大浦居留地にあるマックスウエルの館《やかた》を去った後、卯八は誘われるまま咲の家に寄って茶を馳走になった。近所の目もあるので長居はできなかったが、どっちみち今の時刻から井吹重平を探しても無理だと考えたからである。門屋に泊まったにしても、昼近くまでいることはまずあり得ない。
「茶漬けでも食べなさるね。碌《ろく》なお菜はなかばってん、ちくわでも買うてきまっしょか」
「いやいや、お茶だけでもう充分ですばい。朝の遅かったけん、まあだ腹も空いとらんし、遠慮はしまっせんと」
「そうね、そいなら……」
それでも咲は立ち上がると、次の間から芋餅の皿を運んできた。
「珍しゅうもなかとばってんね。ただこれにはちょこっと出島白の入っとっと」
「砂糖入りの芋餅ちゃ勿体《もつたい》なか」卯八はいった。「折角ですけん、ひとつだけいただきまっしゅ」
「そんげんこついわんと、いくらでも食べてくんなんせ。出島白というても匂い位のもんだけんね」
咲は卯八の碗に注ぎ足した。
「あのマックスウエルはゴロウルさんに憎まれとっと。最初のうちはゴロウルさんの尻尾《しつぽ》でも握っとるつもりで、何かしらんわるかことばちょこちょこ奉行所の誰かと蝙蝠《こうもり》みたいなこつをやりよって、それがゴロウルさんに知れたもんだから、にっちもさっちもいかんごとなったとよ。同じ居留地じゃけん、表向きは挨拶位しとっても、裏に廻ると、あんひとたちの間じゃそりゃかえって激しか火花の散っとると」
「ゴロウルさんちゃ誰ですか」
「あ、そう。ゴロウルさんはガラバさんのこと。前にそんげんいいよったもんだけん、いい方を間違えてしもうた。マックスウエルはガラバさんに憎まれとっと」
「そいでもガラバさんに会うたかとか、そんげんことばききよったじゃなかね」
「そいがあんひとたちの手たい。腹ん中ではどんげん煮えくり返っとっても、やあやあというて握手ばするとじゃけんね。マックスウエルはマックスウエルで、ガラバさんにつかまれとることのあるもんだから、どうしようもなかと。まあいうてみればなめくじを中においた大蛇とびっき(蛙《かえる》)たい。お互いどうにもならんと。人間も役者もガラバさんの方が一枚上手ばってんね」
「なめくじを間においた蛇とびっきか。遥々《はるばる》、海を渡ってきとっても、矢張り仲のわるかとはわるかとたいね。……」卯八は当たり障りのない相槌《あいづち》を打つ。「こりゃうまか。さすがに出島の砂糖ばい」
「気に入ったとなら、よかだけ食べなっせ」咲はいった。
「ほんなこつ珍しかもんばご馳走になった」
「遠慮はいらんとですばい。気に入ったとならみんなでん食べなはるとよか」
固辞する卯八に向かって、咲はなおもすすめる。卯八は蒲鉾《かまぼこ》風の形をしたひと切れを手にした。
「居留地におる異人も居留地におらん異人も、あんひとたちのすることにはみんな駈け引きのあると。駈け引きというより二重底というた方がよかかもしれんね。そこでお仕舞と思うとると、まあだその裏に仕掛けのしてあるとだから、なかなか一筋縄ではいかんとよ。そいばよう知っとらんと、どんでん返しば食うけん、卯八さんも気ばつけとった方がよか」咲はつづけた。「今日んことでもそうたい。マックスウエルは持って行った絵が一枚じゃなかことばすぐ見抜いたでっしょが。それで、あるだけみんな持ってこいというくせに、肝心の値段のことには何にも触れん。一枚いくらで何枚ならいくらで買うと、そいばはっきりさせとかんと、みんな持って行ったが最後、いい値に叩かれてしまうとよ。ひょっとすると威《おど》しにかけるかもしれん。おうちはまだあんまりひどかことに会うとらんからまさかと思うかもしれんばってん、マックスウエルはそんげん男よ。そいばいうとかんといかんけん、おうちに寄って貰うたと」
