霧雨に濡れる墓地の合間に咲きこぼれる百日紅《さるすべり》の花はまるで遊廓の軒に下がるぼんぼりのように浮かぶ。大音寺横手の塀からやや上がった場所に尾崎はしばらく立っていたが、誰もあらわれる気配がないので、なお石段を五つ六つ踏んでみた。
気晴らしに小半刻ほど外を歩きますといういいわけを主人太兵衛は胡散《うさん》臭い顔をしながら承知し、できる限り地味な身形《みなり》をしてきめられた時刻には少し早目にでてきたのである。雨を除《よ》ける傘は姿を隠す恰好のおおいともなった。二重門をでる時、もしやと気にかけた馬(主人言い付けの尾行者)も見当たらぬ様子で、あまり通行人の目を引くこともなくやってこられたのだ。
長崎のうちでは最も広い境内を持つ大音寺なので、裏の墓地といわれても俄《にわ》かに定め難いのだが、往来から山手に通じる道といえばそこしかなく、尾崎はさらに歩をすすめて、周辺を見渡せる地点に立った。
生まれてから九つの年まで、いわば墓地の中で育ったといってもいい彼女にとって、花瓶《かびん》にたまる水と線香灰の匂いは両様の意味を持っている。父親の懐にでも帰るような親しさと、他に語るもののなかった限りない淋しさと。
笠松家先祖代々之墓と書かれた墓石の蔭にうごめくものは鼠か。禿の頃、染田屋にいた伝助という男衆と遣手に連れられて、墓掃除に行き、手鞠《てまり》程もある鼠に飛びだされて尻餅をついたことがあった。
足音がしたので尾崎は傘を倒してそちらの方を見る。勾配《こうばい》のきつい坂道を、ゆっくりした足どりで踏みしめるように下りてくる男が、手紙に記された「又次ゆかりの者」か、相手は尾崎に近寄ると、傘の柄を持ち直すような素振りをして、丁寧におじぎをした。
「難しかことば頼んだとに、ようきて貰いました」
「そしたら、おうちが……」
「はい、いきなり手紙ばつけたりして、失礼かと思いましたばってん、あんげんことでもせんと、あねさんに話を通じることはできんし、ほんなこつ、すまんことばしましたと」
年頃はもう四十近くなろうか。しげのいう通り、確かに「普通の町方のひとのごたる」様子であったが、広い額と輪郭の強い顎《あご》から発する面相は、武芸者のものといってもよかった。
「そいでうちに、どんげん用事のあんなさるとへ」
「又次ちゅう船乞食が、いま溜り場につながれとるのは知っとんなさるね」
「はい、主人からききました」
「そうね、知っとんなさるなら話ばしやすか」男はちらと坂下の、大音寺の南寄りにある大光寺の方角に目を走らせた。そして「もうちょっと蔭に寄った方がよかごたるな」といいながら、石垣と墓地の間にすっと体を移した。尾崎もそれにつれて歩む。「話はすぐすみますけん、きいとってやんなっせ。……又次というもんはあたしの甥《おい》ですたい。申し遅れましたばってん、あたしの名前は日蔵。日に蔵と書きますと。だいでん(誰でも)おかしな名前といいよりますと。……筋道ば急がにゃなりまっせんが、又次が染田屋にあがって、ああたば名差したことは、からかいよったとでも、わるくろ(悪太郎、いたずら)のことでもなかったと。ありゃみんな底の底から思い込んどったほんなこつの気持ちですたい。わたしはよう知っとりますと。……又次は早うからあたしの家で育てとりますけん、甥じゃというても子供と変わりまっせん。そいけん、又次の胸のうちは隅々まで何でん初手からまる見えですたいね。……そりゃ、船乞食という身分ば隠して染田屋の太夫ば名差しよったちゅうとは無茶です。遊び方も知らずにようそんげんことができたと、あたしもたまげました。そいでん、丸山のしきたりも遊び方も知らんやったけん、あげな無茶をやれたのかもしれん。そんげんふうに考えると、又次の仕出かしたこともいくらかわからんわけでもなか。