石段を踏む足音が今にもきこえはせぬかと気遣いながら、きわは酒の肴に添える鰺《あじ》の糸切りを和《あ》えた胡瓜《きゆうり》の酢のものをこしらえていた。所帯とはいえぬまでも、井吹重平と同棲《どうせい》するようになってから一カ月余、それまでとはまるっきり質の違う暮らしのなかで、ただひとつの不安は彼の身辺に異状が起こることと、亡くなった母の血筋を引く、体の変調であった。
いまのところ、多少疲れは残っても体の具合にこれという黒い兆しは見えぬ。ただ、井吹重平の隠された仕事を推測するにつれて、何も告げずいきなり自分の前から姿をくらます際のことを思うにつけ、そういう不意の事態に対する恐れと戦《おのの》きは日を追うごとに増していた。
今日も昼食《ひるげ》をとった後、しばらくの休憩時刻の合間に、医学所の伝習生が近寄ってくると、さりげなくこういったのだ。
「ぬしは薬師寺近くの英語塾に通うとるときいたが、ほんなこつね」
「はい。まあだ、何もわからんとですばってん」
「大層羽振りのよかひとの後についとらすげなな。そんげんひとのしゃんすになっとって、なしてわざわざ付き添いばせんならんとか、養生所の七不思議とみんないうとるばい」
「夢でんみなさったとですか」きわは応じた。「そんげんよかひとのおらすとなら、うちは付き添いじゃのうして、医学所の方に入れて貰いますと」
「いやいや、そのうち案外そうなるかもしれんぞ。どうしてどうして、ぬしは利口者じゃけんな」
医学所の伝習生には珍しく、地元出身の若者で、町医者の次男ということである。名は平井進吾。きくところによると、去年の暮れ、諸藩の役医師に限らず町医師の子弟も医学伝習を受けられるという、奉行所の市中及び郷中の布告に応じた伝習生のひとりだ。文久二年(一八六二年)帰国したポンペと交替に来朝したオランダ陸軍一等軍医ア・エフ・ボードウインの医学教育奨励を願う上申によって、医学所はそれまでになく門戸を開いたのであった。
根は人がいいのだが、平井進吾は妙にひがみっぽく、同輩や先輩を殊更芸子や遊女の誰彼と結びつけては、噂を煽《あお》り立てていた。
「今に、こんオランダ語はどんげんふうに訳したらよかかちゅうて、ぬしに教えば乞わにゃいかんことになるかもしれんぞ。皆川塾じゃ大層秀才で鳴らしとるというじゃなかね」
「そんげんこと……」きわはいった。「まだ碌《ろく》に英語の文字も読めまっせんとに」
「いや、そげな話でもなかったばい。おいの耳ん中には帆の張っとるけん、なんでんきこえてくると。ガランドファーザルの間違いば指摘して、代行先生のお面ば一本とったというじゃなかね」
「とんでもなか。……あれはただ、発音の仕方ばたずねただけですけん。そげんお面とかいうことじゃありまっせんと」
「何にしても大したもんたい。居留地にえらい顔のきくひとの後ろ楯になっとらすそうだけん、並の先生じゃ勤まらんやろうと、みんな羨ましがっとるとよ」
胡瓜をおさえた指に危うく包丁をひっかけそうになって、きわは首をのばした。赤子をあやす声にまじって、ふっと誰か近づいてくるような気配を感じたのである。しかし、それっきり石段は鳴らず、赤子の泣き声もやがて消えた。
身を開いた鰯の生干しと、焼き茄子《な す》の準備、それに呉汁《ごじる》(磨《す》り大豆の味噌汁)を鍋《なべ》にかける用意はすでに一刻も前からできている。五ツ(午後八時)以後は待たずともよいといわれていても、自分ひとりでものを食べる気持ちになれないのだ。