「親切かことばいうて貰うて」卯八は頭を下げた。「値段のことも決めずに、ほんなこつあたしもぼうっとしとったけんね。……ああたからそんげんふうにいわれると、しゃんとせにゃいかんと思いますばい」
「マックスウエルがもうすぐ長崎ば出て行くとは話したでっしょ。そいけん余計気ばつけとらんと……戻ってから払うなんちゅうてもその手に乗っちゃならんとよ。そりゃいずれ長崎に戻ってはくるかもしれんが、何時頃戻ってくるとか、そんげんことは本人しかわからんとじゃけんね。それっきりぴゅっと上海《シヤンハイ》ににでも行かれたらそれこそ手の打ちようもなかと」
「あんひとは上海に行きなはるとね」
「たとえばの話たい。堺か江戸か、それともいうたごと上海か、誰にもわからん。うちが知っとるとは、もうすぐ長崎からおらんようになるちゅうこと。そいしこ」
「あたしにゃ考えも及ばんが、そんげん、上海とか江戸とか隣ん町でん行くごと飛び廻って、よっぽど太か商売ばしよんなさるとでっしょね」
なぜか咲はその問いに答えなかった。いわずと知れたことというつもりなのか、しばらくして女は別のことを口にした。
「卯八さんに頼みたかことのあっとですよ」
何を、というふうに卯八は相手を見た。
「うちを井吹さんに会わせて貰いたかと。……いきなりこんげんことをいうても、どうかと思われるかもしれんばってん、うちの考えとることをできるかどうか、井吹というおひとにきいてみたかことのあるとよ。勿論《もちろん》会う時はおうちと三人で話し合いするとだけど、卯八さんにとってもわるか話じゃなかと思うとる」
「そんげんことなら今日のうちにでもよかですばい」
卯八は取りあえずそう返事した。居留地へ付き添いするのに単なる手間賃では不足になったのか、という思いがちらと横切る。そしてそれを見越したような女の言葉。
「おうちは何か妙に思いなさるかしれんばってん、ほんなこつのことをいえば、居留地の異人たちをうちはきりきり舞いさせてみたかとよ。向こうが向こうならこっちもこっちたいね。卯八さんにも今の何層倍も儲《もう》けて貰うごと、その手だては考えようじゃなかと。うちには前から思うとることのあって、そのためにはおうちだけじゃのうして井吹さんの力添えがいるとよ。卯八さんを通じてしかうちは井吹さんを知らんばってん、何かそんげん気がするとたいね」
「三人で組んで、もう少し太か商売ばやろうといいなさるとですか」
「そんげんいうてもよか。井吹さんというおひとが嫌といいなさるなら仕方のなかばってん、これから先、居留地相手の商売ばするつもりなら、いまもいうたごとうちには前々から考えとることのあるとだけん、そいば話し合うつもり。……居留地の異人たちが何ば考えとって、どんげん品物ば欲しがっとるか、うちだけしか知らんことのいっぱいあるとだけんね。品物だけじゃなか、居留地の抜け穴は大方知っとるつもりやけん、それを役立たせるとよか。……こりゃおうちにきくとばってん、井吹というおひとは頭のめぐりの早かとでっしょ」
「そりゃ、もう……」
卯八は押されるようにいった。
「今までの絵ば見てそんげん思うとった。こりゃただの絵描きじゃなかごたる。……うちはそんげんおひとば今迄《まで》探しとったと。その上、卯八さんまで組になるとけん、こりゃもう何とかに金棒になるもんね」
「わっつは……」卯八はいい直した。「あたしは付け足しばってん、井吹さんはただの絵描きじゃなかと見たとはよう当たっとりますばい。あんひとは並の者じゃなか。ああたとならよう気のあいまっしょ」
「もしうちの考えとるごとなるなら、卯八さんにも精一杯働いて貰わにゃならんとよ。そん代わり、働いた分以上のことは入ってくるとだけんね」
