三宝寺の境内から山手の墓地に向けてせりあがる木蔭のそこだけ乾いた石段に息を休ませながら、きわは弾む胸を抑えかねた。昨夜からのことが夢か幻でも見ているように感じられ、体の強張《こわば》った個所を意識しながら、いやこれは実際に起こったことなのだと、幾度も自分にいいきかせた。井吹重平の所作を考えただけで、頬が火照る。
朝餉を兼ねた昼食をとった後、しばらくしてから茂木屋をでた井吹重平は、きわを同道して古書店を訪ねると、小料理屋のおかみに話をつける筋道の一切を、左内に依頼したのであった。借金は二両というが、都合によってはましをつけてもかまわぬし、現に働いている者を勝手に引っこ抜くのだから、相手のいい分をなるべく通すように、といういい方をした。
まだ充分得心のいかぬ顔つきで、言葉だけはまかせておきなっせという左内に、井吹重平はさらにいい添えた。
「そいからな、これもぬしに頼むのがいちばん手っ取り早かけん、頼むとばってん、英語と医学ば初手から教えてくれる塾ば探しとるとたい。ぬしに何か心当たりはなかね」
「英語と医学ばですか」左内は頭をかしげる仕種《しぐさ》をして井吹重平を見た。「ようべから大分風向きの変わっとることばかり考えなさったとですね」
「おれじゃなかとぞ」彼はいった。「間違わんごとしとらんと。習うとはこんひとじゃけんな」
「そりゃまた……」古書店の主人は語尾を上げた。「きわさんが習いなはっと。……どんげんしてそがんこつに」
「おれの女というとは変わらんとたい。こんげん世の中の動いとる時に、男でん女でんじっとしとくわけにもいかんやろう」
「耳の痛かことばいわす」
「おれがいいだしたことじゃなか。医学ば習いたかというとはこんひとの望みたい。医学をやるなら英語もやった方がよか。おれがそういうたと」
「そんげん話なら、それもいっちょう頼まれてみまっしゅか。医学なら何ちゅうても小島の医学所ですばってん、ただそこに女が入るわけにもいかんし、とするとどんげんこつになるか、その辺のところを調べてみまっしょ。……オランダ語だけでよかとならいくらでん知っとりますばってんね」
「医学はまあオランダ語ちゅうことになろうが、こいから先は矢張り英語じゃけんな。両方やるっとならなおよかたい」
「小島養生所に寄宿(入院)しとる患者さんのいっぱいおんなさるとでっしょ。そん人たちば治療なさる実地ば見たかとですけん、薬ば作るところの見習いでも生徒さんたちの手伝いでんよかとですよ。勉強の見習いができればいちばんよかばってん、そいができんとなら……」
きわが言葉を挟《はさ》むと井吹重平は膝《ひざ》を打った。
「そういう手があっとばい。このひとはほんなこつ回転の早かけんね」
「わかりましたと。どんげん方法のあるか、英語の方も当たってみまっしょ」
「うちはうれしかと。昨日から何もかんも……」
「手放しじゃけんな。……目のまわるごたる話ば持ち込まれた上に、熱々の空気まで吹っかけられちゃたまらんですばい」
きわは傍においた色とりどりの夏菊と傘を手にして立ち上がると、石段を踏んで行った。丘の頂に向けてかなり急勾配《こうばい》に上がる狭い坂道の両脇には、夫々《それぞれ》の段ごとに石や土塀《どべい》に囲われた墓が無数に建っており、母親の墓は中腹よりやや上段の大樹の枝葉に被《おお》われた薄暗い奥手にあった。
やきものの花立ての中でしおれた百日草を、持参した花束に取り替えると、おかしゃま、今日は何時ものうちと違うとよと、心の中で呼びかけながら合掌した。
ずっと前からうちの考えとった通りのひとから女にして貰うたと。おかしゃまもよろこんでくれなはるとよか。そんひとというのはただの旦那さんじゃなかと。本ばいっぱい持っとんなさって、うちにもどんげん勉強ばしてもよかといいなさると。……おかしゃま、おかしゃまのおかげでうちはふのよかことにめぐり会うたのかもしれんね。たったひと晩のうちに、まわりのものがみんな変わったごと、うちにはそんおひとを好きでならんごとなってしもうた。おかしゃまならうちがどんげん位うれしかか、隅の隅までわかるとでっしょ。……
膝を折ったまま、巡ってきた幸せにひたるように、きわは目を閉じていたが、糸浦という遊女名を持つ母の声は、生きているかのごとく彼女の胸奥に届く。
十歳の正月を迎えたばかりの頃、母親はひと言ひと言噛んで含めるような言葉で、こういったのである。
よかね、今いうた通り、あんたのおとしゃまの名前は楊達新といいなさって、唐船の帳面方ばしとんなはったと。そりゃ心のひろかひとで、料理するとのひどう上手だったとよ。
帳面方のひとが料理ばつくんなはったとね。
そうたい。唐船に乗っとったひとは、大概料理ばつくんなはった。玉子でも蟹《かに》でも、珍しか料理ばこしらえなはったと。そん中でも特別、あんたのおとしゃまは上手じゃった。……砂糖ばいっぱい使うて、色のついた飴《あめ》まで作りなはったとだけんね。
