嘉平次はおよそどのような口実で、七十郎を連れだすというのか。垂れ下がる布地の隙間から差す海の光を肩に、茣蓙を外して坐りながら、露地は両手を膝におき、かすかな櫓《ろ》音に耳をすませていた。真昼時、嘉平次としめし合わせた海辺へでられたのも他人事のように思われ、出掛けに握らせた再度の銀粒を懐に、ようやく慌てふためいているに違いない遣手に対する気持ちさえ遠くの方に流れて行く。
気がかりは七十郎の旅立ちだが、そうでなければどうぞと、露地は信心もしていない金谷山菩提寺《ぼだいじ》の諸仏に祈った。この家のあんしゃまがどうぞ七十郎と会えますように。ただ一度、七十郎とひと晩泊まりの遠出を許されて深堀村まで足をのばした際、立ち寄った寺である。石作りの山門をくぐると両脇を松枝に被われたさして広くもない境内がひろがり、正面に建長年間に慈覚大師の彫刻になる薬師仏と脇侍《きようじ》十二神将を本尊として建立されたという本堂が年代そのままの重い構えを示していた。
往復とも船便を利用して、深堀村の磯遊びをした日のどれ程楽しかったことか。あらかじめ通達してあったらしく、岩場に突きだされた離れの部屋に調度も夜具も二人のためにきっちりと整えられ、半ば釣られた蚊帳《かや》を背に、寝もやらぬまま更けゆく夜を縁側で過ごした刻々。
「もうぬるうなったとでっしょ。熱かとば貰うてきまっしょか」
「いや、こん位でやめとこう。まあだこっちの徳利にまるまる残っとると」
「珍しか」
「珍しか。何が……」
「あんまり酔うとんなさらんし、何時もと勝手の違うとるごたる」
「海のせいじゃろう、大方。こんげん気持ちのよか風に吹かれて飲んだこつは、こいまでなかもんな。ひと晩きりじゃのうして、せめて三日でんよかけん、此処におりたかとたい」
「うちから先にいわれると困るとでっしょ。ほんなこつ先走りの早かと」
「ぬしこそ先走りたい。……まあだ明日になっとらんとだけん、そんげん文句は少し早うはなかとか」
「淋しか性分ですと。いちばんうれしか時に、もう夢から醒《さ》めた時のことばっかり思うとる。堪忍してやんしゃい」
「明日、右左に別るっとじゃなかとよ。同じ船で同じ波止場に戻るとばい。そいから先んことも、年季明けまでぬしさえ辛抱しとれば、二人でどんげんことでもできる。何べんもいうとることばってん、どうもおるの言葉を信用しとらんごたるな」
「怒りんさったとね、すらごとでっしょ」
「おるはほんなこつぬしば好いとるとばい。何が起ころうとぬしを離すもんじゃなか」
七十郎はすっと膝を寄せると、懐のなかに手を差し入れてきた。
「こいはしんからおるのもんじゃけんな。言い交わした通り、違《たが》えちゃならんばい」
「ああたのほかには誰も……」くら橋は思わず吐息を洩らす。「ああもう辛うなってきますけん、離して……」
七十郎は顔を胸に押しつけて乳首を吸い、それから唇と歯を耳たぶに移すと、のけ反らせた首筋に頬擦りした。
「ぬしの乳は愛らしかけんな。だいもかいも(誰も彼も)どまぐれよる(錯乱する)に極《き》まっとる。そいば考えただけでん、おるはこの辺の熱うなってくると」
「ひとの手は藁《わら》すぼ。ああたのぬくもりだけがうちの血にも体にも伝わるとですけんね。ああたのほかには誰も情をゆるした者はおらんとよ」
七十郎は黙って盃を口に持って行き、それを啜《すす》ると、「増屋の支店の、早う埒《らち》のあけばよかばってんね」といった。
「難しゅうなったとですか」
「博多より堺という話のあっとたい。時勢が時勢じゃけん、どんげんふうに転ぶかわからんと」
「堺でん何でん、こいといわれるところにうちはついて行きますけん」
「ぬしももうちっとあけんか」
「はい」
七十郎の注ぐ酒を受けてくら橋は口に含む。月の姿は見えぬが、岩場に踊る白い波しぶきは夜目にもくっきりと捉えられ、軒下の虫はまるで潮騒《しおさい》を恋うるように啼きつづけた。
「世界という言葉ばぬしは知っとるとや」
「いいえ」
「世界というとは、この世の中すべて、日本だけじゃのうして、オランダとアメリカ、それに清《シン》国まで、果ての果てまで全部のことたい」
「果ての果てまで……」
「そんげんこつ、そいが世界。そん世界の中でおるのおなごはぬしひとりと思うとると。おいは今、そいば誓うばい」