この女は本気で何かを仕出かすかもしれぬ。そういうことなら話は別だ。卯八はそう思った。
「そいで、井吹さんと会う段取りは、今日でもよかとですか」
「ええ、うちは何時でもよかとですよ。井吹さんの都合に合わせますけん」
「そいじゃあたしはこれで。……善は急げといいますけんね」
卯八は立ち上がって高下駄を履いた。
「井吹さんの都合ばきいたらすぐ知らせます。ひょっとしたら晩になるかも知れんとばってん」
「うちはかまわんとよ。晩でん朝でん……」
卯八は咲の家を出た。さてこれからどうするか。取りあえず門屋への道順に足を向けながら、彼は女の口からでた言葉の勢いに飲まれた自身を感じる。確かに咲の胸内にはただならぬものが含まれており、手間賃をどうのという了見ではない。
問題は井吹重平の態度だが、相手が阿媽《あま》上がりということで案外乗る気になるかもしれぬ。
と、横手の角に何やら身を潜める者の気配がして、卯八は番傘を振り変えた。昨夜と同様、もし尾行だとすると、今朝方からそれはもうなされていたのか。咲の家と大浦居留地、それにマックスウエル。それらしき影をまったく感じぬままの動きであるだけに、卯八は愕然《がくぜん》とした。
しかしまだそれと決まったわけではない。卯八は物忘れでもしたような素振りをして、いきなり今きた道を引き返してみた。すると案の定、不自然な足音がきこえた。
峰吉の手下にしては少ししつこすぎるが、何となくそれとは違う慄《おのの》きが背筋を走る。昨夜の今日、峰吉がそういう手段にでるはずもなく、マックスウエルという名前も恐らく上の方からきいたのだ。とすれば奉行所の探索方ということになるが、先程咲の口からでた言葉と合わせて、マックスウエルの館に乞われるまま版画を置いてきたことを、卯八は無性に後悔した。
朝からの尾行に気付かぬというのは、相手を相当の練達者だとみなければならぬし、それだけ執拗《しつよう》に彼の行動に目をつける以上、奉行所はきっと大きな的を狙っているのだろう。井吹重平か、それともマックスウエルの何かを。
卯八はわざと海辺の方に歩きだすと、船小屋の蔭にしばらくしゃがんだ。むろん、そこに彼がいることを尾行者は知っているはずだが、どういう撒《ま》き方をすればよいのか、それを考えたかったのである。どの道、向こうは咲と同道して居留地に行ったことも、帰りに立ち寄ったのも承知している。ただし、女とかわした話まではきかれていないはずだ。……
いずれにせよ、ありのままを井吹重平に伝える外はあるまい。卯八が心を決めた途端、天秤《てんびん》棒を担いだ男が通りかかった。
「塩辛ば買うてくれまっせんか。安う負けとくけん」
卯八が頭を振ると、今度は耳打ちするような声が届く。
「珍しかもんば持っとりますばい。ああた、煙草ば買いなはらんね」
「いらんと」
「普通の煙草じゃなかとですばい。ひと口吸うたら世の中のことがみんな極楽に見ゆっとですけんね」
「何ちゅう煙草な」
「何ちゅう煙草か、吸うてみたらすぐわかりますたい。そりゃもうわずらわしかことはいっぺんに吹っ飛びますと」
「そんげんいうなら吸うてみゅうか」
卯八はからかい半分にいった。窺う尾行者の前でじっとしゃがんでいるのも、見すかされるような気もしたのだ。
「此処には持っとりまっせんと」天秤棒を担ぐ男は意外なことをいう。「店先で売る煙草じゃなかとですけん、要心しとかんばいかんとですよ。塩辛売るついでにこれと見込んだひとの注文ば取っとりますとばってん、明日の昼、今ん時刻に此処にきなはるとよか。わかっとるでっしゅが、ひとにはいわんごと頼みますばい」
「値段は高かとじゃろな」
「値段のことなんかいうちゃおれまっせんばい。そんげん味のよか煙草ですけんな。なるべく余計に銀ば持ってきなはるとよか。それに見合うだけの分量ば分けますけん」