酢のものを入れた小鉢を布をかぶせた膳に並べると、きわは一旦戸口に立って外を窺《うかが》ったが、ふたたび部屋に戻って塾の教本を写した筆記帳を開いた。医学所の学生にからかわれたGrand-father, Grandmotherという単語もそこに記されている。
阿蘭陀《オランダ》小通詞《つうじ》並だという皆川塾の代稽古をする梅塚左兵衛が、オランダ風にそれをガランドファーザル、ガランドモーザルと発音したので、きわはグランドファーザーとの比較をただしたのだ。むろんそれは井吹重平の所持する『和英商売対話集初編』から得た知識であった。
「おぬしのいうそのグランドファーザーと発音する根拠は何処からきとるとね」
きわは和英の対話集をみせて貰ったことがあると答え、あえて具体的に本の名前と所在を明らかにしなかった。それを持ち出すと見せろといわれた時に断われなくなるし、自分ひとりの虎の巻にしておきたいという、利己的な思いもそこに含まれていた。
「そりゃ地方によっちゃそんげん発音をするところもあるかもしれんな。何ちゅうてもイギリスは世界にまたがっとる国じゃけんね。日本のごたる国でも薩摩と長州じゃまるっきり言葉も違う。あれでよう通じ合うと思うぐらいじゃけんね。……ガランドファーザルとグランドファーザーと、肝心の相手にどっちが通じやすかか、今度いっぺん試しておこう。グランドファーザーというても、恐らく相手はぽかんとしとるんじゃないかな」
話はそれだけのことである。平井進吾がそれをいうのは、皆川塾に通う医学所の学生にきいたに違いないにしても、大層羽振りのよかひとのしゃんすだといい、居留地に顔のきくひとの後ろ楯になっとらすという情報は何処からでているのか。そんな口のきき方をする以上、医学所のなかにその手の噂が流れていると考えねばならぬが、井吹重平と住むこの家の有り様を、誰かに見られでもしたのだろうか。
きわはさらに別の筆記帳に挟んだ日記の写しを取り出した。ポンペから直接解剖学を学んだのをことごとに自慢する養生所の見習い医師、棚橋源一郎から借用した、友人関寛斎の医学雑記の写しである。何よりも井吹重平にそれを読ませたかったし、医学伝習生の大胆な実験と熱心な勉学の態度を、自分もしっかりと心に刻んでおきたかったのだ。
文久元年二月十一日、晴。
三日前より眼解剖書を読む、牛眼に於《おい》て検すること恰好せりと、由《よつ》て暁課を終りて大浦英館の牛商に行くに、二戸あり一は英人に売り一は日本人に売る、由て肉を請ひ且眼を乞ふ、然るに明午後三牛を屠《ほふ》る故に来れと、英国人に売る商戸にて懇望せしも許さず、皈《かへりし》後《のち》牛肉を喫す極めて美。
同十五日、曇、課業平日の如し。
午後八つ時より大浦の英商牛肉店に至り牛眼を乞ふ、許す、予自ら両眼を剔出《てきしゆつ》す、今日四つ時屠る物と、牛肉と牛眼にて五百文遣す、皈らんとする時英人三人食に初らんとする様子にて、我に牛肉を食するやを問ふ、答へて大に好むと、英人来り食せと云ふ、由て英人と円座して牛肉の炙《あぶり》一皿、芋一皿、生葱《なまねぎ》一皿、ソイケル一皿、牛脂一皿各個に一枚づゝ皿を持し、我にハーカと食物を与へて食はしむ、然れども事初めてハーカを用ふる故甚《はなは》だ不都合なり。英人予に教へて便利ならしむ、食後茶に白糖を和し或はホードルを和し与ふ、何《いず》れも佳味にて且つ胃部を助く。
同十七日、課業同前、晴。
一牛眼を解く、先に一眼(註《ちゆう》、教師)解く、次に予一眼を解く、初に鞏膜《きようまく》を横断して液虹体を見る、午後硝子《ガラス》体と水晶体の間際にベッチー管を見る、大さ人毛の上湿紙を掩《おほ》ふの大さなり、二日間火酒に浸して凝固を見るに便なり。
