くら橋がふたたび増屋の店先に立ったのは、未《ひつじ》の刻(午後二時)を少し廻った時分であった。もっと早くそうしたかったのだが、相手の思惑も考えて懸命に辛抱していたのである。昼前に訪ねた通り、帳場には二人の男が坐っていて、そのうちのひとりがまるで定められた文句を告げるような応待をした。冷たい茶を運ばせたその後に。
「先程はどうもすまんことばしました。そん時確かめとけばよかったとですばってん、番頭さんは店の用事で、今朝方、早かうちから伊万里まで出かけなさったそうです。気のつかんことで申し訳のありまっせん。……」
「そんげんですか。……」そういうことかと思いながら、くら橋はいう。「そいで、伊万里からは何時頃戻りなさっとでっしょか」
「仕事ん都合ではっきりしたことはいわれませんばってん、十日ばかりかかんなさるそうですと。博多の方に廻れば半月にもなりまっしょか。その辺のところはどうにもわかりまっせん」
「だんなさんのおらるっとなら、染田屋のくら橋が会いたかと伝えてくれまっせ」
「そんがいま、寄り合いのあって、主人もおらんとですよ」
お仕舞いだという瞬間が、たった今ではなく、もうとうの以前からつづいているような気持ちのまま、くら橋は帰りの挨拶さえ忘れた。何が伊万里なものか、七十郎も主人も店の奥にいて、自分のきたことを知ると、慌てて見えすいた対策を講じたのだ。
岸壁の繋柱《けいちゆう》に艫綱《ともづな》を舫《もや》っている男が、体を起こして放心したような足どりで歩くくら橋を目で追い、竹竿《たけざお》を担ぐ法被を着た老人は、足を止めてまで同じ素振りをした。
そうか、そういうことだったのか。今こそ七十郎の心底を疑いもなく見届けることができた。ぬしが年季の明けて、博多の店でも預かることになれば、という約束も嘘なら、旦那《だんなん》さまも大方は承知の上だけん、いまは辛抱さえしとけばよかと、の文句もでまかせだったのだ。
飯屋の前におかれた坐り台に腰かけた船乗りたちの鄙猥《ひわい》な声と、荷車を引く男の薄汚れた笑い。花を売る女の髪を被う白い布。煮豆屋の壺。何処に向かっているのか、目差す道順さえ曖昧《あいまい》に、くら橋はただ海沿いの道を急いだ。
そしておよそ小半刻も歩いた頃、彼女は行き止まりの岸壁にでた。低い軒先の家々が海に張りだすような恰好で並んでおり、右側には廃船を利用する小さい船着き場も見えた。附近に人影はなく、かといって戸口におかれた水瓶《みずがめ》や橙《だいだい》色の百合《ゆ り》を箱一杯に咲かせた植木棚にはくらし方の色濃いしみがまといついている。長崎の町中ではなく、見知らぬ島の部落にでも迷い込んだようだ。
できれば水を所望しようと思いながら、くら橋はいちばん手前の家の前にしばらく佇《たたず》んだ。しかし居住者のでてくる気配はなく、つい水瓶の蓋を取ろうとした時、背後に人の近寄る足音がした。くら橋はぎくっとして振り向く。
「そん水は飲まれんと」
「すみまっせん、勝手なことばして」
「飲まれんことはなかが、潮臭うてかなわんじゃろう」
不意にあらわれた男は深編笠よりもやや平たい布と藁《わら》をよりあわせたようなものをかぶっていて、それを取ると、声よりも若い三十近くの顔をみせた。
「中にうまか水のある。いま持ってくるけん待っとるとよか」
「おおきに」
「中に入れといいたかばってん、そうもいかんしな」
男は水瓶をおいた家の隣に入ると、間もなく大きめの茶碗を運んできた。
「冷めとうはなかが、飲み水のいがわから汲《く》んできたとじゃけんね」
くら橋はそれを一気に飲んだ。
「その分じゃもう一杯欲しかとやろう」
「もうよかとです。大切なもんですけん」
「水ぐらい、あんた……」
男はそういうと、茶碗を受け取って再度家に入った。
二杯目の水も殆ど息をつかずくら橋は飲み干した。
「もう一杯、どげんね」
「いえ、もうよかと」
「よっぽど渇いとったとみゆるね」男はそこでくら橋の顔を正面から見た。「だいか、訪ねる者でもあってきなさったとね」
「いいえ」と、くら橋はいう。「椛島町からただこっちの方に歩いてきただけですけん」
「そりゃ、また……」空の茶碗を手にして男はいう。「椛島町からじゃ、口ん中も渇くはずたい」
「此処から先はもう行けんとですね」
男はしばらく答えず、それから首をのばすようにして港の方を見ながら「行けんことはなかよ」という。
「もっとこいから先まで行きたかとなら、船に乗らにゃならん。そんげん気持ちなら何時でも船ば漕《こ》いであぐるばい」
「船ば漕いでたいね。……」くら橋は受けたが、口から単にそういう言葉を吐いたに過ぎなかった。
