中二階に通じる階段を上がり、短い廊下を右手に折れた場所に、井吹重平の部屋はあった。障子を開けると右手に土塀《どべい》を伝う坂道が見え、左に眼を転ずると寺の裏庭越しに、こんもりと林に包まれる墓地が眺められた。
今は亡き僧侶の住んでいた家の中二階二部屋を借りて、彼はそこに寝起きしているのだが、仕事場は別に階下の離れと土間を改造して使用し、そこに白土を焼く小規模の窯を設けてもいた。
下着の着替えをすませると、身軽な姿になって井吹重平は古書店から持参した『和英商売対話集初編』の頁を改めてめくった。きわの面倒を頼みに寄った時、左内が持って行けといってきかなかったのである。
英語の初歩的な読み方や綴りはどうやらこなせたが、話す段取りになるとさっぱり要領を得ず、通詞《つうじ》に習うという手はあっても、虫が好かなかったのだ。
これさえあれば、と井吹重平は思う。話し方と同時に口調の高低、呼び音の強弱の基礎さえしっかりと身につけておけば、後は直接、アメリカやイギリス人に教えて貰うという道もある。
彼はまた、昨夜茂木屋できわとの間にかわしたやりとりを頭に浮かべた。……こりゃよかことば思いついた。おれがくるとを毎日待っとっても、そりゃそれだけのくらしじゃけんね。それより塾に行って、医学でも英語でも習うたらよか。そうそう、これからはなんでん英語が土台になるとじゃけん、それば勉強したらよかぞ。おれもやらにゃいかんと思いながらあんまり長続きもせんやったが、ぬしが習うてきた分だけおれにも教えてくれたらよか。そしたら一挙両得たい。……
一挙両得か、もしかすると本当にそうなるかもしれんな。井吹重平はふっとひとりで笑う。
「帰ってきなさったとですね」
気配より先に寺男の声がした。
「旅にでもでとったごたるな」
「ほんなこつ、しょっちゅう極楽の旅にでとんなさるとだけんね」
寺男の市松はにたりとした。二年前、後添いを貰ってから、何かと若作りをするようになった五十近い住職の遠縁に当たるという剽軽《ひようきん》な男であった。
「腹の加減はどんげんですか。食べごろの生干しのありますばってんね」
「昼飯はすんどる」井吹重平はいった。「晩にまた約束のあるけんな。どっちみち何もいらんと」
「よう体のもちますたい」市松はいった。「飯代の浮いてこっちは助かりますばってん、たまにゃ食べて貰わんと張り合いのなかと、よめご(女房)もいうとりますばい」
「おいがおらん方がよっぽどよかとじゃなかか。水入らずで」
「そがん気分じゃなかとですけん。……ああたがおらんと、かえって気の抜けたごとなって具合のわるかとですよ」
「見せつける者のおらんと張り合いのなかとじゃろう」
「考えもせんことばいわすとだけんね」市松はいう。「そうそう、こんげんことをいうちゃおられんとじゃった。東海さんの呼んどらしたと。手のすいとったらきて貰いたかちゅうて」
「東海さん」とは、住職につけた寺男だけの渾名で、「東海さんの墓普請」からきていた。物事すべて手間ばかりかかって埒《らち》のあかぬ意味をそれは含んでいる。
「東海さんのお召しなら、早速参上せにゃならんな」井吹重平はいった。「あっちの方は少し目鼻のついたごたるね」
「それが前よりわけのわからんごとなっとりますと」
市松は片方の手をひらくと、中指と薬指の先を突ついてみせた。妾《めかけ》と情婦にまつわる出入りを示したのだ。住職の有馬永章は元々肥前有田の武士で、学識の広い旧来の陋習《ろうしゆう》を叩きつぶすことを目的にするような生き方をする人であったが、反面女好きで、何かとそういう噂が絶えなかった。寺男より少し年下で、矛盾した性格と行動をそのままあらわしているような面相をしていた。
井吹重平は身繕いをすると、有馬永章の待つ寺の部屋へ出向いた。
「さっき、ああたの戻りなさるとを見たもんですけんな。お呼びたてしてすまんことばしました」
「何ばいわるっとですか」彼は受けた。「朝帰りじゃのうして、昼帰りになっとりますけんな。顔でも洗うておわびにあがらにゃいかんと思うとりました」
「こりゃ皮肉のきつか」住職は頭の後ろをぽんと叩いた。「そんげんこついわるっと、挨拶の仕様のなかですばい」
住職は膝を折った寺男の女房に茶を命じた。
「そいとも迎えの般若湯《はんにやとう》で行きますか。冷やしてあるけん、飲み頃になっとりますばい」
「ほう、般若湯ば冷やしとんなさるとですか」
住職は今の言葉通り、持ってくるよう合図をした。
「この頃はよう、あっちこっち冷たか茶ば呼ばれますが、冷たか般若湯はまあだ呼ばれたことはありまっせんと」