同二十四日、晴、課同前。
午後より英商牛肉舗に行く、但し先日の礼として蜜柑《みかん》十五、錦絵を贈る。
牛頭を乞ふ事を約して帰る、心臓を求めて帰り、後喫す、食前剖《さき》て三弁膜を見る、メース不快、レス(課業)を欠く、故に司馬氏に訳を乞、予筆記す。
同二十五日、晴、課同前。
メース、レスを欠く故に昨日の如く司馬凌海氏に乞ふ。
牛頭を乞ふが為《ため》に大浦に行く、不都合にて不得、明日を期す。
同二十八日、ゾンタク。
牛頭を剖て脳を観る、然れども死に当つて脳を打つに由て、頭蓋骨《ずがいこつ》破れ脳中に血液溢出す故に其《その》大体を見るのみ、故に一眼を解き六筋を見る、一眼は只眼嚢《がんのう》を見るのみ、且つ両耳を剔出し置く。
三月二日、晴、同前。
午前牛耳を解く、一耳は画餅《がべい》となる、由て又困苦して且八木氏の助に由て鼓膜、四小骨〓手殻《しよくしゆかく》を出す事を得たり。
同九日。晴、午前課を欠く。
昨夕長野君、佐々木君牛頭を齎《もたら》して来り由て頭を解て脳を観る、然れども血浸出して密なる事能《あた》はず、眼球を解く、後部より始め鞏膜を開き角膜を去り虹彩を各個に取り明らかに観る、八ツ時に終る、松メース(註、松本良順教師)橋本氏に往《ゆ》く復課休す。
三月十三日、曇、課同前。
午後より吉雄氏(註、圭斎)にて猫を殺す、中患(註、中途患者来)に至り体を乞ひ解いて脳を観る。
今度こそはっきり石段の音がしたので、きわは日記を膝《ひざ》においた。それでも戸口は開かず、胸苦しいまでの心を静めようとして、急須の冷めた茶を湯呑みに注ぐ。もうとうに五ツ半(午後九時)は過ぎていように、帰ってこぬ井吹重平の身を案じながら、わるい方へわるい方へと傾く推測から逃れようとして、一昨日の昼下がりに起きた養生所の騒動に気持ちを向けた。
最初年輩の夫婦者が患者受付に立ち、間もなくもうひとりの若い男があらわれたというのだが、二日前からの下痢で苦しんでいる訴えにもかかわらず、養生所の方でその診療を拒否したため、騒ぎが持ち上がったのである。
きわ自身、直接見聞きしたのは、小競《こぜ》り合いの後、さらに押し掛けてきた幾人かの男たちとのやりとりであったが、養生所側のいい分はどう考えてみても筋道を外れていた。
何も無料でみてくれというのではない、必要な銭はだすといっているのだといきまく男たちに対して、応待する役人は受付の時間は終わったの一点張りなのだ。
「時刻が過ぎたというのなら、なして前にきた時、受け付けてくれんやったとですか。こんひとたちが初めて此処にきた時は、まだ八ツ(午後二時)にもなっとらんというね。あとのもんがきたときもまだ八ツ半(午後三時)には大分間のあったというとる。それを断わっといて、今頃じゃ遅すぎるというのは、一体どんげんしたわけですか」
「養生所には養生所の規則やしきたりというものがあるんだ。それをわきまえぬ者があれこれいっても始まるまい。あれこれ横車を押すと、ためにならんぞ」
「だいも横車を押す者なぞおらんばい。おるたちはただ下痢の止まらんからみてくれんか、とそう頼んどるだけですけんね」
「養生所の規則やしきたりといわれましたばってん、そのしきたりちゃ何か、そいばきかせてくれまっせんか」
「お前ら、へぐら(釜黒、かまどに着く煙の煤《すす》、転じて町中のごみや汚物を扱う人々)のくせに、身分をわきまえろ。養生所はまともな生業《なりわい》を営んでおる者の治療でも手いっぱいなのだ。お前たちを受け付ける余裕も場所もない。……」