「明日の九ツ(正午)か」卯八は空に目をやった。「都合のつかんかもしらんけんな。四半刻《とき》も待っておるがあらわれん時は、銭のできんやったと思うたらよか」
「そんげんしますけん。わっつはああたを見込んで声をかけたとですけんね。これから先のこともありますけん、ひとには黙っとってくんなはいよ」
「わかっとる」卯八はいった。「そいでも銭のできん時は仕様のなかけんな」
塩辛売りが去ると、卯八は反対の方向に歩きだした。ああまで用心深く売ろうとする煙草というと、話にきく阿片でも混入しているのか。それにしても万一自分が奉行所の下働きでもしていたならどうなるのだろうか。ああたを見込んでと、天秤棒の男はいったが、綱渡りのような商いもあるものだと、卯八は首をすくめた。
ゆっくりと動きだした三十石船の傍《そば》に、ぴったりとくっつくようにして伝馬船を漕《こ》ぐ男がしきりに手を振っている。
尾行者が自分の名前も家も知っているのなら、今更慌てる必要はない。峰吉の下っ引になれば難を逃れられるという思いと、咲の提案した井吹重平と組になる仕事についての思案が入りまじりながら卯八の胸に迫る。
空の荷車を引く男たちが三台も続いて彼を追い越し、道路脇に瓦を積み上げた店から、背をかごめた年寄りの男がひょっこりとあらわれた。尾行者はまだ気配を示していないが、彼が岸壁の道を折れた瞬間、きっと姿を見せるはずだ。
荷上げ場に近い海岸を素早く右に曲がると、突き当たりは諸式屋になっており、卯八はさらにそこから右手に急いだ。つまり迂回して歩いてきた方向に戻ったのである。狭い路地に向き合わせにしゃがんでいた女たちが慌てて立ち上がる前を突っ切り、旅籠《はたご》屋の裏手にでると、今度は駈け足で木橋を渡る。
寄合町通りにある門屋までの道程を、殆ど路地や抜け道を屈折しながら、卯八はかなりの時間を使って行きついた。それでも撒けなかったとすれば仕方がないし、或いはあらかじめ門屋だと推量して先廻りしているかもしれない。
小萩はちょうど自分の部屋にいた。片側の窓を開け放つと禿《かむろ》にいいつけて冷やした茶を運ばせた。
「どんげんしなはったと、息ば切らして。あんおひとに何か変わったことでも起きたとじゃなかと。ひと晩中心配しとったとよ」
「そうするとよんべは此処じゃなかったとですか」
「何もいわずに出て行ったなり戻ってきなはらんやったと。ようべ(昨夜)卯八さんとは会いなはらんやったとね」
「よんべはあれっきりですたい。……そうか、よんべ此処におんなさらんやったというと、面倒なこつになるな。いま何処におんなさるか、わからんとでっしょね」
「それはうちの方がききたかと」小萩の口調は普段と少し違っていた。「あんおひとが戻るとも戻らんともいわずに黙って出なさったり、それこそ梨の礫《つぶて》ん時にゃ、決まって妙ちきりんの騒動に巻き込まれとるか、おかしか女に引っかかんなさっとるとよ。うちの胸には見らんでもわかっとるごとぴーんと響くとだけんね。……」
卯八はそれに直接応じなかった。
「卯八さん、ほんなこつああたはようべ、旦那さんと一緒じゃなかったとですね」
「すらごとばいうてどんげんしますか」卯八はいう。「井吹さんにゃ戻れん都合のあったとでっしょ」
「そりゃそうたいね。戻ってこれんわけのあんなさったからこそ、帰ってきなはらんやったとやから」
「そげん意味でいうたとじゃなかとですよ。だいか古か知り合いにでも会いなさったかもしれんし、そん位のことはわかってあげなはらんと」
「あんおひとのわるか癖はうちがいちばんよう知っとると」
「ああ、あたしも一遍でよかけん、丸山のきれかひとからそんげんふうに思われてみたかな」
卯八の冗談にも切り返さず、下ぶくれの白い面から愁いの消えぬ小萩。