「まあ試してみなさるとよか。体にようなかちゅうて、市松なんか何時もそういうて顔をしかめよりますばってんね。そんげんこつは迷信たい。茶を冷やして飲むとはようして、般若湯ばかり、なしてままこ扱いされにゃならんとか。わたしは何時もそういい返してやりますと。……ちょうど井吹さんのお留守やった晩ですたい。あんまり暑かけん、一丁徳利ば西瓜《すいか》と一緒にいがわ(井戸)ん中にぶら下げてみんかといいましてな。市松は初め剽げとると思うてなかなかいうことをきかんやったとですが、ようやっという通りにしましたと。……そいば引き揚げて飲んだ時のうまかったこと。フランスかエゲレスの酒ば飲んだごたる気色のして、そりゃもうたまぐるごたる味でした。まあそういうてもフランスの酒は飲んだこともありまっせんばってんね」
「大浦の異人たちゃ、白か葡萄酒は冷やして飲むといいますけんね」
「ほんなこつですか。こりゃ初耳。……矢張り冷やして飲む酒もあったとですか。こりゃよかことをきいた。そうすっとわたしのいがわ湯《とう》も満更捨てたもんじゃなかですな」
「いがわ湯ちゃよか名前ですたい。そりゃよか」
「論より証拠ですばい。ああたが何といわるっか、そいばききたかったと」
市松がちらっと顔をだし、また引っ込んだ間を利用して井吹重平はきいた。
「何か急ぐ用事のあんなさったとじゃなかですか」
「そうたい、そいがあったと」
有馬永章はそういうと、体をのばすようにして後方におかれた箪笥《たんす》の引き出しから布切れに包んだものを取り出した。白布を開くと、中に一枚の黒い紙片が納まっている。
「何ですか、こりゃ」
「ようと、手にとって見なはりまっせ」
井吹重平はそれを手にした瞬間、絶句したまま住職の顔と紙片を、しげしげと見較べた。そこに間違いもなく、住職とそっくりの顔と姿がありありと写っているのだ。
「こいが写真というとですか」
「井吹さんはさすがに違いますばい」住職は大袈裟《おおげさ》に頷《うなず》く。「たまがんなさるかと思うとったら、写真という言葉まで知っとんなさるとだけんな。かえってこっちの方がたまぐるたい」
「なんの、話だけしか知りまっせんと。それよりも和尚《おしよう》はどんげんして、こげな珍しかことのできなさったと」
「ああたもいうたごと、写真ばとる箱の前に立たせて貰うたとですたい」住職は答えた。「もう何日か前の出来事ですと。井吹さんはオランダ通詞の楢林栄叔というひとを知っとんなはりますか」
「楢林栄叔。知りまっせんが、楢林といえば矢張りオランダ通詞の系統でっしょ」
「まだ若かとばってん、なかなか頭の切れなはるひとで、蘭学《らんがく》だけじゃのうして医学もやらにゃいかんというて、やっとんなさるとらしか。ひょっとしたことでわたしはそんひとと近づきになったとばってん、半月ばっかり前に、そんひとの友達とかいうひとに引き合わせて貰うたとですたい。ところがああた、そん友達がなかなかのひとで、始めから終わりまで上海《シヤンハイ》という町の話ばっかい。何のことかわけもわからんのに、きかずにゃおられんというふうな話しぶりで、そりゃもうたまげどおし。そのうち、話の中にでてきた写真術というとば見せてあげまっしょということになって、わたしに試してみろとしきりにいいなさるものですけん、ええも、どうでもなればよかという気持ちになって、箱の前に立ったとですたい。……ところがああた、ぱちっと音がした時は、きゅっと胸の締めつけられて、後から溜息のでましたと……」
「こいが写真ですか」井吹重平は息を詰めるようにいった。「話にはきいとったが、こりゃたまげた。まるっきり鏡に写っとるのと同じですたい。ありのまま抜き取るごと見える」
「わたしもたまげましたと。……上海じゃあんた、この写真術を商売にしとる店が何軒もあって、そこに行きさえすれば、何枚でもこしらえてくれる。……今ああたがいわれたごつ、そうそう、何枚でも写してくれるという話ですたい」
寺男の女房が、井戸水に冷やした徳利を桶《おけ》に入れて運んできた。それも住職の案らしく、桶には水が張ってある。長与三彩の深い盃《さかずき》とそれに梅干し、味噌漬けの茗荷《みようが》は何時もの肴《さかな》だ。有馬永章は素早く酒を注いで彼に渡す。
「どんげんですか」
「こりゃうまか。和尚のいわれたごつ、こりゃ浮世離れのしとりますたい。……そうか、浮世離れというより、日本離れといわにゃいかんな」
「いがわ般若湯の欠点は飲み過ぎることですたい。口当たりのよかけんいくらでもいくる。気のついた時はふらっとなっとりますけんな。……いや、こりゃつまらんことをいうてしもうた。そんげん意味じゃなかとですけん、どんどんやってくれまっせ」
「和尚も弁解さるっときがあっとですね」