奉行所から出張している赤ら顔の役人は、圧し殺したような声でそういうと、そこに集まる人々は口々に喚き立てた。
「へぐらが養生所にきちゃならんという規則があるとならみせてくれんね」
「おるたちゃ、下痢もしちゃならんというとか」
「医者でもなかおうちが、奥に通じもせんで、なしてはなから断わるとですか。おるたちは今のことをいうとるとばい。明日や明後日のことじゃなかと。今の今、下痢で動くこともならん者を連れてきとるとに、そいば断わるという法はなかやろう。病気にゃへぐらも船乞食もなかとだけんね……」
「下痢をして加減のわるか時ははやり病かもしれんからすぐ届けでろと触ればだしたとは一体誰ね。うちたちゃ、そん下痢にかかったけん、こうやってきとるとですよ」
「いくらいえばわかるのか。養生所は番所じゃないぞ。……お前たち、これ以上勝手なことを申すと、奉行所をそしった咎でみんな引っくくるぞ。よいのか。……」
後からきたもうひとりの役人が叫ぶと、いい返そうとした男が身を折るようにして蹲《うずくま》った。「芝居がかった真似をしおって」と、喚く声がきわの耳を捉《とら》える。その時、日本人の医師や学生を従えて、ボードウインがあらわれたのだ。そしてそれまでの経緯を通詞を通して役人からきくと、てきぱきとした態度で、下痢患者全員を否応なく即刻、診療室に運ぶように命じた。
「さすがにオランダの医者は見所が違うな。ポンペでも同じ処置をとったろう。身分格式より、病気の種類や原因を重んずるやり方だ」
棚橋源一郎はそのようないい方をしたが、ボードウインがでてくるまで、諍《あらそ》いを制止するのはおろか、むしろ役人の側に身をおいていたのである。世の中も随分変わったものだぜ。へぐらが下痢をしたからどうにかしてくれとさ、というひとり言めいたいい草が何よりの証拠であった。
江戸に一年ばかり遊学していたといい、松浦藩出入りの商人を縁戚《えんせき》に持つ財力を背景に、藩医の養子に入ったとか侍の株を買ったという噂のでている男だ。
少しばかり揺れだした行灯の芯を整えると、きわは障子を開けて隣家の裏屋根越しに、二階家の端に鮮やかな明かりを灯《とも》す丸窓の部屋を眺めた。他の家と明かりの白さが違うのは、特別の菜種でも使っているのか、大抵の夜はそこに操り人形に似た踊りを復習《さ ら》う影が映る。平家とはいえ、片方を斜面の石垣に張りだした住居から見ると、ちょうど黒い海に浮かぶオランダかイギリス船を連想させた。
おかしゃま、旦那《だんなん》さんに何の難儀も降りかからんごと、助けてくんしゃい。きわは靄《もや》のかかった夜空に願いを掛ける。
おかしゃま、うちはこのままで充分過ぎるとだけんな。何にも変えんちゃよかと。しゃんすといわれようと何と噂されようと、一生しゃんすならそいだけでうれしか。ただ旦那さんばうちから取り上げんごとしとってくれなっせ。どんげん理屈をつけてもそいだけはききまっせんけんね。
旦那さんがどんげん生き方をされようと、うちは何処まででんついて行くとですよ。ほかにきれかひとのできなはっても、うちは黙って辛抱するつもり。……おかしゃま、井吹重平というおひとの危なか仕事ば守っとってやんしゃい。
白い丸窓からすうっとひとつの影が走り、それが消えると、すぐ先程とおなじ泣き声が上がる。冷んやりと湿った風は籠にでも運ばれるように、ひとかたまりになって、居ても立ってもおれぬきわの体を包む。