「そん言葉だけでよか。ああもう何にもいらんと。うちはもう死ぬまでああたから離れまっせん」
「旦那《だんなん》さんに頼めば何とかなるかもしれん。一年でも半年でん早う染田屋にかけ合うようにするけんね」
「どいだけでもうちは辛抱しますと」くら橋はそういうと股《もも》の辺りを指先で触れた。「そいでも年季の明けたら此処に朱ば入れたか。何ちゅう文字かわかんなさっとでっしょ」
七十郎の返事も待たず、くら橋はいう。
「世界。……そん文字ば彫ってくれというたら新橋町のとうらご(海鼠《なまこ》、刺青《いれずみ》師の渾名《あだな》)しゃんはどんげん顔ばさすやろか。ああ、うれしか」
世界の果てまで。露地は櫓音の行方を追いながら口許を指の裏で押す。言葉や口先のなんと虚《むな》しいことか。今年の二月、宵の口に前触れもなくあらわれた七十郎は、部屋に通るといきなり性急な所作にでた。禿がすぐきますばい、とその手を制して、「何かあったとですか」ときくくら橋に、七十郎はうっすらと涙さえ浮かべながら答えたのである。
「よんべからずっとぬしに会いとうしてたまらんやったと。なしてかおるにもようとわからんとばってん、そんげん気持ちになったとたい。……」
「うちも会いたかったと。……この前、増屋さんの接待の嬉野屋であるときいたけん、心待ちにしとったとですよ」
「あん時は旦那さんと一緒じゃったけん、それに船頭や舵《かじ》取りとの付き合いでどうにもならんやったと」
「今日は朝までよかとでっしょ」
「それが具合のわるかとたい。泊まりにつけるとはかまわんばってん、明日ん朝、出船のあっとたい。そいで六ツ(午前六時)までに店に入らにゃならんと。此処からまっすぐ店に行くわけにもいかんけんな」
「そんなら七ツ半(午前五時)まで」
「眠っとかにゃ仕事のできんばい」
「ちゃんと寝せてあげますけん。……しょうろうへんぶ(精霊とんぼ)のごとすうっときただけで消えなはると、うちの心がどんげん仕様もなか。ああたの顔ば見とる時だけうちは生きとるとよ」
「朝から晩まで、明日も明後日もずっと一緒におりたかな」
「そいはうちの言葉ですたい」
「ああ、ほんなこつぬしと一緒に博多にでん上方にでもでて、精一杯生きてみたかな。もう若うはなかばってん、ぬしとならまだひと働きもふた働きもできるばい。……」
「うちのことなら心配いらんとですよ。年季さえ明ければ、何処にでんこいといわれるところに飛んで行きますけん。どげん遠か国にでも、ああたとくらさるっとなら船底でんかまいまっせん」
その後、わずかひと月も経たぬうちに豹変《ひようへん》した七十郎とのやりとりがそうだったのだ。表の人声は嘉平次が戻ってきたのか。居ずまいを正そうとする露地の足首をちくりととげとも虫ともつかぬものが突き刺す。
開いた戸口の向こう側に立った人影は覗くような身振りで男か女か判別のつかぬ声をかけてきた。
「嘉平次の言伝《ことづ》てばい。早う船着き場まできなさるとよか」
「おおきに」
矢張り嘉平次は戻ってきたのだ。露地はつっと立ち上がると土間の履物を突っ掛けて表にでた。しかしそこにはもう誰も見当たらず、手桶《おけ》の前にしゃがんでいる幼女がぼんやりと顔を向けた。
海際に杭《くい》を並べた岸壁に艫《とも》の部分を縛りつけた廃船を小さな桟橋にした船着き場で、こちらを向いているのが嘉平次なら、横着けした船に坐っている者は誰か。七十郎という名前をそこにおくのをためらうような足どりで、露地は前に進んだ。瞬間、火矢にでも撃たれたような白い面。まぎれもなく七十郎。船の上に立つ男を抑えるべく交錯する嘉平次を目掛けて、露地はまっしぐらに走る。ぐらりとゆらぐ桟橋。
「離さんか。何の真似をすっとか」と、七十郎はかすれた声でおらぶ。
露地は船に乗り移ると、嘉平次に促されて、あらん限りの力を腕にこめて廃船の縁を押した。ゆっくりと扇状に船着き場との間隙《かんげき》をひろげて行く女と二人の男。
「手のこんだ真似をせんでも、話なら落ちついた場所で、いくらでもできるたい。早う船ば戻さんか」七十郎は露地の顔に眼を合わせようとせぬ。
「じっとしとかんと、船諸共《もろとも》になりますけんな」昨夜と同じ着物をまくって嘉平次は櫓を操る。「騙《だま》したことはわるかったばってん、ばはん(抜荷)の話でもせんと、とてもきちゃ貰えんと思うたと」