……常日頃夜遊びもせんと又次が銭貯《た》めよるとは知っとりましたが、まさか太夫を目当てにしとるとは思いもかけまっせんもんね。そんならそうと、ひと言いうてくれれば、思い留まらせることもできたし、何かほかに気持ちば移させることもできたとにと思いますたい。……そいでも又次が何年も前からああたのことば思いつめとったことはようと身に沁《し》みたごとわかりましたと。今もいいましたごと、夜遊びひとつするじゃなし、娘ひとり相手も作らんやったとは、みんなそこに望みばかけとったとですたい。望みばかけとったというても、丸山の太夫ばどげんもできるわけじゃなか。いくらあいつがものを知らんというても、そん位はわきまえとったでっしょが、ひと晩でんよかけん、思いば通じることをたったひとつ願うとったとに違いなかとですたい。……叔父甥の口からいうちゃ何ですばってん、又次はそりゃ、気性のさっぱりした、朋輩《ほうばい》からも年頃の娘も、みんなから好かれとったとですよ。そん又次が誰にもあかさずに、ただひと筋に自分の胸のうちだけにしもうとった思いを、何年がかりで遂げようとした。あたしはそいが不憫《ふびん》でならんとです。……」
日蔵と名乗る男は一気に喋ったが、尾崎は答えようもなかった。雨の中を大きな輪を描きながら飛び去る鳶《とんび》。
「こりゃつい、勝手なことばかり喋ってしもうて。……又次は何も騒動を起こすためにああたを名差したとじゃなか。あいつは心の底からああたを思うて、それであげな身形まで作って染田屋にあがった。そんことだけ、ああたに知っといて貰いたかったと。……」
「ようわかりました」尾崎はいった。
「念のためにいうときますばってん、今あっちこっち騒動を起こそうとしとるもんたちは又次の気持ちとはかかわりあいのなかとですたい。関係のなかといっちゃ何ですが、あんもの達は又次のやったことば自分ら一統の面汚しみたいに考えとるとです。その辺のことは詳しゅう話さんとわからんでっしょが、はっきりいうてしまうと、丸山からまでつまはじきされとる人間が、何も手前の方から尻尾《しつぽ》を振ることはなか。まして何年越しの金ば洗いざらい持って、太夫ば名差すとは何事か。……まあそげんふうな理屈で、いうてみればそれもまた筋道は通っとりますと。こりゃああたにいうとじゃなかとですばってん、世間の冷たか仕打ちにこっちからじゃれることもなかですけんね。……そいでも、それはそれとして、又次の心まで面汚しというふうにいいとうなか。あたしはそう思うとります。……好いた惚《ほ》れたにゃ理屈はなかですもんね」
「そいでも、そんげん騒動のひどうなったら、溜り小屋に入っとんなさるおひとはいよいよでられんごとなりまっしょ」
「そうですたい。そいば心配しとっとですが、今となっちゃどうにもならんかもしれん。事の成り行きがちょっと後ずさりできんごとなっとりますけんね。……」
船乞食といいかけて、尾崎は別のことを口にした。
「あんひと達は、今度のことばよっぽど恨んどんなさっとですね」
「今度のことというわけじゃなかと。……胸んうちにずっとくすぶり続けとった無念さが、又次んやったことでいっぺんに燃えさかったとかもしれん。溜り場におる又次が、こん二、三日のことを何処まで知っとるか、そりゃわからんばってん、伝わっとれば案外覚悟を決めとるかもわからんと」
「覚悟ちゃどんげん覚悟ですか」
「いや、自分の溜り場におるとが長うなっても、ひょっとして騒動の広がるとをよろこんどるかもしれん。そんげんふうにふっと思いましたと」
「騒動のことは又次というおひととかかわりあいのなかこと。そんげんいわれたとじゃなかとへ」