「こんげんことをきいてよかとかどうかしれんが、ひょっとしてあねさんは丸山のひとじゃなかと」
そうか、誰かに似ていると思う印象は、待合小屋の中で紙片を貼った男の股引《ももひき》だったのだ。木棉《もめん》地の擦り切れた紺をこの男も身にまとっている。
くら橋が頷くと、男は大仰な声をあげた。
「丸山の太夫がどんげんしてまた、こげな場所に……」
「太夫じゃなかと」
「太夫じゃなかとなら何ね」
「太夫には誰でもなれるとは限らんとよ。うちはただの格子ですけん」
「ようとはわからんばってん、丸山のおなごに間違いなかとたいね。こりゃたまげた。又次の騒動がありよると思うとったら、先方から鶴が舞い降りてきよった」
又次の騒動というのは、待合小屋で紙片を貼りつけた男からきいた尾崎にまつわる一件か。船乞食が太夫を名差して蘭水にあがった話を知らぬでもなかったが、くら橋の心はすでにそこから随分と離れていたのである。
彼女は男の言葉から遠ざかるように、船着き場の方に歩いた。男は何を考えたか家の中に引っ込むと、間をおかず飛びだしてきた。皮袋を手に握りしめている。
「丸山のおなごしなら頼みのあっと」男は皮袋を突き出しながら、唾のたまった声でいった。「持っとるだけの金ばあぐるけん、おるの相手をしてくれんね。……あねさんがこんげん場所にきとらんのなら、思いもせんことばってん、丸山のおなごしがいま目の前に立っとるのを見て、そんげん気になったとたい」
「おうちは丸山で遊びなはったことがあるとへ」
「冗談のごつ。丸山で遊ばれる位なら苦労はなかと。そりゃ行こうと思えば行かれんこともなかろうが、そんげん細工までしてあがろうとも思わんけんね。……」
丸山で遊ぶのにどんな細工がいるのか。くら橋ははっと思い当たった。もしかするとこの男も船乞食の一統ではないのか。
「無理ちゅうことはわかっとると。そいでもこんげんことは滅多になかとじゃけんね。ああたを鶴と思うて頼むとたい」
鶴。くら橋は陽にやけた黒い顔と、緊張して顫えるような男の唇を見た。
「おうちの頼みばききまっしょ」
「そうね、きいてくるっとね。……」男はかすれた声をだした。「そんかわりだいにもいうたりはせんけんな。ああたの困ることはせんと、こいだけは約束するばい」
「そんげんこつはどうでもよかと」くら橋はいう。七十郎は伊万里に行ったという嘘にさえならぬ嘘。
「こいばみんなあぐるけんな。いくらも入っとらんばってん、入っとるだけでかんべんしてくんなっせ」
皮袋の銭をあけようとする男の手をくら橋は押し留《とど》めた。
「銭はいらんとよ」
「そいでも……そいじゃおるの方が畜生になってしまう」
「おうちが頼みなさったけん、うちがきいてあげた。そいでよかとでっしょ。……代わりというちゃ何ばってん、おうちの相手ば勤めたら、うちを船に乗せてやんしゃい。何処でんよかけん、海の深かところに行ってみたかと」
「海の深かところ。そんげんところに行って何するつもりな」男は眉をひそめた。「そんげんおるの相手ばするとが嫌なら、このまま黙って帰ればよか。無理矢理何も通せんぼしとるわけじゃなかとよ」
「何を怒んなさっとるね」くら橋はいう。「おうちば嫌うていうたとじゃなかとよ。海の深かところに行きたかとは、どんげん仕様もなか自分の心を鏡のごとそこにうつしてみたかと。そいもおうちのせいじゃなか」
「わかったばい。おるのひねくれば許してやんしゃい」男は素直に謝った。「そいでも、おるのせいじゃなかというても、ひどう気にかかるとたいね。第一、こがん場所にああたが迷い込んどることがおかしか。……船に乗りたかちゅうならそりゃもうよろこんで連れて行きもするが、あねさんにとっちゃよっぽどのことのあるとじゃろうな」
それに応ぜず、くら橋は男の家に足を向けた。恐らく今頃はひと騒動になっているに違いない染田屋と、増屋を楯《たて》にして逃れようとする卑怯《ひきよう》な七十郎を秤《はかり》に載せ、鶴だと思って頼むという男に埒をあけさせる時間を錘《おもり》にするような気持ちであった。
先程そこから飲み水を汲んでくれた飯銅《はんど》(炊事場の水瓶)をおいた板の間と、奥の六畳位の間取りが男の部屋のすべてだ。畳はなく、目の荒い茣蓙《ござ》が二枚、部屋のほぼ真ん中に敷かれている。垂れ下がった布を男がたくし上げると、そこから港が見え、対岸の山並みにかかる薄い靄《もや》の中に、焚火《たきび》に似た明かりがしきりに明滅した。
「汚なか家じゃけんな。掃除もされんごつしとる」
「おうちひとりで住んどんなはるとね」
「一昨年までは妹も一緒におったばってんな。……」
