くら橋の無断外出はすでに染田屋の隅々まで知れ渡っていた。それ程波風立つ気配が表にあらわれぬのは主人太兵衛の言い付けによるものであった。使い番の男と遣手《やりて》のさくが探しに行ったという話が囁《ささや》かれており、七十郎の名前もむろんそこに絡まっている。阿茶《あちや》さんの酒とあみ漬けのために起こったみんなの昂《たか》ぶりも宙ぶらりんになっていて、女たちの顔には今ひとつの物足りなさと落ち着かぬものが漂う。
遣手上がりのしげが、忍び足で尾崎の部屋に入ってきた。賄方と時々の雑用を勤める五十過ぎの女で、不意の金でも必要な折、しげに頼むと金貸しへの橋渡しを引き受け、必ず都合をつけてくれた。何のことはない自分の銭を貸し付けているのだという者もいたが、普段のくらし振りからみてそれも信じかねる。
「太夫《たゆう》さんにこんげんものば預かってきましたと」しげは小さく折り畳んだ文を帯の間から取り出した。
「誰から頼まれたとね」
「名前はわからんとですよ。うちが通りよったらすっと寄ってきて、こいば太夫さんに届けてくんなはらんかと渡されたと。いやも応もなかとですよ」
「どんげんひと」
「ようとわからんやったとばってん、普通の町方のひとのごたる恰好ばしとらした。うちにこれば渡すとあっという間に向こうの方に行きなさったから、うちはぽかんとしとったと。……そいじゃきちんと届けましたばい」
しげの足音が消えても、奇妙に言葉だけは尾崎の胸に残った。普通の町方のひとのごたる恰好ばしとらした、というのはしげ自身そこにこだわっている証拠になろう。町方の者ではないと思っていたか、あらかじめ考えていたからこそそういう言葉を口にしたのだ。もしかすると、この文を預ける時、船乞食《こじき》の何とかからと、或いはそれに類することを伝えたのかもしれぬ。それに添えてしげの手にはきっと銀粒でも握らされたに違いない。
尾崎は膝の前の文を手にして開いた。
七ツ、大音寺裏の墓地に待つ。又次ゆかりの者
手間は取らせぬゆえ、きっと。
太兵衛が難題の持ち上がるかもしれんといったのはこのことか。尾崎は筆太の字をもう一度辿《たど》りながら、締めつけられるものを感じた。恐れではなく、何かしら待っていたものがあらわれるような気がしたのである。
主人に知らせる気持ちはなぜかない。こっそり自分に運んだ手前、しげは大丈夫。七ツ(午後四時)、大音寺裏までどのようにして足を運ぶか。そう遠くない場所とはいえ、そこに行く口実とみなりをどうつくろうか。難題といえばそれだが、なんとかなろうという心は別に動く。
二つ折りにした文を手箱にしまい込むと、尾崎は窓辺にでてどんよりとした空を見上げた。今のまま小雨が降りつづいてくれれば、傘の蔭《かげ》に何とか身を隠すこともできよう。着る物は用意するとして、外出するためのいいわけがむずかしい。
「又次とかいうひとが溜《たま》り小屋につながれたとは、蘭水にあがんなさったというそれだけのためですと」
「そりゃそうたい。船乞食が身分を隠してあがろうとしたとだけんな。露見したからよかったようなものの、すんなりそのまま客扱いでもしておろうものなら、それこそ長崎中の物笑いたい。銭は大概分に持っとったというけんな。初手からそげんこつもなかろうが、万一ぬしが相方にでもなっとったらと考えると、今でも動悸《どうき》の打つごたる。そんげんふうにでもなっとったら、ほんなこつ火事よりひどか仕打ちに会うとると」
主人の部屋でかわした言葉が冷んやりと背筋をよぎる。そこに行くと決めた自分を試すように、尾崎は太兵衛の「あてつけがましか文句」といった紙片の文字を反芻《はんすう》してみた。
焼き場がなかと死人は焼けん
船乞食がおらんと船のごみはだいが焼く
惣嫁《そうか》も太夫も股《また》ぐらはおなじ
又次ばい、又次ばい
「その又次とかいうひとが、うちを名差したちゅうこつは、後でききましたが……うちを名差したかどうか、そんげんことはどうでもよかとばってん、丸山にそんひとたちを遊ばせちゃならんというきまりでもあるとでっしょか」
「そりゃ決まっとるたい。……並の客じゃなか。相手は船乞食じゃけんな」
船乞食を相方にするのは、火事よりもひどい仕打ちに会うことになるといえば、隠亡や墓守はどうなるのか。自分の仕事や商売を隠して遊ぶ客についての小噺《こばなし》が必ずどの宴席にもついてまわるのだが、尾崎はそれをきくたびに、白い歯をむきだしにしながら手を叩きあう男たちの無神経な笑い声から顔をそむけた。
いかけやと地金屋が遊びにきたとたい。どっちもしがない商売じゃけん、丸山じゃ何ばしとるとはいわんという約束ばして揚屋にあがった。店の一軒も構えとる振りして二人ともよか気色になって遊んだと。