「何ばいいよっとか、あたしは自分でもこんがらがっとりますと。何でもいっぺんにいうてしまおうとするけん、そん辺がわけのわからんごとなるとですたい。又次の現にやったことはわかっても、考えとることはまた違うとですけんな。……又次が染田屋に行った時、船乞食の一統がこんげんことをしでかすとは思いもかけんやったとでっしょ。それが自分のやったことば口火にして、妙な文句の歌まで貼りだされるようになった。こりゃもう又次にしても考えてもみんやったことですたい。そうと知ったらあいつはどんげん考えを持つか。そこんところはあたしと一緒じゃなかですけんね。……いまいうた、妙な歌をどうこうして貼っとるちゅうことは、この場だけの話にしといてくれまっせよ」
「わかっとりますけん」
「船乞食の一統というても、全部というわけじゃのうして、やっとる者はほんの何人かですたい。そいでもほかのもんがそれにきつう反対しとるかといえばそうでもなか。まあ自分に災いさえかからんとなら、やるだけやって、騒動はなるだけふとうなる方がよか。みんなそんげんふうに思うとりますけんね」
「ただ蘭水にあがんなさったというだけで、なして溜り小屋にまで入らにゃいかんとか。うちはそいがわからんとですよ」
「そりゃあたしたちにもわからんと。そんげん極《き》まりになっとるというても、誰が何時丸山で遊んじゃならんと極めたとか、はっきりしたものは何にもなかとですけんね。そんくせ、丸山に遊びに行っちゃならんと、自分たちで極めてしもうとる。……」
気のせいか、葉擦れの風まで足音にきこえる。小半刻が半刻でも、特にどうということはなかろうが、それにしてもそう余裕のある刻限ではない。まして、墓地での出会いを見られたりすれば、内実はどうあれ弁解しようのない噂になるのは目に見えている。
「さし当たってうちにできることばいうてくんなっせ」尾崎はいった。「せんじつめていえば、みんなうちからでたことですけん、お詫《わ》びせにゃいかんと思うとりました」
「ああたに詫びて貰うことはなか」
気色ばんだ日蔵の声はすぐ平静に戻った。
「あたしはもういうこつはみんないうてしもうたと。用事はそれだけですたい。こんげん場所に呼びだしたりして、とてもかなえちゃ下さらんと思うとったのに、わざわざ足ば運んで貰うて、そいだけでもう何もいうことはなかとです。こんことばきいたら、又次もさぞ胸のしこりのおりることでっしょ」
「おうちにひとつ頼みたかことのありますと」尾崎はいう。
「何ね、頼みたかこっちゃ……」
「又次というおひとは、そのうち遅かれ早かれ溜り小屋からでなはるとでっしょ。そん時、うちに一度会わせて貰いたかと」
「又次に会うてもよか。ああたは今そんげんいいなさったとね」
「はい、うちの直接知らんやったことでも、あげな仕打ちばして、ほんなこつすまんやったと思うとります。そいけん……」
「いやいや、そん言葉だけで充分ですたい。おおきに、蘭水の太夫からそんげん言葉までいうて貰うて、又次のきいたらどげんよろこぶか。ほんなこつお礼ばいいます」
「挨拶だけでいうたとじゃなかとです。そりゃ詫びもせにゃなりまっせんが、うちのごたるとば相手にするために、何年も働いて銭ば貯めなはった。その心根にお礼をいいたかとです。……というても、何日と日は極められませんばってん、都合ばみて必ず暇ば作りますけん、溜り小屋からでられたら、どうぞ知らせてくれまっせ。手紙をことづかってきたとは、しげさんという賄方のおなごしですけん、そん名前ばいうて呼び出して貰えば、用向きの受け渡しはできますけん」
「ああたはほんなこつ、よかおなごばい」日蔵は語尾を詰まらせた。「思うてもみらんことばいうて貰うて、言葉もなかと。又次の飛び上がるさまが見えるようですたい」
「そいじゃ、うちはこれで帰りますけん。又次さんによろしゅう……」
