奇妙に静まり返っていて、しかも落ち着きのない空気が染田屋の夜を被《おお》っていた。宵の口にあがった鹿島の庄屋たちの宴席はおよそ野卑をきわめており、呼子《よぶこ》の網元衆だというもうひとつの酒盛りもまたそれに劣らぬ程のものであったらしく、宴がはねた後、夫々《それぞれ》の相方を勤めねばならぬ女たちは皆、うんざりした顔をしていた。酔い振りのあれこれで、大体寝間のさまも見当がつくのだ。勘定はあらかじめこみで仕切ってあるので、分以上に楽しまねば損だという様子がありありと窺《うかが》え、その癖けちな祝儀で自分だけ特別扱いになったつもりの客は、眠る間も惜しんで手をのばしてくる。
太夫《たゆう》の尾崎はむろん、それらの成り行きとは無縁なのだが、木原昇と名乗る初会の男の振る舞いも変わっていて、半刻もすれば戻るというなり、亥《い》の刻(午後十時)を過ぎても姿を見せぬのであった。
それにもまして尾崎の心をそこに向けさせるのは、屋根裏部屋へ監禁されたというくら橋のことである。日暮れて間もなく椛島町の界隈をうろうろしていた朋輩《ほうばい》をつかまえた遣手《やりて》のいきさつを、尾崎は賄方のしげからきいていた。
「……雨ん中ば、傘も差さんと、濡れ鼠のごとなってよたよた歩いとんなさったそうですばい。こりゃさくさんの話ばってん、何か海岸の方を白かもんの通って行くなと思うとったら、それがくら橋さんじゃったそうですと。……そん時の足どりがあんまりふわふわしとるので、声もかけられんごたる気色で黙ってみとったら、すうっと増屋の方へ近づいて行くので、こりゃいかんと思うて慌てて呼び止めたら、くら橋さんは黙ってさくさんの方をみなさって、そん姿がなんか生きとる人間じゃなかごたったというとんなさった。……」
「そいじゃまだ、くら橋さんは増屋を訪ねる前に、さくさんに見つけられたとへ」
「そん時はさくさんに見つかったとだけん駄目でしたろうが、その前に二度か三度か増屋には訪ねて行っとんなさるらしかですよ」
「二度か三度。……それでくら橋さんは相手に会いなさったとやろうか」
「そのことばってん、番頭さんは仕事の旅にでとんなさるそうですたい」
「旅にでとんなさるとに、どんげんしてくら橋さんは二度も三度も増屋を訪ねなさったとね」尾崎はいう。
「その辺はようとわからんとですばってん、さくさんがそんげんこつをいうとんなはったと。増屋に行ったら、店の者がそういいなさったげな。そういう話ですたい」
「増屋に行ったというのはさくさんのこと」
「そがんです。さくさんが何度も近所を行ったり来たりした末に、直接増屋を訪ねなさった時は、もう先にくら橋さんはそこに二度か三度は行っとんなさって、店の人からはさんざん嫌味をいわれたらしかとですよ。旅にでとる者を訪ねてきて、いくら留守だというてもどうとか、染田屋は店の女をどんなふうにしつけとるのかとか、大分毒づかれたというとられたけんね」
「そいじゃ、くら橋さんが何度も増屋に行かれたのを知っていて、さくさんは近辺に待ち伏せしとんなさったとへ」
「大方そうですたい。番頭さんが旅にでとんなさると知って、三度も訪ねなさったとだから、もう一回位はきなさるかもしれんと、思われたとじゃなかでっしょか。……さくさんが声をかけたのに、返事もせんと、振り返るなりじっとしとんなさるから、何かぞっとするような塩梅だったらしかとですよ」
「相手の七十郎さんは、ほんなこつ旅にでとんなさったとね」
