋を意識している。
「きれかひとば見ると、すぐふらぁとなって見境のなかごとなるとだけん」
「そんげん男こそ頼みがいのあっとよ」南瓜売りはいった。「きれかおひとばみて心を動かさんようじゃ男といわれんもんね」
「やられたじゃなかか」南瓜を手に持たぬ男がいう。「あきれたばい、ほんなこつ。わがのよか恰好しいには……あねさん、よかとならこの南瓜、貰うてくんなはらんね」
「おおきに」くら橋はいった。そこまでいわれては応待しないわけにもいかなかったのだ。「折角ですばってん、いま用事のあって行きよりますけん、いただけまっせんと。ご免してくださいまっせ」
ありゃ丸山のおなごたい。……くら橋は十数歩も歩いてからその声をきいた。増屋はすでに前方に見えており、心を決めるためと背後の目を逃れるために右側の道に折れた。迂回《うかい》して増屋に向かうためには船具屋や倉庫の並ぶ通りを一町程も廻り道しなければならぬ。
咄嗟《とつさ》のこととて、地味なつくりをする間もなく出てきたので、恐らく一見して丸山の女だと判明したのであろう。くら橋は絽《ろ》の胸元を掻《か》き寄せながらなるべく目立つまいとするかのような足どりで、束にした漁網の積んである店先にさしかかった。
「ふえっ、見ろ見ろ、しゃんす(情婦、転じて美婦)の通りよんなさるとばい。そんげんせいて(急いで)、何処に行きよんなさるとね」
無遠慮な声は暗い店奥から届いた。
「ありゃ丸山のじょろしたい。矢張り違うね、歩きぶりまであかぬけとる」
「怪しかぞ、ぬしゃなしていっぺんに丸山とわかったとか」
「そりゃああた、わからにゃして……」
くら橋は耳に栓をするようにややうつむき加減のまま歩調を早めた。折悪しく下駄の鼻緒までがゆるみかかっている。果たしてこのまま増屋の店先に立ってよいものかどうか。しかし七十郎に会う手だてはそれしかない、という混乱する気持ちを整理する間もなく、彼女はふたたびさっきと違う方角から増屋に近寄った。
店ではなく、横手の路地からでてきた年増《としま》に、くら橋はきく。
「増屋のおひとじゃなかとへ」
かぶりを振った女が不審な面持ちを露骨にあらわしながら顎をしゃくった。
「増屋はそこですたい」
「どうもすみまっせん」
くら橋は頭を下げたが、女が去ろうとしないので、思いを決して店の中に足を踏み入れた。広い土間の向こうに一段高い板敷きがあり、帳場らしい机の前に坐っていた二人の男と、左手で何やら箱の品物を扱っていた小僧が、一斉に顔を向けた。壁際に積み上げてある薦《こも》包みの荷にももうひとり年かさの男がいる。
「いきなり訪ねてきたりして、礼儀知らずばかんにんしてやんなんせ」くら橋はいった。「あの、番頭さんに用事のあってきたとですが、七十郎さんはおってでっしょか」
「番頭さん……」
いいかけた声に、傍らの男が制するようにかぶせた。
「番頭さんはおんなさらんとですよ。……ああたは何処からきなさったと」
「うちは染田屋のくら橋というもんです。それで、番頭さんは何時《い つ》戻ってきなさるとへ」
帳場の男はまたも目顔で相棒の口を封じた。
「旦那さんもおいでにならんけん、わたし達にはようとわからんとですよ」応待する男はいった。「もしよかったら言伝《ことづ》てでもきいときまっしょか」
「そいじゃ、旅にでなさったとかいうことじゃのうして、今日んうちに戻ってきなさることはきなさっとですね」
「主人にきかんとわからんとですよ、そいも。……」
薦包みの蔭《かげ》からでてきた男がしげしげとくら橋を窺《うかが》い、小僧が両の手を投げだすような恰好のまま、坐りざまの姿勢を変えた。
「ご主人は何時頃帰りなさるとでっしょか」
「わたし達にはどうも。……」男はいう。「染田屋のくら橋さんとききましたが、おいでになったこつはきちんと伝えときまっしょ」
「昼過ぎにでもまたきますけん、番頭さんに言伝てをよろしゅうお願いします」
おじぎをした体の向きを変えた途端、小僧が立ち上がるのを気配で彼女は感じた。とすると、奥に主人か七十郎のどちらかでもいるのか。染田屋のくら橋だと名乗る前に、帳場の男は忽《たちま》ちすべてを察する態度をつくったが、それ程、番頭七十郎と自分の関係を、あらかじめ警戒でもしていたのだろうか。