井吹重平がそういうと、住職は口を大きく開いて笑った。呼んだのは単に写真を見せるためであったのか、いまひとつ裏にあるものを感じながら、彼は注がれるまま、二杯目を受けた。仁昌寺の一隅を借りてすでに三年近く、窯を作ってから早くも一年余になるが、用件のある場合は大体、住職自身が出向いてきているし、今日の様子にも何かしら落ち着きがない。
「この頃何か珍しか仏像でん見つかりましたか」
井吹重平は探りを入れてみた。得体の知れない仏像を収集する住職の秘密を彼だけが承知しているのだ。大村湾を望む部落や外海地方の村落には、明らかに切支丹の面貌《めんぼう》を宿したさまざまの観音像が残されていて、それを運んでくる者に有馬永章は一定の銭を支払っていた。反面、白い土で彼の製作する仏像や香炉を捌《さば》く仕事も引き受けてくれており、それに関係する協約のようなものが二人の間には自然に成立していたのである。
井吹重平は陶工としての自分の存在を世間に知られるのを好まず、それらはすべて住職自身の窯ということになっていた。利益は殆ど折半、その代わり、仕事場で別にどんな仕事をしようと、有馬永章は触れさえしなかった。
「碌《ろく》なものは持ってきませんと」
住職は立ち上がると、隣の部屋から反物の包みに似たものを持ってきた。そして、紙の被《おお》いを開いて中からかなり幅広い布に描かれた一枚の地図を取り出した。右側に長崎を中心にした肥前国の図絵。五島を挟《はさ》んで左方に展開する大陸は清《シン》の国か。地名はすべて英語で記入されている。
「大したもんですたい、こりゃ」井吹重平は呻《うめ》くような声をだした。
「そこば見らんですか。上海と書いてあるらしかですよ」
有馬永章は地図の一点を指差した。確かにそこにはShang-haiという字がありNagasakiと書かれた一帯の海岸線もこれまで見たこともないように、精緻《せいち》に描かれている。
「何処で手に入れなはったとですか。こんげん見事なもんば……」彼はいう。「こりゃ色の具合からして日本人の描いたものじゃなか」
「長崎と上海の辺りの地図で、いまいちばん正確なもんがこいらしかですたい」有馬永章はいった。「奉行所にでん知れると、それこそ大事になるといいよらしたが、わたしのごと英語の読めん者にでん、なかなかのもんだとわかりますけんね。なんかこう目の中の広うなったごたる気色になりましたと」
「IsahayaにShiotaか。……諫早《いさはや》や塩田のことまででとりますたい、ほら、此処《こ こ》には神浦《こうのうら》のありますと」
「神浦までついとるとですか。やっぱし向こうの者たちゃ目の肥えとるとですたい」
「奉行所にでんなかですばい、こんげん地図は……」
「そこで相談のあっとですと」
有馬永章は辺りを窺うような口調でいった。
「こいと同じものば作ってみる気はなかですか」
「同じものば……」井吹重平は声を詰まらせながら、相手の顔から地図に目を移した。
「こいならだいでん欲しがるとでっしょ。……上海からでんでたことにして何処の藩にでん持ち込めば、それこそ飛んで行きますばい。井吹さんの腕ならできると思いますばってんね」
「そりゃできまっしょが、一枚一枚描くとなりゃよっぽど骨の折れますけん」
「一枚一枚描くとじゃのうして、版画でならどがんでっしょか。こんげん詳しか絵図は難しかでしょうが、神浦までも描かんごとすればできるとじゃなかですか。海岸の輪郭だけでん正確なら、そいでもう用は足りると思いますと。薩摩でん長州でん、いまいちばん咽喉《の ど》から手のでるごたるとは、海岸のことですけんな。海岸の線とそこに通じる道や越えにゃならん山さえはっきりしとれば、ほかのこつはあんまり必要なかとでっしょ。そりゃあったにこしたことはなかでしょうが、そこんところは省略してもどうちゅうことはなか。必要な個所だけこれを丸写しにして、そいで版に刷ったら、そいこそよかとのできますばい」
切実な口調には、よっぽど金の必要な心底が見えている。それだけになおむげに拒《しりぞ》けられない理屈と力を含んでいた。確かにいま、ひたすら軍備を貯えつつある諸雄藩に、この地図は何より重要なものとなろう。それにまた、彼が版画でひそかに何を刷っているか、百も承知の上での相談なのだ。
「そいでも覚悟してやらんと危なかことになりますばい」
「絶対にそんげんことにはしまっせん。万一、そんげんことになっても、ああたを危なか目にあわせるようなことはなか。これは約束しますと」彼の言葉に可能性を得て、有馬永章の表情は一瞬のうちに変わった。
「どいだけのもんができるか、それはわかりまっせんが、やってみまっしょ、そいじゃ……」
「よかった、甲斐《かい》のあった。……」
徳利を持つ住職の手は心持ち顫え、その時、かすれた山鳥の啼《な》き声が墓地の方角から伝わる。