そんおとしゃまは今何処におらすと。
唐の国に帰らしたなり音沙汰の跡絶《とだ》えたとたい。唐館の誰にきいてもはっきりしたこつはわからん。何か遠か国に行ったのかもしれんという者もおれば、病気しとるという者もおる。そいかというてどっちにも証拠はなかとよ。うちが思うには、達者であればきっと長崎に戻ってきなさる。今まで戻ってきなさらんとは、何か起こったに決まっとる、時化《し け》のために船がどうにかなったか、それとも南蛮辺りの港ではやり病にでもかかりんさったか。どっちにしろ、難儀なことになったとに違いなかと。
長崎には何時までおりんさったとね。
だいのこと。
おとしゃまのことたい。長崎におらした時のことをきいとると。
お前が二つになる時までおらしたと。そいまで二度も唐の間を行き来して、夏に長崎を出て行ったきり、そいからぱたっと便りもなかごとなってしもうたとよ。
おとしゃまはもう帰ってきなさらんとやろか。
それは誰にもわからんと。そいでも、戻ってきなさらんと考えとった方が気持ちだけでも落ち着くかもしれんね。何時戻ってきなさるとか、今か今かと考えとったら、それだけでも気持ちのもたんようになるとじゃけん。
もしも帰ってきなはったらどんげんするとね。
何のことばいいよると。
もしも帰ってきなはったら、矢張りうちのおとしゃまになるとでっしょ。
そりゃ決まっとるたい。あんたのおとしゃまはひとりしかおらんとだけんね。ほかに誰があんたのおとしゃまになると。
おとしゃまが帰ってこらしたら、あいの子といわれずにすむとやろか。
そりゃ違う。あんたのおとしゃまは唐のひとやから、戻ってきてもきなはらんでもあいの子といわるっとは仕様のなかたい。そいでもあいの子がわるかわけはなか。これは初めからそんげん星の下に生まれとるとだけん、今更逃れようもなかとよ。……きわのおとしゃまはうちを心の底から好いとんなさった。そいけんうちも好いて返した。人間ちゅうとは長崎でん唐でん、そいでよかとよ。初めからそいだけの中でしか生きとらんとだけんね。
足音のようなものがきこえてきわは振り向いた。しかし空耳だったのか人影は見えず、尾の長い鳥が一羽、卒塔婆《そとば》の蔭から飛び立った。
きわが十一歳になった秋、それまで寝たり起きたりしていた母親は死んだ。近所の子供から労咳《ろうがい》だといわれて叔父にきくと、恐ろしい見幕で「そがんこつはなかと」と怒鳴られたが、もしかするとそうであったのかもしれなかった。
以前母親と一緒に寄合町の肥前屋に奉公していたという、きわも顔知りのみねが焼き場まで付き添ってきて、仕度された酒に酔いでもしたのか、糸浦と同様唐人の子を生んだ花の井の話を語った。
「きわさんより半年ばかり後じゃったかね、花の井さんは女の子を生みんさったとよ。相手のひとは唐船の総代で林友春というと。もう何年も前から唐館に住んどらしたけん、花の井さんも大方そこでくらしとんなさったとたい。……そいでん、出来事は何もかもいっぺんに起こるもんで、花の井さんがその時くまという女の子ば生みんさった年の九月に、林友春というひとも亡くなんなさったと。……そう、女の子の名前がくまというとたい。確か花の井さんの弟の貰い切りにしなさったとよ。そういうても、生まれた年の翌年にその娘も死んでしもうたとやから、矢張り運のわるかったとかもしれんねえ。疱瘡《ほうそう》にかかったというとんなさった。……」
みねはきっとより不幸な話をして、残されたきわを慰めるつもりだったに違いない。唐船の総代であった者に囲われてさえ、そういう難儀がつきまとう、と。……それから二年ばかり経って、みねもまた死に、人々はそれもまた労咳だと噂した。
きわの血管にすっと黒い雲が走る。労咳のことを考えるたびに何時も不安な感じがつきまとうのだが、今は一層波立つ。
おかしゃま、ときわは祈る。
うちが労咳にならんごと、守っとってくんしゃい、ずっと前、労咳にでんかかっても早くおかしゃまのところに行きたかというたとは、取り消しますけんね。うちの勝手我儘《わがまま》な頼みば許してくれまっせ。うちはいま病気になりとうなか。もしどんげんしても労咳にかかるごとなっとるのなら、あと五年でよかけん、今のままでおりたかと。……
気配を感じてそちらを向くと、つい間近に女が立っているので、きわはびっくりした。矢張り先程の足音は事実だったのか、女も手に桃色と薄紫の夏菊を持っている。それに傘。
「雨の上がってちょうどよか塩梅《あんばい》になりました。そいでんまた降りますばい、こりゃ。……」
「はい」きわは受けた。
「おまいりなさって、仏さんもさぞよろこんどんなさるでっしょ」
「おおきに」