くら橋は店の外にでた。そうするより仕様がなかったのである。応待した男の物腰は明らかに自分を七十郎と会わせぬと思い決めた処し方であり、とすれば、増屋主人或いは七十郎を通じて、そうなった場合のことをかねて申し渡してあったと考えるよりほかにはない。
何かしら取り返しのつかぬことを仕出かした気もするし、それまでもしやと頼みにしていた壁が崩れる一瞬をこの目で確かめたような火花も散乱する。
そうか、矢張り七十郎は増屋の主人とぐるになって自分を裏切ったのか。傍らを通り過ぎる男の怪訝《けげん》な表情を見返すと、相手は慌てて視線をそらした。
「あんげなおうどうもん(横道者)はおらんとばい、ほんなこつ。何べんいうたっちゃ、いうたごとしよらん。あげくにゃあんた、おるの注文の仕方のわるかちゅうて、因縁つくるとだけん」
「おうどうもんというよりやだもん(強情者)たい。昔からそうじゃけん。ああた、多吉のおととが死んだ時のそうれん(葬式)ば知っとっとでっしゅが。あん時の多吉がどんげんことばしでかしたか覚えとるね。おととはだいの世話にもなっとらん。なっとらんどころか親戚《しんせき》中ば恨んで狂い死によった。そいけん、こがんそうれんばだしよったら草葉の蔭で眠るにも眠れんやろ。多吉はそんげん台詞《せりふ》ば吐きよったとよ」
「そりゃきいとるとたい。あん時、おるは用のあってちっとばかし早う帰ったけんな。そいでも、あとではっきりきいたと。恨みどころか、だいが薬代ば持って行ったか、米や野菜ば運んだか、そいも忘れていいたか放題のことをいう。おるはあん時そがんいうたとたい」
姿の見えぬやりとりは岸壁の下から、はっきりした声音となってくら橋の耳に入る。恐らく波止めに腰かけて小魚でも釣っているのであろうか。彼女は力の抜けた全身をたたみ込むようにして、修繕中の待合小屋にたてかけられた材木の蔭にしゃがんだ。すぐ鼻先に放《ほう》りだされた錨《いかり》にこびりつく海草の饐《す》えた匂い。
「選《よ》りも選って、そん多吉に惚《ほ》れたとじゃけんな。藤兵衛さんも頭の痛かこったい」
「惚れたというよりひっかけられたとじゃろ。お糸はそんげん芯《しん》の強か娘じゃなかし、ありゃどう考えても多吉が仕組んでお糸にいわせよるとばい。そうに違いなかとおるは睨《にら》んどる」
「そうかもしれんね」
「そうに決まっとるたい。……藤兵衛さんの方からいうと、何ちゅうても多吉のおととにゃ世話になっとるけんな。当たり前にいえば断わりきれん。どんげんしたもんか、次作さんのところに相談にきたというけんね」
「そりゃいかん。次作さんだけが多吉の味方たい。そいば知っとって……」
「そこたい、どうもわからん具合になっとるとは。藤兵衛さんがなして次作さんのところに相談しに行ったとか。もしかするとあきらめて多吉とのことばよろしゅうお願いしますと頼んだとやろうという者もおるし、その逆かもしれんという者もおる。……」
「多吉はあれで腕の方は立つ方じゃけんな。藤兵衛さんも案外まるめ込まれたのと違うか。……」
「どっちにしてもひと騒動起こるばい、こりゃ……」
くら橋は波止めの声に気取られぬように待合小屋の中に入って、古樽《ふるだる》に渡された板に腰をおろした。誰の目も届かぬところにひとりいたかったのである。どう考えてもさっきの応待のあれこれから推測して、七十郎と自分の間を裂きたがっているとしか思えぬ様子。しかし、これまでの関係からおして、一体そんなことができるものだろうか。一方的にただ会いさえしなければ消え去ってしまうという間柄なのか。
そういえば、今のこの場所でわずかの逢瀬《おうせ》を持つために待っていたこともあったのだ。もう何年も前の冬、体の加減がわるく二日続きの暇を貰い、その一夜を薬を取りに行くという口実で、七十郎を呼び出したのであった。
「危なかことばしよって、店に知れでもしたら大事になるぞ」
「よかとですよ、こんげんして、ちゃんと薬袋ば持っとるでっしょが。暇を貰うた時はかえって店におらん方がよかと」