何を暮らしの糧にしているのか。男は語らず、くら橋もきかなかった。海際に寄り合う家々のたたずまいは漁師のそれとも異なっていたし、男の口からさらりと、又次の騒動という言葉がでたのも、船乞食と結びついて感じられたのである。
「見晴らしのよか」くら橋はたくし上げられた布の下に坐った。「稲佐はあの辺りでっしょ」
「稲佐はずっとまだ向こうの方たい」
「おうちは稲佐のロシヤ水兵の休息所というとば知っとんなさるね」
「知らん。稲佐の休息所ちゅうたっちゃ、何のことか知らん」
驚くほど強い口調でかぶりを振る男に、おやと思いながら、くら橋はまた水を所望した。男は飛びはねるような様子で立ちあがり、それを運ぶと、小さい目を見開くようにしていった。
「おるはいがわで体ば拭うてくるけん、何処にも行かずに待っといてやらんね」
「はい」くら橋は頷く。
「そんげんいうてもいがわは大分遠か所にあっとたい。おるがおらんうちに、ああたに行かれてしもうたら、こりゃもう糸の切れたはた(紙鳶《た こ》)のごとなりよるけんな」
「おうちの戻りなさるまでは、何処にも行きまっせんと」
「ほんなこつ約束したばい」男はいう。「飯銅の水で体ば拭いちゃ、釘《くぎ》ば踏むというけん、いがわまで行くとよ。こんままじゃいくら何でもああたにすまんとだけん」
「待っとりますけん、なるべく早う戻りなはりまっせ」
「よかと。……なんか食べたか物でもあれば買うてくるばい」
「何にもいりまっせんと」
「よーし、そいじゃ走って行ってくるけん」
下着の着替えでもあろうか、小脇に抱えた風呂敷包みを持って男が出て行った後、くら橋はふっと濡れた袖口に気づいた。降りみ降らずみの糠雨《ぬかあめ》とはいえ、着物は全体にじっとりと湿っており、首筋に触れると、水滴さえも手につく。手拭いでもないかと探しても見つからず、押し入れを開けるわけにもいかぬまま、くら橋は袖口を絞っただけで、再度海に面して坐った。
七十郎のことはもう一切考えたくない。虫けら同然の変心者はきっぱりと心から捨て去るのだ。魯西亜《ロ シ ヤ》でも阿蘭陀《オランダ》でも、いっそ唐館か出島に住みついて、思う存分の振る舞いをしてみようか。主人太兵衛の前に坐らされる前にそういえばよい。
いわるる通り、ワシリエフというひとのところに行きます。ワシリエフの船が出て行った後は、出島にでん行きますけん、誰かよかおひとばみつけとってくれまっせ。
しかし、それさえもどうでもいいような気がする。太兵衛に引きずられてどんな仕打ちを受けようと、相手は抜け殻を打ち据えるだけだ。
馬関《ばかん》か上方にでも向かうのか。かなり大きな荷船がゆっくりと出港して行く。前の帆はまだ上げておらず、舵《かじ》を取る船頭が片方の腕をのばして何やら指図しているが、声は届いてこない。
七十郎にはきっと、増屋主人の世話できまった後添いでもできたのだろう。丸山の女郎をしゃんすにしているという話がきこえては、折角の段取りが毀《こわ》れてしまうという、廻船《かいせん》問屋のずる賢い性根と世間体。それとも何か、こんげんよか話ば袖にして、染田屋の女郎に心中立てするつもりか。一体あのおなごに何ができる。博多に店を持って、切り廻しひとつできるというとか。
でもそれならそれと、七十郎はなぜそれを、あからさまな事実をひと言でも弁明しようとしないのか。くら橋は帯の上を押さえながら、増屋の奥に息を潜める顔を今度こそ抹殺《まつさつ》しようとした。
すぐ間近に櫓音《ろおと》がきこえたので、くら橋は身を引いた。
「おーい、かへえじは帰っとるとか」
声は確かにこの家にかけられている。くら橋はさらに体を隅に寄せた。
「かへえじ、かへえじ、おるとなら顔ばださんや」
何やらぶつぶつひとり言を繰り返して、櫓音が去ると、みるみるうちに薄暗くなった。と、まるっきり動かぬ海面から立ちのぼる雨が辺りを被う。
この雨中に、遠ざかる船は前帆をあげ始めた。あの船に乗って上方にでも逃れてしまえばどうなるか。それとも博多の遊廓《ゆうかく》にまぎれ込んで、七十郎の明日に、目にものみせるか。
砂のような考えを交錯させながら、そういう考えを持つこと自体を嘲笑《ちようしよう》するかのように、くら橋は口許を歪《ゆが》めた。
海面から立ちのぼる雨は一層激しくなり、番傘を差して櫓を漕ぐ男が懸命に舟を岸壁に近づけようとしている。
「傘ば持ちなはらんと思うて、心配しとったとですよ」
「そんげんこつはちゃんと用意のよかとじゃけん」
「もうせんから房吉さんのきとんなさると。……」
そこから姿は見えぬが、多分船着き場にでも女房が傘を持って迎えにでているのであろう。女房か。くら橋は後のやりとりをきくまいとして板の間に立つ。