立ちつくす日蔵を背中に感じながら石段を降りる時、尾崎は平戸の墓に飛び交う黒(蝶)を胸中に放つような気持ちであった。手紙を受け取る以前から又次という男に会ってみたいと、きっとそう考えていたに違いない。平べったくなった石段に立ち止まって会釈をすると、日蔵は傘ともども深いおじぎをしてそれに応えた。大音寺の門脇から大光寺の下、そして南光寺の角を折れると、俄かに人影が多くなる。尾崎は傘を半ばすぼめるようにして帰途を急いだが、それでも人々の目からすべてを逃れることはできなかった。
「あれっ、あそこに行きよらすとは蘭水の太夫じゃなかな」
「ほんなこつ、行きよらす、行きよらす。こんげん時刻に、一体何事のあったと」
「へえ、てんとさんの下でみると、一段とまばゆかねえ」
「おてんとさんなんかでとらんばい。雨降りじゃけんな」
「雨だけじゃのうして嵐になるかもしれんぞ。尾崎太夫がひとりで歩いとんなさるとだけんな」
「あんげんおなごば嬶《かかあ》にしよったら飯のお菜なんかいらんじゃろうね」
「お菜どころか、ぬしなら飯もいらんとじゃなかか」
「飯なしの嬶か、そいじゃ永うは生きらんばい」
「十日でんよかばってんな」
「何が」
「飯なしで一緒におっとたい」
「飯なしで十日も寝たきりに寝とったら、それこそ骸骨になってしまうばい」
「骸骨になったっちゃよかと。蘭水の太夫なら死んでもよかとじゃけん」
「ほら、ぬしがあんまり妙ちきりんのことばいうけん、曲がらんちゃよかとこば曲がらしたたい。……」
見世物でも見るように、間近にくっついて離れなかった二人連れがやっと去ったかと思うと、今度は醤油と味噌を売る店から小僧や番頭までが飛びだす。それから通せんぼするような恰好で傘をのぞき込む女房や娘たち。こんなことなら廻り道に踏み込んだりせず、真っ直ぐ行けばよかったと悔みながら、尾崎は耳に栓をした。そしてやっと本石灰町に通じる橋を渡り終えた時、「盗《ぬす》っ人《と》だ、つかまえてくれっ」という声がきこえた。
人影がひとつ脱兎のごとく川沿いの道を油屋町の路地に逃げ込むのが見え、その後を両手を振り上げるようにして手代風の男がそれを追いかけて行く。
「早か早か。一方は牢《ろう》屋のかかっとるとだけん、あれじゃとてもつかまらんな」
尾崎が声の方を向くと僧衣をまとった三十歳ばかりの男がにたりとした。
「何ば泥棒したとですか」尾崎はついそうきいた。
「それはわからん。あんたと同じ、おれもいま見たばかりだけんな。盗っ人の現場には初めてお目にかかったけん、たまげとるとたい」
尾崎はなぜかおかしくなって、口許をゆるめた。
「あんたは丸山のひとか」
「はい」
「名前は何というとね」
「蘭水の尾崎といいますと」
「蘭水の尾崎か。さすがによか名前ばつけとるたい。何かしらん、愁いば含んどる響きば持っとる」
「さすがといわにゃならんとはおうちでっしょ。上手かことばすらっといいなさるとだけん」
思わず口からでてしまう言葉に、尾崎は自分でもあきれる。路傍だというのに、易々と相手の台詞《せりふ》に乗ってしまうとは。
「高かとやろうな。あんたをひと晩しゃんすにするためにはいくらばかりかかるか、大体のところば教えてくれんか」
長崎弁らしきものを使っているが、相手の口調はまるで違う。尾崎は黙って頭を振った。
「そうか、乞食坊主には手もだせん位にかかるか」
「坊さんのくせに、わるのことは考えなはらん方がよか」
「何の、遊ぶ時はどっかの殿様のごたる素振りばして行くとだけんな。ぱりっとして」
「すぐばれると。尻は隠しても頭隠さずになるとでっしょ」
「尻隠して頭隠さずか。やられたな、こいつは一本」
坊主は大袈裟にぽんぽんと自分のぼそぼそとした不精な頭を叩いた。