「そいで加減はよかとか。そいが心配で仕事も手につかんごとしとったとたい。ちょうど堺の荷船の入っとったけんな。どうにもならんやったと」
「案じることはなかと。何時もの通りですけんね。病気にでもならんと、体も休まらんとでっしょが。……手の冷たか。今ん時刻まで仕事ばしよんなはったとですか」
「今頃ん時刻まではしょっちゅうたい。そいでも、ぬしの方が熱のあっとじゃなかか。少しの間でも会われて、おるの方はうれしかばってん、こんげん冷たか晩に歩き廻りよったら、それこそ具合のひどうなろうもん」
「なんとしてん顔ば見たかったとよ。ああたの顔の遠ざかると、うちはもうぼんやりなって何をしよるとかわからんごとなるとだけん。うちはああたのことばっかり思うて、そいだけを頼りにして勤めとっとよ」
「そりゃおるも同じたい。ちょっと一杯付き合わんかといわれても気の重うして行こうごともなか。あんまり付き合いのわるかとそれはそれでまたぬしとのことで何いわれるかわからんけん、三度に一度は飲みもするが、うまか酒じゃなかと。……そいでももうちょっとの辛抱たい。ぬしが年季の明けて、おるが博多の店でも預かることになれば、誰にはばかることもなか。ずっと一緒にくらすっとだけんな」
「博多に店ばだすというとはほんなこつね」
「そいば今旦那さんの考えとらすと。今のごと博多に行ったりきたりする位なら、どっちみちきちんと支店ばだした方が得策じゃけんね」
「そんげんことになったら、どがんうれしかかしれんね。博多の町には行ったこともなかばってん、ああたと一緒なら、掘っ立て小屋でもよかと。お菜を作るとはあんまり上手じゃなかけど、一生懸命習うて気に入るようにするけん」
七十郎はくら橋の肩を引き寄せ、痛い程の力をこめて抱きしめた。その折、提灯《ちようちん》の淡い明かりが海岸を通り過ぎたが、腕の力をゆるめようともしなかったのだ。……
いくら考えても埒《らち》はあかぬ。とにかく七十郎に会って心の証《あかし》を確かめなければならぬ、という幾十百遍も胸をつかむ言葉がまたしても頭をもたげる。待合小屋を覗《のぞ》いたひとつの顔がくら橋を見てぎくっとしたように一旦引っ込めた姿をふたたびあらわした。
「水ノ浦には此処《こ こ》の船着き場から乗るとでっしょか」
「ようと知りまっせんと」くら橋は答えた。「うちはちょっと休ませて貰うとるだけですけん」
「具合でもわるうあんなさるとね」
片方の目に眼帯をかけた男は、雨模様の天候だというのに草履をはき、股引《ももひき》に似たものを身につけていた。
「大方、歩き疲れでもしたとでっしょが、これば飲みんさい。気付け薬じゃけん唾で飲み込むとよか」
何時の間に取り出したのか、男の掌には数粒の丸薬がおかれている。船乗りとも町家の者とも見えぬ風態《ふうてい》に絡む有無をいわせぬ押しの強さと奇妙な優しさ。くら橋はいわれる通り、掌の丸薬を受け取って口に含んだ。
「そいでよかよか。じきに気分の直るとたい」
股引に似たものをつけた男はそういうと、すっと腰掛けの上に飛び上がり、意外なことを口にした。
「何かおもしろかこつの書いてあるが、こんげん紙ば誰が貼《は》ったとやろうか」
そういいながら、男は自分の懐からだした紙片を、くら橋の見ている前で貼りつけているのだ。ご飯粒を噛《か》み、それを糊《のり》にして。
「歌のつもりじゃろうかね、こりゃ。それにしちゃあんまり上手じゃなかごとあるが、文句はおもしろかと。こんげん場所に貼り出して、そいでもまあ物好きのもんもおるとたいね」
眼帯をした男はしゃあしゃあというと、自分の貼った紙片に書かれた文句を声をだして読んだ。
磔《はりつけ》台は丸山作り
土左衛門があがれば
船乞食《こじき》の面倒
さあさ、又次ばい
又次が太夫《たゆう》に惚れたとばい
「あねさんは尾崎太夫の噂《うわさ》ばきいとんなさるね」
「いいえ」
「又次という男が染田屋に上がって、追っ払われたとげな。銭はちゃんと人一倍持っとったというとに、妙ちくりんの話たいね」
男はそれだけをいい置くようにいうと、消えた。