そいから幾日か経って、地金買いが商売にでとったら何時《い つ》の間にか足が丸山の方に向いとった。じがねえ、じがねえと呼び声をかけながらふっと気がつくと、この前遊んだ揚屋の近くにおる。こりゃいかん、先夜の相方にでもみつかったら尻が割れてしまう。
そこで地金買いは頭からすっぽり手拭いで頬かぶりして、黙って通り過ぎようとすると、
「地金屋さん、地金屋さん」という声がかかってきた。
「地金屋さん、ちょっとあがって行きまっせ。地金屋さん」
地金買いはどきっとして見るともなくその方を見てしもうた。なんとそこにいかけ屋の相方になった女が手招きしとる。女としちゃ何のことはなか、地金を入れた籠を肩にしとる男をみて「地金屋さん」と声をかけたとばってん、脛《すね》に傷持つ男の地金買いは、あん畜生がばらしたかと考えてかっとなったと。
「おいが地金買いだと教えたとは、あのいかけやじゃろ、ちゃんと知っとるぞ」
地金買いはそんげんふうに怒鳴ると、一目散に逃げて行きよったと。……
地金屋といえば、何時もぼろ買いの蔵多を尾崎は思い起こす。田平から長崎にきたばかりの頃、筋を切ったという足を引きずりながらぼろや地金を買うおもしろい男。字は違っても父親の庫太と同じ音なのですぐ覚えられた名前であったが、人々はその男がくるたびに「火の玉のおとろしゅうなかね」とからかった。
嘘か真《まこと》か、蔵多というぼろ買いは、崇福寺裏手の山腹に段を作る墓地奥の掘っ立て小屋に住んでいるという話だったのである。男は別に否定もせず、ただにやりとするだけであったが、ある日、如意輪寺近くの町角で、加代はばったり出喰わしたのだ。加代とは尾崎の禿《かむろ》時代の呼び名だ。
「たまげた。そんげん鉄砲ん玉のごと当たってきよったら、わっつはひっくり返るばい」
「なして鉄砲ん玉ね。普通のごと歩いとったとに」
「よかとこで会うたけん、いっちょう珍しかもんばあぎゅうかね。……」
蔵多はそういうと、肩に担ぐずだ袋の中から布財布を取り出した。珊瑚《さんご》細工の小さい珠。
「ああたにあぐるけん、しまっとくとよか。簪《かんざし》にしてもよかし、オランダのごつ胸に下げてもよかと」
「きれか」加代は押しつけられた珊瑚の珠を掌の中においた。「そいでもなして、こんげん大切なもんばうちにくれなはっと」
「早う仕舞《しも》うとくとよか」蔵多はいった。
「前からああたにやろうと思うとったとたい。珊瑚ん珠は縁起ものじゃけんな。何でも辛うしてたまらん時に、何とかしてくんしゃいと祈れば辛かことも何もすうっと消えて行くと」
「そいでもなして……」
「わっつにかんどうぐち(暴言、憎まれ口)ば叩かんとはああたばかりたい」蔵多はちょっと額を掻《か》く仕種《しぐさ》をした。「それに、そんげん珠はええらしか(可愛らしい)ひとが持っとる方がよかと」
「そんげんこつはなか。……」加代はいった。「そいでもこんげんものをうちは貰われんとよ」
「わっつの持っとる物は矢張りよそわしか(汚い)ね」
加代は大きくかぶりを振った。
「そんならしまっときんしゃい。わっつは汚れとってもそん珠は汚れちゃおらんとじゃけん、気に入ったとなら貰うてやんしゃい」
加代は珊瑚の珠を握りしめて、「うれしか」といった。「大事にしてのうなさんごと(失くさないように)しますけん」
「よかった」蔵多はずだ袋を担ぐと白い歯を見せた。「だいにもいうたらいかんとよ。この辺にゃ黒鳶《とんび》の多かけん、何ばいうてみても信用せんじゃろ」
「うちのおととの名前も庫太といいよんしゃったと」加代はそういった。
「そうか、おととの名前がおなじじゃったとね。そいでよう合点が行くたい」
加代は慌てて「違うと」といった。どんなふうに説明してよいかわからず、ただ今にも去って行くぼろ買いに向かって気持ちの底をはっきりわかって貰いたかったのだ。
「何が違うとね」
「そいばってん、おととと名前のおなじだからというて、にくたれ(憎まれ口)をいわんやったのじゃなかと。おっちゃんがほかの名前でも、うちは……」
声を詰まらせた加代を慈しむような眼で蔵多は見た。
「わかっとるたい。心の優しか人間はいつでんようわかっとると」男はいった。「名前のこつじゃなか。そんげん親のことばよう思うとるけん、他人にもやさしか。わっつはそればいうたとよ。……おとしゃまはいま何ばしよらすとね」
「おととは死んだと」
「そうか、もうおんなさらんとか」蔵多はいった。「そりゃわるかことばきいてしもうたな」
珊瑚珠をくれた蔵多のことを思い浮かべながら、尾崎は奇妙な符牒《ふちよう》でもあわせられたような気がした。しげのことづかってきた文にある大音寺裏の墓地と、男の住んでいると噂《うわさ》された崇福寺裏の山手は、そのままつながっているのだ。