「それはそうでっしょ。店でそんげんふうに答えたといいますけんね。……」しげはそこまでいうと、ふっと気づいたように言葉を裏返した。「ひょっとすると、旅にでとるというのはすらごとで、そいば知っとんなさったけん、くら橋さんは何度も増屋に行きなさったとかもしれんですたい。ほんなこつ番頭さんが留守だとわかっとるのなら、そんげんふうに、濡れ鼠のごとなってまで、くら橋さんが増屋の近辺をうろつくはずもなかですもんね」
「そいで、いまはどんげんふうね」
「どんげんといいますと」
「屋根裏に閉じこめられとんなさっとでしょ。そいからこっち、あんじゃえもんしゃんの仕打ちたい」
「仕打ちも何も、あんじゃえもんしゃんはくら橋さんに会いもしなはらんと、じっと自分の部屋においでなさっと。……店のもんの手前もあるし、あんお方のことだけん、どんげん処置ばとったらよかか、次ん次のことまで考えとんなさっとでっしょ。どっちみち、マタロス行きはきまっとるとでっしょが、今日んことは目ばつぶってそのままというわけにもいかんと思いますたい。増屋さんに迷惑ばかけたこともあるし、椛島町界隈ば気違いか幽霊のごとうろついて、染田屋の名ば傷つけた咎《とが》もある。明日になればまたどんげんした噂を立てられとるか知れまっせんけんね。ひょっとするとひょっとで、思い切った仕打ちば考えとらすかもわからんとですよ」
「思い切った仕打ちちゃ何ね」
「丸山から追い出して、何処かほかの遊廓《ゆうかく》にやって仕舞われることですたい。此処のあんじゃえもんしゃんはそん位のことはやりかねなさらんとだから、そんげんことにでもなったらくら橋さんもよっぽどふのわるかとですよ」
「いくら何でもそんげんこつ……」尾崎はいう。「あんじゃえもんしゃんにうちがとりなしてみまっしょか」
きいた途端、それだけは止《や》めろというふうにしげは大きく頭を振った。いくら太夫でも朋輩女郎の処遇に口だしはできない極まりなのだ。
尾崎は床の間の脇に掛けられた砂時計を見た。江戸弁の客が外出してからすでにひと刻近い時刻が経過している。初会だというのにいきなり太夫を相方にできるのはよほどの客か、主人太兵衛に通じた者であろうが、蘭水にあがるのはむしろみせかけで、目的は案外不在の間に果たされているのかもしれぬ。
又聞きではなく、遣手のさくからじかに、増屋を訪ねてきいたというその辺のいきさつを確かめたいのだが、気儘《きまま》な行いをするわけにもいかず、尾崎はひとつところにない気持ちを繋《つな》ごうとして三味線を手にした。外海の角力《すもう》灘《なだ》に面する黒崎や神浦で歌われる子どものあそびうた。
隠せ、隠せ、だいが顔隠す
いうならなんとしょ
桃ん木の蔭に
茶碗がひとつ
隠せ、隠せ、だいが尻隠す
お前ならなんとしょ
パッパの帆舟
丸にヤの字
それは一年程前、年季奉公にくると間もなく病気になり、親元に引き取られた童に習い覚えたうたである。丸にヤの字を印にしたパッパの帆舟とは、宣教師の到来を待ち望む切支丹信徒の心情をあらわすことを後で知ったが、旋律だけでも三味線で弾くと、何ともいえず物悲しい想いがこもるのだ。
ととう(父さん)、かっつう(鰹節《かつおぶし》)かあむ
ととう、かっつうかあむ
隠れろ隠れろ山ん目から隠れろ
逃れろ逃れろ海ん目から逃れろ
鰹節を食べると咳《せき》をしないということから、隠れの子供たちが父親に鰹節をねだる。役人がきたので早く食べさせろという本来の意味がそこに重なり合う。そのわけもまた町役人の年寄からきいたものだが、三本の絃《げん》を爪弾《つまび》きながら、濁り酒で酔うと時偶《ときたま》よほど機嫌のよい晩に口ずさむ父親庫太のうたを思い浮かべた。