「伊万里に行っとんなさったときいとったばってん、今日はふのよかったでっしょ」露地の口から思いがけぬ言葉がすらりとでた。
「とにかくこんげんところじゃ何も話せんばい。ようとわかるごと話せば、何のこつはなかとだけん。……こんげんぬしにも似合わん真似ばして、一体何処に行くつもりな。……話しあえば、何でもみんなはっきりすることたい」
何のはっきりするとね。露地は胸の中でそういう。
「ずっと伊万里から博多に行っとって碌に話もできんやったけん、そりゃ誤解しとるのも無理のなかかもしれん。……旦那さんが勝手に断わりなさったという話もきいとるし、伊万里から文一本ださずにわるかったとも思うとる。そいでも、おるの方にしてみれば、おるの方でいい分もあると。……」
居留守を使い通したあげくに、稲佐行きも戻ったことも百も承知していながら、何ひとつ別れる話のいいわけからさえも逃れようとした男に、どんないい分があるというのか。露地は船縁《ふなべり》に添えた方の手で、胸元の襟を合わせた。
「おい、そんげん荒か漕ぎ方ばして、一体何処に船を向けるつもりや」七十郎は声を高めた。「通りがかりの船に助けでん呼べば忽《たちま》ち罪咎《つみとが》になるとぞ。わかってやっとるとじゃろうな」
助けば呼びなさるとよか。露地は心のうちで呟く。
「ぬしから早う船ば戻すごというてくれんか。ぬしの気のすむごと何でんするし、染田屋にでん話ばするつもりたい。すらごとじゃなか。染田屋には年季明けば早めてくれるごと、ちゃんと話ばつけるつもりやったとよ。さあ、こんげん海の上で、人の目にでん触れたらそいこそ取り返しのつかんごとなってしまうけんな。噂にでんなったらできる話もできんごとなってしまう。……ぬしの気性はわかっとるつもりだけん、いくらでも気のすむようにするたい。ほんなことをいえばみんな旦那さんの差し金やったと。……どう仕様もなかった。……おい、ぬしはきいとるとか」
港に寄せ引きする潮の流れに乗って、嘉平次の船は帆をはらませたように滑りながら戸町の外れにでる。それまで見たこともない形をした小型の唐人船の舷側《げんそく》を幾人かの水夫が洗っており、行き違いの二丁櫓が、何を勘違いしたのか、さかんに手を振ってからかう。
「旦那さんの差し金ちゅうてもそんげん難しかことじゃなかったと。一周忌の終わるまで辛抱してくれんか。世間体の何のと面倒なことをいうつもりはなかばってん、そいだけの喪には服さにゃならんばい。そいまではきっぱり文一本やりとりすることはならんぞ。……旦那さんからそいしこの念ば押されて、できまっせんとはいえんやろう。……」
やめときなはりまっせ、と露地は声を出さずにいう。
「そんげん身勝手なこつか、おれのいうとることが。いいわけもきかれん、きく耳も持たんというなら、そん間にぬしは何ばしとった。稲佐の、確かワシリエフとかいう魯西亜《ロ シ ヤ》の士官じゃったな」
「矢張り知っとんなさったとね」露地はしっかりと相手を見つめた。
「知っとったといわれちゃ何ばってん、伊万里から戻った時分、誰かそんげんこつを教えてくれた者のおったとたい。もう、かっと血の上ったごとなってな。折角おるが辛抱しとっとに……」
「世界という言葉ば覚えとんなはりますか」
いいかける男の声にかまわず露地は問うた。その辺り、波に逆らうのか嘉平次の漕ぐ櫓はひとしきりぎいぎいと鳴る。
「世界。……」それがどうしたというふうに、七十郎は怪訝な口ぶりで反復した。
「果ての果てまで。そん中でうちをいちばん好いとるといいなはった。あいはすらごとやったとですか」
「すらごとなもんか。そんことならようと覚えとるたい。深堀に遠出した時のことやろう。蚊帳にひっかかって転んだことでん何でん、ようと覚えとるばい」
「今も変わらんとへ」
「変わるもんか。……変わるはずもなかろう。……さあ、ぬしの気のすむごと、何でも約束するけん、機嫌ば直すとよか」
露地が躙《にじ》り寄ると船は大きく傾く。その拍子に切迫するものを感じたのか七十郎は声にならぬ悲鳴をあげた。露地はさらに被いかぶさるように男の体にぶつかって行く。
「何ばするとか、やめんか、おい。……おるには娘もおっとぞ」
「嘉平次さん、堪忍してくんしゃい、助けちゃならんとよ。……」
露地は咽喉を切るような声でそれだけ叫ぶと、七十郎にしがみついたまま、船端を波間に向かって崩れた。