七ツ、大音寺裏の墓地に待つ、又次ゆかりの者とは、或いは蔵多に似た男ではないのか。あれだけ大事にすると約束した珊瑚珠は間もなく誰かに盗まれてしまい、そのことの激しい悔いと蔵多にすまぬという気持ちを早く形にしようとして、尾崎は一本立ちになるとすぐ覚えている感触になるべく近い珠を買い求めて簪にしたのである。これこそが蔵多から貰ったものだと自分にいいきかせながら。
禿の小藤がそこにきた。近く店にでる手筈になっている十四歳のこましゃくれた娘であった。
「ところてんを食べなはりますか。食べるなら運んできますけん」
「欲しゅうなか」尾崎は答えた。
「黒崎の土産だそうですけん、磯の匂いのぷーんとすっとですよ」小藤はいった。「胡麻《ごま》と酢と両方ありますばってん、どっちば持ってきまっしょか」
「いらんというとると」
「そいでも太夫に食べて貰わんと、がっかりしなさるかもしれんと。折角おれぼし(流れ星)のじいさんの腕をふるうて海ん草から作らしたとですけんね」
おれぼしとは渾名《あだな》で、二年ばかり前、何処《ど こ》からか流れてきて蘭水の板場に居ついた老人である。
「あとでご馳走になります。そういうときんしゃい」
「ほかのもんはつけたり。おれぼしのじいさんは太夫のためにこしらえなさったとだけん、少しでん食べなさるとよかとですよ」
「天こぶ(蜘蛛《く も》)みたいなこつばいいなさんな。なして、ほかのもんはつけたりとなるとね」
「なしてというても、おれぼしのじいさんは滅多なことでそんげん海の草なんかいじられんちゅうて、あねさんたちはみんなそういいよりますと。太夫のおかげでところてんの皿まで食えるとだから、早う知らせてきんさいと、そういわれてきたとですよ」
「あんたは矢張り天こぶたいね」尾崎はいった。「物事は何でん自分の頭で考えてから口にした方がよかと。いくらひとがそういうたからちゅうて、気儘《きまま》なことを軽はずみに喋《しやべ》っちゃならんと。……折角手間かけてこしなえなさったというとに、おれぼしさんにきかれたら、何と思いなはるね」
「すみまっせん」
「わかったらそいでよかと。……ちゃんとそういいなさいよ。今は欲しゅうなかばってん……そうたいね、あんたが折角きてくれたとだけん、胡麻醤油の方ば少し持ってきて貰いまっしょか」
小藤が去るとかえって苛立《いらだ》つ気分に尾崎はさいなまれた。あの禿と接すると何時もそうなのだ。かといって腹黒いわけではなく、取捨選択がきかないために起こる、それだけのことなので、余計に舌打ちしたくなるのである。
雨に濡れた庭石に貼《は》りつく落ち葉の色が水々しく、白い岩に匍《は》う躑躅《つつじ》の下を流れる清流は普段よりわずかばかり耳に響くようだ。
七ツまで、ほぼ一刻《とき》。尾崎の心と体にそれまで味わったことのない緊張した顫《ふる》えがようやく頭をもたげる。
小藤は胡麻と酢と、夫々《それぞれ》二つの小鉢に入れたところてんを持ってきた。
「二つもね」尾崎はいった。「どっちか、あんた食べんしゃい」
「うちはもうぐっというとるとだけん」禿はいった。「太夫にはわるかとばってん、もう先にいただきましたと」
尾崎は口許《もと》をゆるめて箸《はし》を手にした。すると小藤が一段口調を低めて、注ぎ込むような声をだした。
「さくさんはもう先に、戻ってきなさっとると」
どういう意味か。いわずと知れた、くら橋の探索にまつわる話なのだ。尾崎は応じぬまま、胡麻醤油をかけた小鉢をつかむ。
「あんじゃえもんしゃんはもう、ぴいぴいいうとらすとだけん。みんな首ばすくめて、鍋《なべ》になる前の鶏のごとしとるとですよ」
「そいじゃまだ、くら橋さんの行方は知れんとね」
「増屋を訪ねなさったとははっきりしとるとばってん、そいから先がようとわからん。なんか、ところてんば飲み込んどるみたいな気色じゃちゅうて……とろっとしてなんかようつかめんといいよんしゃった」
「さくさんがそんげんいいよんなはると」
「ええ」
「男衆《おとこし》も帰んなさったとね」
「男衆はまだ……」
「くら橋さんが増屋を訪ねなさったとははっきりしとる。あんたは今、そんげんいうたとでっしょ」
「はい」
「さくさんがいわしたとね、それは」
「うちは、小浦あねからきいたとです。さくさんがあんじゃえもんしゃんにいうとんなさったとば、小浦あねがきいて、そしてうちが……」
「あんた、もうちょっと位、いけんことはなかとでっしょ」
小藤はすすめられた小鉢にちらと目をやり、それからまた尾崎を窺《うかが》うように見た。
「そんげん、いわるっとなら……」