坊《ぼん》さん坊さんなぜ泣くの、親もおらずに子もおらず、たったひとりの坊さんが、山からこっそりおりてきて、四十九日がきたならば、信玄袋に重みがござる、人がちょいと見てちょいとかくす。……
白い蝶々は地蔵の鼻に、黒か蝶々は地蔵の耳に、きなか蝶々は地蔵のよだれ掛け
とまったとまった、三羽の蝶がとまった
三羽とまったら地蔵も地獄
蛇《じや》に化けた
「ととのうたはようとわけのわからんごたる。蝶々が三羽、お地蔵さんにとまると、なして地獄になるとね」
「地蔵さんの立っとらす場所をお美代は知っとるやろうが」
「お地蔵は大抵、分かれ道の傍《そば》か太か木の蔭に立っとらすと。何処じゃったか、堤の近くでも見たことがあっとよ」
「左の道へ行けば地獄、右の坂を上がれば極楽。地蔵さんは大概、そげんふうな分かれ道のところに立っとんなさる。お美代のいう通りたい。……人の歩いて行く時は、そいけん地蔵さんにようきいて、どっちの道ば歩いて行ったらよかとか、念には念を入れて確かむるとたい」
「あたいのききよるとは、お地蔵さんがなして地獄になったり蛇に化けたりするとか、そのわけばききよると」
「地蔵さんがおらすけんちゅうて安心しとったらいかん。こん世の中は何時《い つ》、どげな時分に災いが降りかかるとも限らん。仏のごたる人間じゃと思うとったら、腹ん中で包丁砥《と》いどったという話もあるとじゃけんな。きっとそいば歌うとっとよ」
「腹ん中で包丁砥ぐとは、どがんこと。一層わからんごとなってしもうた」
「子どものうちはわからんでも、だんだん大人になるうちにわかってくることたい。ひとの心は何時も他人のよかべべ(着物)をねたんどる。そがんふうに考えればよっぽどあさましかとよ」
「お地蔵さんはひょっとしたら蝶々ばあんまり好かれんとかもしれんね。黙って立っとるとに、耳やら鼻やら勝手に飛びまわられたら、こん畜生と思わすとかもしれん。……」
「そうたい、そうたい。あんまり蝶々がわがもん顔に飛びよるから、地蔵さんの怒らしたとたい。お美代はほんなこつ利口かな」
爪弾きの手を休めると、遠くの方からさびた歌声が屋根を伝ってくる。耳をすますと新内でもあろうか、それはかすかに銅吹屋の石垣を洗う波にさえ似てきこえ、坂道の段を踏む下駄音がひとつふたつ、からんとそれにまじる。
珍しく足音をたてず、小藤の声がした。
「太夫に、旦那さまの言伝てば持ってきましたと」
誰かに言葉遣いをたしなめられでもしたのか、禿《かむろ》の口調は固い。
「入っとくるとよか」
小藤は柄にもなく両膝《ひざ》を揃《そろ》え、仕込まれている通りの作法をした。
「言伝てばききまっしょか」
「今でのうしてもよかばってん、手のあいた時にちょっと部屋まできてくれんかというとんなはった」
「いうとられました。……」
尾崎は禿の言葉遣いを修正した。すると小藤の後に今度は遣手のさくが顔をみせたのだ。
「あんじゃえもんしゃんの呼んどんなはりますよ」
「いま、うちがそういうとりましたと」
「なんな、その口は……」
去って行く小藤の背中に向けてさくは宙に拳《こぶし》を振った。
「何時もいらん口の多かと」さくは禿を難ずる言葉を前おきにして、部屋の中を一瞥した。
「こん頃は風の変わっとるお客ばっかり」
それには応ぜず尾崎はいちばん気にかかることをただした。
「くら橋さんはずっと屋根裏におらすとね」