「ようべ、枕もとにあんしゃま(兄)の立ったとですよ。頭の痛うして眠れんといいなはるけん、どんげんしたらようなりますかってきいたら、すうっと消えて行きよらした。……海の底でも眠れんことのあっとかと思うてきましたと」
「海の底といいなはったとですか」
「そう、海の底ですたい。すぐ目と鼻の先に雪ノ浦の見ゆるという時に、船もろとものまれてしもうたと一緒に乗っとったひとのいいよらした。今更いうても取り返しのつかんことですばってんね」
「達者な時に亡くなられると、余計にこたえるとでっしょね」
「おうちにいちばん近かおひとは誰ね」
「此処にはおかかのおるとです」きわはいった。「もう大分以前に亡くなったとですばってん」
「おかしゃまのおってね」
女は花と番傘を小脇に抱えて掌を合わせた。
「お礼をいいますけん」
女はその時、きわの容貌に気づいたらしく、一瞬見返すような表情を浮かべた。
「花のきれか」女はいった。「こんげんして何時までも慕うて貰うて、おかしゃまはさぞよろこんどんなさるやろ。……ああたのいくつの年に亡くなりなさったとね」
「十一の時です」
「十一」女はいった。「そりゃまあ、よっほど心残りやったろうね」
女がさらに上段の道に去った後、きわはしばらくぼんやりとそこに佇《たたず》んだ。古書店の主人は今頃小料理屋のおかみとどんな話をつけているだろうか。いずれにせよ申《さる》の刻(午後四時)、もう一度左内に会い、連れ立って挨拶し、おかみとの間に成立した手筈と条件をきくことになっているが、理由もなく動悸がするのは、昨日と今日の間にあんまり違う灯籠《とうろう》が廻っているせいだ。
女の上がってきた反対側の道まででると、竹藪《たけやぶ》と楠《くすのき》の枝葉を前景にして、連なる屋根の向こうに白く帯のような海が横たわっている。今宵《こよい》ふたたび茂木屋で井吹重平と会う約束も胸騒ぎのひとつなら、その裏に母の死因も重なるのだ。
母の死ぬ間際、何とかボートル(バター)を求めたことをきわは知っている。突然母がそういいだして、それまで手放さなかった袋の銀を叔父に差し出したのである。しかしコンプラ仲間の手代を通じてわずかばかりのボートルが手に入った時、すでに母はこの世にいなかった。
叔父と叔母がそのボートルをどんなふうに始末したかは知らぬが、労咳の妙薬であったらしいことは当時のきわでもおぼろげながら了解できた。
牛の乳を固めて作るというボートル。いざとなれば何としてでもそれを購《あがな》うのだ。大浦にできたという牛肉と牛乳を扱う店に頼んでおけば、或いは蘭館出入りの商人よりも値段も手間も少なくてすむかもしれない。
それこそ牛の乳のように漂う海を望みながら、きわの脳裡《のうり》にはあらゆる思いが次々にあらわれては錯綜《さくそう》する。
小島養生所に寄宿するためには、金持ちが一日に銀六匁、普通は二匁五分。通う場合は診察と薬料のみを払えばすむ。そして大抵の難病は薄紙をはぐように治るのだ。昨日まで働いていた小料理屋にくる客の話すのをきいて、きわはそれを知っていたが、すると労咳も養生所に行けば治すことができるのだろうか。
「そりゃもう押すな押すなの盛況たい。長州や四国の高松からまできとるというけんな。ポンペという蘭方医のおった時はああた、そんひとがさらさらっと紙に書いたもんば渡しただけで、そいまで七転八倒だった病人がけろっとしたごとなるというとだけん、銭金にゃ替えられんとよ」
「そいでも今は、そのポンとかいう蘭方はおらんというじゃなかね」
「ポンペはおらんでも、ポンペから習うた者がおるたい。押すな押すなしとるとは今のことだけんな。ポンペの時からいっちょも養生所にくる者の減らんということは、病気の治し方も変わらんということやろう。一カ月ばかり前じゃったかな。生まれてすぐ死にかかっとる赤子まで助かったというばい」
「ぬしは、養生所から一杯飲ませられたのと違うね」
「ほんなこつのことやけん仕様のなかと。まあ見物するだけでもよかけん、いっぺん行ってみるとよか。そこにきとる病人がみんな診ても貰わんうちから助かったという顔ばしとるけんな」
「診ても貰わんうちに助かるとならそんげんよかことはなかたい。ぬしは話のうまかばい」
「高松くんだりから遥々訪ねてきて、あん建物ばみたら、そいだけでほっとするとよ。おるたちは土地におるけんかえってありがたみのわからんと」
「ぬしは矢張り怪しかぞ。ポンさんからぽんと肩ば叩かれとる」
板場まで筒抜けに入ってくる客のやりとりをきわは身を固くしてきいたのだが、その時の緊張が今も続いているようだ。
茂木屋の夜。きわは再度墓の前に戻って自分の差した夏菊をじっと見つめた。おかしゃま、うちに力ば貸してくんしゃい。うちはどんげんしてでも旦那さんのよか女になりたかとだけん。おかしゃま、うちはいちばんあのおひとの好いとらす女になりたかとよ。……