「あんじゃえもんしゃんは日頃になかごと腹ばかいとんなさるけん」さくはいう。「あれだけ、丁寧にことわりばいわんねというとるとに、ただ、すんまっせんだけで、口ばつぐんどれば、腹の抑えようもなかとでっしょ」
「くら橋さんは増屋を何度も訪ねらしたというけど、ほんなことね」
「ほんなこつもほんなこつ」さくはいう。「七十郎さんは伊万里行きでおらんというのに、三度も訪ねて見えた。二度目ん時まではまだなんかそれなりに普通の喋り方やったが、三度目はもう身振りももののいい方も気違いのごとなっとって、七十郎が奥に隠れとることは見通しだとか、そんげんことまで口走ったそうで、うちまでが散々二の句のつげんごと怒られましたと」
「そいじゃさくさんが見つけたというのは、三度目の時ね」
「うちがつかまえたとは、まあだ後ですたい。あの分ならまたくるかもしれんな、と増屋のひとにいわれて、そんげんことにでもなったら恥の上塗りだと思いましたけんね。雨の降る中をじっと待っとったら、案の定、くら橋さんの暗闇ん中からすっとあらわれらしたとですよ。傘も差さずに、肩袖から裾までびしょ濡れで、うちが声をかけても、じっとそこに突っ立ったまま、返事もなかとだから、うちはもうほんなこつ、いっぺんどうにかなったひとの浮かび上がらしたかもしれんと思うた位、ぞっとしたとです」
「よっぽど思いつめとんなさったとたいね、そりゃ、そいでも七十郎さんはどんげんして、くら橋さんに会わんごとしなさったとやろか」
「あんひとは、伊万里に旅しとんなさるとですよ」
「そりゃ店の者のいうたことでっしょ」
「そいじゃ太夫は、七十郎さんは今日でも増屋におんなさるといわれるとですか」
「そうはいいまっせん。……そいでもくら橋さんが可哀相でならんと。ああたもそがんふうに思われるとでっしょ」
「うちは別のことを考えとりますと」さくははっきりした口調で尾崎の言葉を押し返した。「何ちゅうても、くら橋さんは丸山のおなごですけんね。親がかりの小娘とは違うとですばい。いくら好いていいかわした男というても、どっちみち相手は寝床ひとつにいくらと銭ば払うお客ですけんね。そこんところの分別ば見極めずに、足の遠うならしたとはどんげんしたわけかと、いちいち押し掛けて行きよったら、こりゃもう染田屋も格子もなかごとなってしまう。この前ぬしさんはどんげん誓文ばかわしたとへ、なんちゅう責め方は、寝間の所作には通用しても、天道さんのでとるうちにゃ、もぐらになっとらにゃいかん文句ですたい。……」
「くら橋さんと七十郎さんの仲は、もぐらじゃなかったとよ」尾崎はいう。「そりゃああたのいう通り、丸山のおなごは寝床ひとついくらと銭で売り買いしとるかもしれんけど、そいだけに大事にしとるものがあるとじゃなかとへ。好いとる好かれとるがうわべだけのきまり文句なら、裸のまんまの気持ちはなおさら変えられんとよ。……」
「太夫と並は違いますけんね。格子でもおんなじですたい」さくはこともなげにいい放つ。「尾崎さんのことをかれこれいうたとじゃなかとですよ」
「体の売り買いは、それこそ太夫も並もおんなじでっしょ。うちがいうとるのは、銭金とは別のこと。……増屋を訪ねなはったくら橋さんの気持ちを汲《く》んであげなんせというとると」
「あのお客はかんにんというて、太夫ならいえますばってん、格子や並にゃそうはいきまっせんけんね。そんげん素振りでもみせようもんなら、それこそお仕舞いですたい」
「話の筋道が違うとよ。……」
尾崎はなおもいいかけようとして止めた。それ以上さくと言い争っても仕方がないのだ。おためごかしはいうなというふうに、遣手はぷいと横を向く。